2009年09月15日

ワイズマンを見る/アメリカを観る@ユーロスペース Part1 


Titicut Follies
チチカット・フォーリーズ/Titicut Follies (1967)

勝手にドキュメンタリーの極北を思い描いてたものだから、仮にこれが全てセットと役者の演技によるものだというオチがあったとしても全然驚かないくらい、自然で端正になされる映画的なやりとりとの落差というか誤差が奇妙な余韻になって残る。ワイズマンは社会派ドキュメンタリーと呼ばれるような何らかの主義主張の完遂や補佐を目指す作品としてこれを撮ったわけではないようだから告発でいきり立ったり実態に憤慨したりはこれっぽっちもしてなくて、ただただワタシ達の日常との並行世界としての現実を平熱のままにパッケージしたかったみたいだ。ちなみにさっき映画的なやりとりと言ったのはいわゆる“描写”というやつで、クローズアップにしろバストショットの切替によるリズムにしろカメラはまったく慌てている節がないので、ドキュメンタリーという言葉から想起されるようなカメラ(=撮影者)それ自体の意志にまかせた現実の臨場感みたいなものはあまり重要視してなくて、それが作品全体のスムースと言ってもいい手触りにつながってる気がするし、時間や場所にことさら寄りかかることもないせいか寓話の普遍性みたいなものまで持ち合わせてるのはフィクショナルな映画を観る愉しさと一緒。そもそもがあのオープニングをあのエンディングで閉じてる時点で愛すべき確信犯だったってことです。


高校
高校/High School(1968)

公開された年にヒットしていた「ドック・オブ・ベイ」が流れる中、郊外のというよりは街外れの荒んだ住宅街を映し出すオープニングを見て公民権運動やベトナム戦争などといった時代のトピックが教育の現場に与えた影響などといった予見を持つとわりかしきれいに肩透かしをくうことになる。社会意識というよりはアメリカ的イデオロギーを伝播する場としての側面を意識的に描いているようには思えるのだけれど、これはワイズマンがフォーカスしたというよりはこの時代の(白人率の高い)高校ではおしなべてこうした空気だったのだろうという気がする。たとえそれが大人(教師)と子供(生徒)という属性から生じる軋轢だったとしても、子供を大人扱いするという一見フェアとも思える詭弁で大人の論理に巻き込んでひざまずかせるという教育は宗主国(アメリカ)が属国をねじ伏せていくアメリカン・ウェイの刷り込みが既に行われているということでもあって、この根深さを考えるとリベラルがせいぜいカウンターとしてしか機能しない国の厄介さにあらためて思いが至る気がする。といったようなポイントは随所にあるにしても「チチカット・フォーリーズ」ほどには視点が広がる素材ではなかったせいか全体に散漫な印象がするのは、ワイズマンも途中で飽きちゃったからじゃないのかな。だからというか体育の授業でダンスする女子生徒のブルマをクローズアップで延々映し続けるショットの意味不明がけっこう不穏だったりもしてそれはそれで微妙に居心地悪くて愉しいんだけど、これに1200円払ったことの是非はまた別の話。
posted by orr_dg at 18:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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