2021年07月30日

最後にして最初の人類/星が継ぐもの

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未来から過去へ向かって放たれるメランコリーの在り処を、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児としての今作に探して見つけた気がしてしまう。最後の人類として、既に人間としての個別の感情を超えた存在であるはずが、それをワタシたち最初の人類に伝えようと意識を翻訳していく中で次第にこみ上げてこぼれ落ちる喪失への悲嘆は、最終的にワタシたちは存在を運命づけられた生命であることの独白でもあったように思える。石化した結晶のように映るスポメニックは果てしなく巨大な宇宙船の遺骸のようでもあり、そうしたミクロとマクロの交錯によって意識の正規化が真空の静けさのうちに行われていく。ヨハン・ヨハンソンの手がけるサウンドトラックが、感情の増幅ではなくそれを結晶化してその内部に共振する揺らぎでショットを覚醒していたことを考えると、この作品世界こそが彼の原風景であったようにも思え、ユートピアよりはこの宇宙に終焉があることを想像するのだというヨハン・ヨハンソンの幻視ならぬ幻音の永遠なる欠損が、この世界のバランスを少し狂わせたのだとティルダ・スウィントンが囁いた気がしてならないのだった。
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2021年07月23日

プロミシング・ヤング・ウーマン/たったひとつの冴えたXXかた

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※未見の方スルーを強く推奨

ポール・カージーでもハーレイ・クインでもない、カサンドラ/キャシー・トーマス(キャリー・マリガン)は“極めて前途有望な若者”だったからこそ、キャシーをキャシーたらしめるその豊かな知性と細やかな感情が、傾いだ世界の矯正係として送り狼を狩りたてるハンターへと彼女を仕立てたのだろう。しかし、復讐の呪いと狂気の快楽の間を危うく行き来しながらそのどちらにも喰われてしまうことなく、内部の激情を倦怠に隠しながら綱渡りするキャシーのメランコリーは、ほとんど崇拝といってもいいニナへの思慕というよりはサヴァイヴァーズ・ギルトのそれにも思われて、自罰の証明としての実質的な自殺とそれによってアル・モンロー(クリス・ローウェル)をニナへの供物とする究極のトラップをキャシーに発動させたのが、一度は彼女を救済するかに思えたライアン(ボー・バーナム)にすらぬぐえない男性性の歪みであったことを考えてみた時、むしろキャシーにとってそれはグリーン弁護士が言うところの啓示だったのではないかと、山奥でたった一人灰となって土に還ったキャシーにそよぐ風の静謐が、ようやく訪れた彼女の安寧を祝福した気もしたのだ。しかしこの物語は、カサンドラ・トーマスというかつて前途有望だった一人の若い女性がなぜああして人生の幕を閉じねばならなかったのか、その最期の日々を描いたのはもちろんのこと、それを追うことで施される呪いの話でもあるわけで、ダンスフロアで男たちが踊りくるうオープニング、カメラはその男たちがチノパンに隠す下半身を執拗にクロースアップし続けて、これはお前らとお前らがそこに隠すそれにまつわる物語であってできればあたしはそのすべてを無効化したいと考える、というキャシーの宣戦布告であったことが時を追うに連れ忘れがたく付いて回ることとなる。そしてキャシーの最期を見届けた今、ワタシたち男に刻印されたのは、自称いいやつ(I am a nice guy)はわるいやつ(a bad guy)というシンプルにして強力な呪いであり、その無自覚で無邪気な傲慢によって自身をa nice guyにロンダリングし続ける男たちの罪深さを知れば知るほど、キャシーが放ったこの呪いが彼らの悪性を晒していくのだろうことを考える。エメラルド・フェネルが手がけた『キリング・イヴ』のシーズン3とケイト・ショートランドによる『ブラック・ウィドウ』が共に放蕩娘の帰還と過去の清算であったことを思ってみれば、世界の自浄をあてにしない勢力が既に破壊から再構築に向けた新しいフェーズに足を踏み入れた気もして、この風が追い払った雲の向こうに広がる光景の輝度と硬度をワタシは待ちわびようと思うのだ。この映画の鏡像として『狩人の夜』を映しこむ目配せも芳しく、おぉとなって息を少し深く吸った。
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2021年07月17日

