2010年09月26日

テトロ/コッポラという名の恩讐


テトロ
第7回ラテンビート映画祭

モノクロの現実と彩色された幻想、特にモノクロの織りなす光と影の催眠性で映画にダイビングする酩酊は「胡蝶の夢」で始まったコッポラと映画との新たな相愛が依然蜜月にあることを示してそれを覗き見する快感にやはり陶然とする。まるでドイツ表現主義のような緊張と不穏に満ちたタイトルデザインから物語に入り込んだ瞬間、ベニーが降りてくるバスに冠された29の数字を見てニコラス・ローグ!と勝手につぶやいた後では、意気揚々と兄のアパートに向かうベニーの後ろ姿は既にノワールの傾いだ影に覆われて地獄巡りの約束がちらつき、まるでアテ書きされたようにテトロのデラシネを演じるヴィンセント・ギャロが続いて相克の幕を切って落とすことで、それ以降兄弟のそれが父と子のそれを、父と子のそれが一族のそれを芋づる式に引きずり出すコッポラ様式ともいえる自伝的投影がなされた舞台仕立てを、これはオレの物語だからどうしようとオレの勝手なのだとばかり、フィルムは豊かで深々とした引用に溢れつつ路地裏の娯楽に満ちた愉しい実験映画と化していく。例えばアパートでのベニーとテトロ、切り返しなど論外とばかりにベニーは壁に映ったテトロの影と、テトロは鏡台に映り込んだベニーの鏡像と撞着した会話を続け、街を歩けばジャームッシュの横移動まで記憶から引っぱりだされたあげく、おそらくはチャールズ・ロートンのアレまで焼き付けられていくし、テトロが車中で沈澱していくシーンの反射と明滅による前衛は怪奇にデモニッシュですらあって、こちらまで底無しの屈託に取り込まれそうになる。一方である種の定型を強要され続けた物語は、それら光と影の放埒に我慢ならなくなったのか自らサービス精神に満ちたどんでん返しを試みたあげく、コッポラが仕組んだ血の運命にハッピーエンドすら促して幕を閉じる。自らを浚ってみせた「胡蝶の夢」に引き続き、ここで手繰っているのは血族の轍ということになるのだけれど、抜き身の物語を徹底したアーティフィシャルで描くという作風はここで確立されると同時に既に美しい暴走を新たにしていて、その手練手管を尽くしての初期衝動は何かこうパンキッシュですらあるし、モノクロームでありながら異様に分厚い映像(特に父カルロの葬儀シーンの黒い階調!)と這いずり回るテーマ性にもかかわらずゴシックの闇に堕ちてしまわないのは、そうしたコッポラの感情の速度が勝っているからなのだろうと思う。それにしてもヴィンセント・ギャロ、マリベル・ベルドゥ(「天国の口、終りの楽園。」)、オールデン・エーレンライク(新人)という、実に適材適所ながらメインマーケットでの市場性など無視しまくったキャストとコッポラのコッポラによるコッポラのための映画にマーケットは目もくれなかったのか1500万ドルの製作費(これとてコッポラの持ち出しらしい)に対して総収入が260万ドルという空恐ろしい数字が挙がってきているようで、これが現在のコッポラにとってどの程度の修羅場なのか見当もつかないし何を担保に差し違えたのか分からないけれど、こうした捨て身の自爆だからこそ到達可能な映画であったことは間違いないし、コッポラが静かに暴れているという知らせに胸がザワッとした方は、コッポラの新作が一般公開されないという事態に備えて横浜と京都の希少な上映に足を運ぶことを強くお薦めすると同時に、ワタシも時間さえ許せば横浜でもう一度観ておきたいと思っている。
posted by orr_dg at 22:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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