2010年01月19日

かいじゅうたちのいるところ/ジャッカス完結篇


かいじゅうたちのいるところ
オフィシャルサイト

Karen Oが紡いだサウンドトラックにしろ夕方ちょっと前のような陽差しにしろ、そっと身を潜めるには心地良いマイナーコードにあふれているはずなのにいっかなそうならないのは、これがスパイク・ジョーンズにとってのアレに他ならないからで、ぼくは一人で歩くんだけど、でも今は一緒だよね、と走り出す世界のすり抜け方は子供たちに知らしめるというよりは彼が自分に言い聞かせているとしか思えない切実さがつまっていて、だからここに溢れる切なさはノスタルジーというよりはずっと続く喪失のメランコリーによるもので、ママに「ごめんなさい」と言って片が付くような話などではまったくない痛みが思いのほか沁みてくる。かいじゅうたちにしてもマックスの現実が断片的に投影された存在として描かれているせいでいちいちマックスと一緒になって右往左往してしまうから、いつまでたっても欠落を埋める甘い逃避願望としてのファンタジーにはなり得ないというか、そうなる寸前でわざと壊してしまうのはやはりこれが通過儀礼に他ならないからで、孤独は世界に対する独立宣言のようなものでそれがなされないうちは世界は迎え入れてくれないのだと、孤独の正体に気づいてはやる気持ちで島を出て行くマックスは、そうやって身を切るようにして世界と渡りをつけてきた(いる)スパイク・ジョーンズそのものなのだろうけれど、脱ぎ捨てられた抜け殻となって彼を見送るかいじゅうたち(浜辺のザ・ブルときたら…)もまた取り残されてしまう存在としての彼自身にも思えて、そうやってこの映画はモヤモヤと分裂し続けて落ち着きがない。今まではそういうあちらとこちらをあれこれ煙幕を張って描いてきたからこういう風なむき出し方に少し虚をつかれたのは確かだけど、それを今になってさらけ出した覚悟のようなものに募るのは(共感というには少し烈しい)愛しさだったりもする。でもそれは決して甘やかな感情ではないんだけどもね。
posted by orr_dg at 15:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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