2010年12月04日

ノーウェアボーイ ひとりっぼちのあいつ/愛なんてコードで弾けるぜ


ノーウェアボーイ
オフィシャルサイト

1961年のトゥイッケナムでジェニー・ミラーが屈託を育てていた頃、ビートルズはブライアン・エプスタインとリンゴ・スターというピースがすべて出揃ってまさにビッグバンを待つばかりだったわけで、そうしてみると1960年代初頭というのはビートルズに始まるスウィンギング・ロンドンが世界中を席巻する前夜ということで、おそらく『17歳の肖像』のノーウェアガールの彷徨には閉塞したユース・カルチャーの鬱屈も込められていたのだろうし、この辺りを俯瞰できていればいろいろと異なる風景も見えていたのかもしれないなと今さらながら思う。ただ、この映画に関してはジョン・レノンというフォームを借りてそうした異議申し立てをしているのかというと必ずしもそうではなく、わりと堅実なバイオグラフィーのラインを保ちながら一人の若者が自分の存在の枠を見定めていく話となっている点でこのビタースウィートはある程度予定調和にならざるを得ないのだけど、それはジョン・レノンという稀代のポップ・イコンのバイアスを排除して普遍を目指すなどという悪あがきは無意味だという監督の認識がもたらした“ある程度”であり、勝負を仕掛けているのはその若者を取り巻く関係性が浮沈する感情についてであることを考えれば、目論見は果たされていると言っていいと思う。そもそもこの映画を観ようと思ったのはクリスティン・スコット・トーマスがミミ伯母さんを演じているからで『ずっとあなたを愛してる』に続いての“姉”を、感情の決壊を強い意志で堰き止めながらもやはりどこか抉れてしまうという、ジョン以上に要となる役どころを静かに抑え込むような緊張で演じて、この映画をクリシェがつかまえようとするのを寄せつけないでいる。ジョンより一足先に音楽の修羅に足を突っ込んでエレガントに外れたガキとして登場するポールを演じたトーマス・ブローディ・サングスターも、出番は限定されつつもジョンと互角にナイーブとタフをシェイクしてみせてかなりキレ味がいい。ジョンとポールがソウルメイトの契りを結んだであろう或るシーン、一瞬あいた間に、ああここは絶対殴らなきゃダメだろうと思わせた後でやはりジョンがポールを殴り倒すのだけれど、ポールによれば実際にはそんなことはなかったらしいだけに、このフィクションをインサートした監督の慧眼がかなり効いていて、何よりこの時のアーロン・ジョンソンとトーマス・ブローディ・サングスターが人生の哀しみと怒りを共有したかのように同じ目つきをぶつけるのがたまらなく愛おしいし、これから先この2人が世界を相手に想像を絶する闘いを挑んでいったことを思うと、その勝利も別離も既に知ってしまっているだけに、加えて切なさも募ってくる。ビートルズに対して完全に門外漢な方にどれほどのフックがあるのか、あるいはディープなビートルズファンにとってトリビア的な満足度はいかほどなのか、その中間の曖昧なワタシには何とも言えないのだけれど、成長小説には不可欠な喪失と再生という点で死の匂いと旅立ちの光はきちんと手に入れている映画だと思うので、『17歳の肖像』の少々無邪気な片割れとして観ておくのもいいかもしれない。ちなみにアーロン・ジョンソンはこの映画の監督サム・テイラー=ウッドと婚約したようで、それについてまわるいろいろなあれこれはググっていただくとして、作中で見せた生みの母ジュリアとのエディプス全開な邂逅といい、そのあたりがこの俳優の本来持っている体質なのだとしたらこの映画はある種のドキュメントとしての糖度も持つわけで、そんな隙間から覗き込んでみるのもありかもよと付け加えておこうかと思う。

posted by orr_dg at 23:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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