ライトハウス/ケロシン&シガレッツ

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※ネタバレといえばネタバレな記述があります

わしがお前の想像の産物だとは考えないのか。わしもこの島も、カナダの森で膝まで雪に埋もれて凍えながら吹雪の中を彷徨い歩くお前の頭の中の想像の産物だとは考えないのか。とトーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)ががなりたてては、これを胡蝶の夢などと愛でるつもりの勢力に先回りして冷や水をぶっかけるとともに、おれの名前はトーマス・ウェイクだ、トムと呼んでくれと独りごちた瞬間、むさくるしい髭がふちどる異形の相貌とあいまってトム・ウェイクをトム・ウェイツと空耳したこともあって、イーフレイム・ウィンズロー/トーマス・ハワード(ロバート・パティンソン)と二人してくり広げる狂気に関する禅問答のようなやりとりが、ゴシックホラー版『コーヒー&シガレッツ』とでもいうニューロティックなオフビートコメディとして懐に落ちていく気がしたのだ。閉所恐怖症的なフレームの仕掛けよりほか、ここにはこちらを脅かし蝕む実存の深刻はさほど見当たらず、ただひたすら狂気のプロフェッショナルがアマチュアを弄び甘噛みする露悪のスラップスティックを光と影の悪魔的な移ろいが催眠していくばかりで、それを高みの見物とばかり桟敷席で酩酊する居心地が悪かろうはずがないのである。屹立した燈台は言うまでもなくセリフにちりばめられた男性器に関する卑語や隠語が指し示すのは、イーフレイムを捉えて離さないオブセッション、それは彼のホモセクシャルというよりはより直截的なソドミーへの渇望と嫌悪にも思え、イーフレイムは何ゆえ本物のイーフレイム・ウィンズローを殺さねばならなかったのか、そのフラッシュバックにおいて美しい光の中で煌めくように描かれる彼の殺したイーフレイムの姿には深夜の告白が明かさない理由が潜む気もしたし、人魚の妄執を手助けにイーフレイムが発散させ続けねばならなかったリビドーの正体はたった一度ウェイクとのニアミスとして描かれて、彼を生き埋めにすることでそれを封じ込めはするものの、他に見咎めるものもいなくなったことでついにそびえ立つ灯台のてっぺんに昇ってしまったイーフレイムは、まるで宇宙の深淵からほとばしるかのような光の精に貫かれて目を焼かれ半死半生で恍惚と岩場に横たわり、それが本懐でもあったかのように片目のカモメとその群れがついばむにまかせるように肉体を差し出してみせるのだ。ただ、あのラストショットに悲痛や悲惨の影が差さないのは、理性と野生、自然と文明の境目がまだまだ荒削りで、うっかりそこに立つとこの世の真理が超高速で頭をかすめていく時代だったからこそ、イーフレイムですらが薄汚れたイカロスとしてたった20メートルとはいえ墜落の栄誉にあずかったように思ったからで、まあそういうことってあるよね、と思わず象さんのポットを真似てみたりもしたのだった。生き埋めにされるウェイクが次第に顔面が土に埋もれつつ長広舌の長回しでイーフレイムにプロメテウスの呪いを吐き続けるシーン、口の中にあとからあとから土が入りながらそれをもぐもぐと咀嚼すらしながら朗々とセリフは澱みなく、実はあのクロースアップで顔にかけられるのは微細に砕いて土くれに固めたチョコレートか何かではないのかとあたりをつけながら観てみればウィレム・デフォーの顔が心なしか嬉しげで、ああこの土がチョコレートだったならと心を飛ばすその益体のなさこそがいつしか人を灯台に昇らせるのではなかろうかと、それだけは確かに理解した。
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2021年07月09日

