2021年06月29日

グリード ファストファッション帝国の真実/ボノの歌を聴け

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グローバリズムと名乗る搾取の構造について言えば、ここで語られるのは誰もが知った気でいるその内実とさして変わらない念押しに過ぎず、とうことはおそらくこうした実態で間違いはないのだろうし、そこにあらためての新鮮味が見つかることはない。たとえばダニー・ボイルであれば、その下降するらせんのてっぺんとどん詰まりをポップな露悪で衝突させるマニックで病質を絞り出してぶちまけたかもしれず、しかし今さらそれをしたところでスコセッシ(『ウルフ・オブ・ウォールストリート』)の二番煎じでしかなかろうよと目端をきかせて手を出すことをしないそのテーマに、マイケル・ウィンターボトムはなぜ愚直と言ってもいい構えで斬りつけていったのか。そしてポップな露悪で衝突させるマニックをなぜ不発のままにしてみせたのか、それはこの物語が最終的にてっぺんのリチャード・マクリディ(スティーヴ・クーガン)の世界とどんづまりのアマンダ(ディニータ・ゴーヒル)の世界が揺るぎなく継続することを告げるラストに見てとれた気もして、ではその2つの世界の間で揺るぎ続けることで物語を推進させたのは誰だったのかを考えてみた時、監督が真の主役に据えたのはライターのニック(デビッド・ミッチェル)であったことに思い至りさえすれば、この物語の煮え切らなさと露悪に由来しない居心地の悪さの理由が腑に落ちる気もしたのだ。マクリディの伝記をまとめるライターとして彼の虚像を仕上げることに手を貸す一方、その偽善と搾取のシステムの直接的な被害者であるアマンダへの思いやりを失うことはなく、しかしその思いやりがマクリディと彼の世界への怒りに変換されることのないまま、俺は魂を売ったかもしれないが魂を売ったと言うことを知っている俺は本当に魂を売ったわけではないし、俺は手を汚して闘うことはしないけれど手を汚した人の秘密を黙っていることで俺も闘ったことになると考えたい、と安全地帯から目つきだけを変えてみせるニックこそは、揺るがぬてっぺんとどん詰まりの間で揺るぎつづけることでその2つの激突を吸収しながら支え続けるワタシたちそのものであることを監督は告げたのではなかったか。てっぺんのやつらが心を入れ替えることも、どん詰まりの人たちにそれをひっくり返す力などないこともよくわかっただろう、だからもしこのシステムを転覆させる可能性があるとしたら、それは無自覚の共犯者であるあなたたちにしかないのだと毎日が知った風な顔と口ぶりのワタシたちに突きつけながら、とはいえ自分もまたこの世界のニックたちの一人に過ぎないけれどというブーメランが誘う負け戦のメランコリーにマイケル・ウィンターボトムの黄昏を見るワタシもまた、いつからかその黄昏に包まれて気がつけば途方にくれている。
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2021年06月24日

