記憶を拾い足跡を追い喪失を確かめ廃墟を巡る筆致にノスタルジーや憧憬が欠片もない理由と作家ゼーバルトが拠っていた場所の困難さが少し明かされたような気がする。砕かれ散った世界の欠片に映る記憶を紡ぐというよりは、その欠片を欠片のままに見出す直接性にこそ文学の切っ先を向けるべきであるというならば、ワタシはおそらく的確な読者でなかったような気もして「アウステルリッツ」新訳までにあれこれ再読して片づけねばならない宿題を出されたような気分。
結局はアルティザンかアーティストかという認識の問題になってしまうにしても、映画に捧げる黒澤明の無垢をプロデュースしマネージメントする人間が誰もいなかったのがそもそもの不幸であって、撮影現場でパラノイアに蝕まれ映画が崩壊していく様には彼の信奉者でなくても少しいたたまれなくなる。この本を読む限り20世紀フォックスもかなりの譲歩と忍耐をみせてたようだから、これは比較文化論的な軋轢とかいったものではなくて黒澤明が本来持ち合わせてしまった悲劇と不幸が噴出するお膳立てをハリウッドがしてしまったということのような気がする。また、黒澤明の抱えていた精神的な病理そのものが表現者としての特性に結びついていた的な記述に、こんなこと書いちゃっていいの?とちょっと驚いたりもしたんだけど、ワタシが知らなかっただけで既に『黒澤明の精神病理』という本まであるんだね。「照明器具落下事件」「夏服事件」「果たし状事件」「カーテンのしわ事件」「ヘルメット、ガードマン要求事件」「本棚事件」「ガラス割り事件」「壁塗り直し事件「壁壊し事件」。これらは京都太秦の東映撮影所で撮影中に起きた事件の数々で、“世界の黒澤”のイメージとこの物騒な事件とがどうにも結びつかないと言う方は是非一読を。
かつての作品にあったような喪失を代償として姿を現す“異界”からすると、もはやそうした言葉を使うのもためらわれるくらい境目はシームレスになって、越境すること自体に意味を持たせると言うよりは、あちら側で見つけた“世界のタフな歩き方”とでもいうような手触りが彼/彼女の隅々に満ちていく時の確信や覚醒の姿が魅力的なのであって、もちろんそれは脱スリップストリームを意図した結果とかそういうことでは全くなく、あえて言えばより奥地のマジックリアリズムに踏み込んでいく気配が楽しみで仕方がないということ。
posted by orr_dg at 12:35
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