ゴジラvsコング/ただちに東京を破壊せよ

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“最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える”などと前作につけおいた注文が開口一番笑い飛ばされてはいるものの、しかしそれは、こんな底の抜けた便所の落書きみたいなシナリオでケツを拭かなきゃならないのであれば、手っ取り早い擬人化でドラマをショートカットして逃げ切るしかないと判断して私は今ここに立っています、というアダム・ウィンガードの誠実なマニフェストでもあったわけで、既に今季は「ゴジラS.P」で滋養あふれるゴジラ成分を摂取した余裕の身とあらば、かまわぬ良きにはからえといった気分でそれに手を叩くことも厭わないのである。それでもアダム・ウィンガードの爪痕を見つけるとするならばネオンカラーで彩った香港摩天楼と、あの子が乗っていやしないかと船内をのぞいて確認した後にHEAVEをぐしゃっと潰すコング、そして白目をむいてプルプルと震える小栗旬といったあたりで、人間ドラマは主役2人にまかせてあとは全員モブでいこう、といった低予算映画的な刈り込みがモンスターバース最短の113分というランタイムにも現れて、ジャンルへのノンシャランが絶妙な軽さと爽快を誘った点で、三池崇史が怪獣映画を撮ったらこんなだろうなとそのアルティザン的なドシャメシャに思いがけず肌が合ったのだ。それにしても、レジェンダリー案件ゆえなのか日本とアメリカの間をとってのことなのか、最終決戦の場が香港であったこと、そしてその摩天楼が壊滅的に破壊されるのをこの目で視ることの胸のざわつきは、ワタシたちは好むと好まざるとにかかわらず社会的な生き物で、その結果として政治から逃れることは困難であるという現実を不意打ちされたせいだったのだろうし、あそこで暴れているのが核と黒人奴隷の歴史が産み落としたイドの怪物であることを思い出してみれば、彼らが共闘して滅ぼしたあの不細工な金属の塊はワタシたちそのものだったに違いないのである。それよりは、主人の顔色をうかがって風向きを読むことに長け、涼しい顔で遁走に羽ばたき姿すら見せぬラドンこそがワタシたちにふさわしいのかもしれないけれど。
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2021年07月06日

スーパーノヴァ/誰がきみを一番愛してくれるのかわからない

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「なくなってしまうのが悲しいのなら、それは善いものだったということだ」「年老いた星は最期に巨大な花火のように爆発して粉々に散り、長い長い時間をかけて宇宙を旅したその星の欠片が私たちを形づくっていく」というタスカー(スタンリー・トゥッチ)のセリフと、残り数分にしてようやくスクリーンにあらわれる“SUPERNOVA”のタイトルがこの物語の公式な感情を伝えつつ、美しい光を放って夜空に輝くあの星が既に存在しないことをぼくは知っているけれど、それが輝く限りその光と欠片を集めてはぼくだけの星を押し頂いて生きていくのだというサム(コリン・ファース)の悲愴な決意は、「いまや僕は(人生の)乗客であって乗客ではない、なぜならその行先はぼくが行きたい場所ではないからだ」と冷静に知覚するタスカーの声にどこかしら耳をふさいだようにも思え、「愛の挨拶」を弾くラストシーンのサムは世界でたった一人タスカーのためだけにその旋律を紡ぎつつ、果たしてその時のタスカーにサムの音色やタッチが届くことがあるのかどうか、ほとばしる感情を倦んだ眼差しで押し殺すサムもまた彼岸の彼方を歩んでいるように映ったのだ。もうそこには君がいないとしても、ぼくには息をする君が在りさえすればいいのだとすべてをかなぐり捨てて懇願するサムのわななきは、かつて最愛の人を失って「ネクタイはウインザーノットで」と遺書までもしたためたある男が憑かれた孤独(シングル)のオブセッションを知ればこその狂気じみた切実であった気もするし、サムへの愛ゆえ尊厳を棄て文字通りの我が身を差し出すことを受け入れたタスカーの決断もまた新たな極北にあって、さっと冷ややかにうなじを撫でられる。そうしてみると、この映画がどこかしら起伏を失っているのはこれがサムとタスカーの死出の旅、すなわち二人で世界から消えてしまおうかという心中の道行きであったからなのだろうと、彷徨の果てにNYの片隅に消えたカレン・ダルトンの歌声がレクイエムのように誘いかけた瞬間に確信し、あとはもう生き霊のように透けていくばかりの二人なのだった。
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