クワイエット・プレイス 破られた沈黙/ものすごくうるさくて、ありえないほど優しい

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アヴァンタイトルのDAY1シークエンス、ドラッグストアの棚におかれたスペースシャトルの玩具が前作のアヴァンとの残酷な対比をなすことで、リーガン(ミリセント・シモンズ)の塞がらない傷口に塩をすりこむその痛みをワタシたちにすら呼び覚まし、それは取りも直さず彼女がシークエルの牽引者であることを新たな沈黙のうちに告げることとなる。この世界では何がセーフで何がアウトなのか、冷徹なはずのホラーサヴァイヴァルをドラマの熱情で恣意的に解凍する腰高にいささか鼻白んだ前作からしてみれば、弟を自らの過失(とリーガンは考えつづける)によって失い父は自分を守って命を散らし、ならばそうやって生き延びている自分にできることは何なのか、ホラーはあくまで発火装置としてセットしつつ喪失の呪いを贖うためにわが身を投げだすリーガンと、その同じ呪いに囚われたエメット(キリアン・マーフィー)を投入することで、運命に逆流する血のたぎりへと針を振り切ったジョン・クラシンスキーの渾身が胸を焦がす。そのリーガンとエメットのコンビネーションとて、擬似父娘としてしまえばたやすく発火できるところをあくまで対等なパートナーもしくはエメットをリーガンの従者とすることで(キリアン・マーフィーの青い目にかしずく者のメランコリーを見てとったキャスティングは慧眼と言える)、困難と無秩序の世界でアパシーと獣性に陥った大人たちに理性と知性こそが希望をつなぐことをつきつけるリーガンを烈しくそして健やかに掲げてみせている。そしてついに監督が物語への点火を解き放つラストシークエンス、海をはさんだむこうとこちらでリーガンとマーカス(ノア・ジュープ)の姉弟が繰り広げる死闘を串刺す火の吹きでるようなクロスカッティングは、まるでピンボールマシンの2つのバンパーの間を猛烈に行き来するボールが叩きつけるようにハイスコアを獲得して世界を更新する熱狂と覚醒の瞬間を捉えて離すことがない。不条理かつ暴力的に音を奪われた世界、それはリーガンが生きる世界そのものであったに違いないのだけれど、自分より他のすべての人たちにその奪われた音を取り戻すこと、それを成し遂げることでリーガン自身が世界の拠りどころとしての”A Quiet Place(静謐な場所)”となることを予感させて、ジョン・クラシンスキーの構想するトリロジーとしてこの物語が完結するとしたら、次なるシークエルでリーガンは喪失の呪縛を解き放った証として裸足を捨てて靴を履くのだろうと考えている。メクサムファッキンノイズ。
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2021年06月18日

Mr.ノーバディ/殺るか殺られないか

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「この素晴らしき世界/What A Wonderful World」が流れ始めた中盤、正直言って食傷気味なインサートだなあと思っていたら、普通なら最初の2つの有名なVerseで切り上げるところが、そのまま“空にかかった素敵な虹の色が、道行く人たちの顔にもあふれているよ”と始まるBridgeまでこの反戦歌は流れつづけ、それを歌うルイ・アームストロングの声を聴きながらカメラは虹ではなく真夜中の月を見上げてみせて、寄る辺なき修羅の世界を生き抜いてきたハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)にとって美しい月明かりだけが彼の世界を照らしていたことをそっと告げた気がしたのだ。とはいえ、普通の幸福を手に入れて愛する人たちと普通の人生を過ごす日々は確かに愛おしいけれど、俺が一番上手く踊れるのは底抜けに気のふれた悪党を相手にした時なんだよと、次第にハッチの方こそがユリアン・クズネツォフ(アクレイセイ・セレブリャコフ)に執着していくその姿に見つかるのは、かつてウェットワークに手を汚した自身への悔恨というよりもそうした過去ゆえに陥る歪んだミッドライフ・クライシスを打破するためのスリルジャンキー的な渇望で、そうした狂気の徴があればこそハッチは暴力の理由としてのメランコリーに喰われることなく逃げ切ることが可能だったのだろうし、バスでひと暴れして帰って来た夜、なんだか昔を思い出さないかとささやくハッチの脇腹に開いたナイフの刺し傷を接着剤を使って慣れた手つきでふさぐベッカ(コニー・ニールセン)もまた、地に足のつかない過去の激情を内部に飼う人間であることをうかがわせて、そのまなざしは流血する世界を優しく寛容に見つめる術を知っているかのように見えたりもしたのだ。身も蓋もなく言ってしまえば一人の男のオーヴァーキルな気晴らしにすぎないこの話を、俺には血も涙もあるけれど、そうした叙情よりは暴力の叙事にこそ平等と品性をみつけてしまうのだと、洗練のガンさばきとハンドルさばきで血と涙を振り切るダンディズムのそれに書き換えてしらを切れるのはボブ・オデンカークの逆流するペーソスのノンシャランあってこそで、それゆえか、これがコメディであることをガイダンスする役割を負った父デビッド(クリストファー・ロイド)の造型を少しばかりうるさく感じてしまうのが悔やまれることとなって、あえてタイプキャストを外したマイケル・アイアンサイドの持ち腐れを考えると、この2人が入れ替わったキャスティングを思い浮かべてみたりもしてしまう。カーチェイスシーンでチョイスされるパット・べネターが、全力で叩き出されるイージーの真骨頂となって血が頭に沸き昇る。
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2021年06月08日

アメリカン・ユートピア/天国に行けないあなたに

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「リメイン・イン・ライト」リリース時に渋谷陽一が張った植民地主義的なかっぱらいの論陣をおよそ30年前のロッキングオン読者は懐かしく想い出しもするのだけれど、そもそもロックが黒人音楽からどれだけのかっぱらいを働いてきたのかを冷静に考えてみれば、どちらかといえば渋谷陽一の批判は運命共同体としてのバンド幻想、あくまで自分たちのバンドのギタリストやベーシスト、ドラマーが手に入れたグルーヴこそを掲げるべきで、そうやってロックは突破してきたのではないかという苛立ちだったことがうかがえるし、その後たどったバンドの足取りを知ってみれば、決して民主的な運営が為されていたわけではないトーキング・ヘッズというバンドの楽曲を、いまや無敵のコスモポリタンとしてのデヴィッド・バーンが歌い上げる姿に何周かした後の皮肉をうっすらと感じたりもしたのである。都市生活者の憂鬱をスノッブ上等と痙攣して自虐するポストモダンが、アメリカの囚われ人としての上着を脱ぎ棄てるために必要とした裸足のポストコロニアルが世界を巡って帰還したアメリカでユートピア幻想を歌うその足元に、それはもうお見事としかいいようがなかったのだ。そして唯一手持ちに欠けた時代性をスパイク・リーとジャネール・モネイにあけっぴろげで頼る屈託のない完璧な風通しにはぐうの音も出ないわけで、これはもう皮肉でもなんでもなく、周到かつ綿密な戦略で遂行しなおかつそうと悟られない闊達をまとうスマートの凄味にひれ伏したのは言うまでもない。しかし、デヴィッド・バーンとスパイク・リーの共犯がもっとも辛辣かつ容赦なく行われるのはそのラストで、デヴィッド・バーンを先頭に客席を練り歩く楽隊に歓声をあげる、けっしてたやすくは入手はできないであろうチケットを手に詰めかけた白人客たちの自分たちは完全にデヴィッド・バーンの側にいることを信じて疑わない多幸感に包まれた表情は(もちろんスクリーンのこちらのワタシとてそこに接続されている)、ジャネール・モネイのカヴァーである「hell you talmbout」演奏時にインサートされる犠牲者たちの遺影と悪趣味とすら言える残酷な対比をなしていて、今ぼくがキミたちを連れ出したこの場所この瞬間こそがアメリカン・ユートピアなんだよねと笑わない目でにこやかに踊るデヴィッド・バーンがハーメルンの笛吹にも見えたのだった。
posted by orr_dg at 23:24 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月02日

ファーザー/私は誰だった

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見当識を失えば失うほど腕時計とフラットへの執着が妄執と化していくアンソニー(アンソニー・ホプキンス)に、時間と場所という座標軸を失った人間がいかにして寄る辺なき存在になっていくのか、認知症は死の恐怖を緩和する麻酔薬であるといった言説に否定や肯定を下す術など持たない自分ではあったものの、いつ終わるとも知れぬ走馬灯の暴走に蹂躙されるその間は死を怖れることすらままならないという点において有効な考えではあったことを、おそるべき彼方から知らされたように思ったのだ。父のことを想うアン(オリヴィア・コールマン)が現実に介入すればするほどアンソニーの記憶はさらなるシャッフルとカットアップに切り刻まれて氾濫するモザイクと化し、しかしアンは自分が波紋となって父が囚われるヴィジョンやサウンドの一切を識ることが叶わないという断絶が、これまでであればアンの哀しみと困惑の視点で描かれた物語の向こう側にアンソニーが彷徨する漆黒の宇宙空間の恐怖と混乱が存在する構造を成り立たせ、オープニングに代表されるアンの一人称と、フラットを漂うアンソニーの一人称が切り分け不能に思えるのは、その2つがたとえば『インターステラー』の並行世界のように互いを串刺ししていたからで、かつて父に注がれたアンの愛情は時空を超えてアンソニーを包み続け、彼が特異点へと向かう後ろ姿を見守り続けたのではなかったか。最期に自分が誰の名を呼んで家に帰りたいと泣くのか、それを知る術がないことに悔いは残るけれど、一片となって虚空に消えていくラストがああして訪れてくれるのならばそれだけでありがたいと考えている。ワタシの一番好きな色もブルー。
posted by orr_dg at 23:14 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする