2021年05月25日

MORTAL モータル/マイティ・ソーの解剖

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wowow視聴

これまでトロールや魔女を、超自然というよりはワタシたちが暮らす世界の理=バランスに接続される存在として描くことで新種の驚異/脅威を産み落としてきたアンドレ・ウーヴレダルが、今度は北欧神話の雷神トール(いうまでもなくソーである)を現代のノルウェーへと放り込んでみせはするものの、そこに描かれるのはあくまでトールの力の原初的な絶対値に過ぎず、エリック(ナット・ウルフ)に宿ったその力は神の気まぐれですらない破壊と奇跡を背中合わせに世界を貫いていくばかりで、『マイティー・ソー』をあざ笑うかのような混沌として途方に暮れたプロトタイプの強烈なメランコリーだけがここに記されている。本当に神の力を持った者が現れたらキリスト教やイスラム教のシステムが崩壊する、そしてアメリカはそのような事態を受け入れることはしないという決断が誘った悲劇に、神となることを拒否して世界に力を解き放ったエリックはテロリストとして追われ、そして彼を祀るカルトの誕生を伝えるラストのMCUでは決して描かれることのない這いずるような現実の照射は、これがウーヴレダルがアメリカに招かれて撮った『スケアリーストーリーズ 怖い本』の次作として本国ノルウェーで撮った作品であることを考えてみれば、これまでそれをチャームとしてきたジャンルムーヴィーへの真摯な偏愛がもたらす上気したまなざしを手放した上で寂寥と荒涼の荒野に踏み出す変質をウーヴレダルの成熟と考えてみた時、一切のクリーチャーもモンスターも現れることのないままヒーローが誰とも闘うことのない物語は、さらに重心を低く足腰を鍛えるため自らに課した斤量であったようにも思ったのだ。そしてそれは、いつの日かワタシたちがスクリーンで目にするであろうリチャード・バックマン=スティーヴン・キング「死のロングウォーク」のためのトレーニングなのだろうと考えている。
posted by orr_dg at 22:12 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月22日

ブラインドスポッティング/ラストホワイトマン・イン・オークランド

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オフィシャルサイト ※wowow視聴

レイダース(=侵入者、掠奪者)と名乗るアメリカンフットボールチームを擁する街オークランドに進行するジェントリフィケーションを、その地に根付いていたコミュニティの破壊と主権の簒奪、すなわち植民地化の新たなヴァリエーションとしつつ、その蹂躙に対抗するアイデンティティーの先鋭化と暴力化を、土地っ子の黒人コリン(ダヴィード・ディグス)と白人マイルズ(ラファエル・カザル)を縦糸と横糸とすることで、その避けがたい怒りと哀しみをアメリカの普遍につづれ織っていく。しかし、その普遍にまだ幾ばくかの「正気」を嗅ぎ取れるのはこれが2018年時点での普遍だからで、生まれ育った街でありながら白人であるがゆえ“名誉ニガー”のそしりを振り払えないマイルズの苦悩ばかりか、黒人を射殺した白人警官(イーサン・エンブリー)の崩壊しつつある家庭と人生までも、ブラインドスポット=盲点という一面的な視点から自由になれないワタシたちの不幸の証として描くその「正気」こそは、2020年5月のフロイド氏殺害以降さらに一点突破の運動へと変質したBLMが手放すことを余儀なくされた在り方の大きな一つであったようにも思え、ジェントリフィケーションや銃とアイデンティティーが錯綜する世界はこの作品世界の2018年から引き続き有効であるにしろ、あの白人警官のサイドストーリーをもう一つの感情の余地として匂わす可能性と説得力を2021年において示すことの困難にこそ思いを馳せてしまう。拳銃を武器として携行する人間に訪れる自業自得とは決定的に異なる家庭内の誤射という悲劇がどのようにして起きるのか、それはこの物語の中で最も恐怖にみちた瞬間であったに違いなく、それまでオフビートなコメディとして刻まれたステップは突如オンビートでのめり気味にふらつき始め、もうそれまでの自分のまま生きていくことが不可能になったこと、すなわちアメリカで、そしてオークランドで生きていくことそれ自体が政治的でありそこから逃げることはできないと知ったコリンとマイルズに見つける希望と共感の、しかしそこに危うさと脆さが勝ってしまうのはこれを見ているワタシが2021年の住人だからなのだろう。この物語の先に接続されるTVシリーズではマイルズが投獄されるところから始まるらしい。
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2021年05月06日

象は静かに座っている/その気になれば泣くこともできた

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オフィシャルサイト ※wowow視聴

「おれの人生はゴミ箱だ。いくらきれいにしてもすぐにゴミがたまる。」ユー・チェン(チャン・ユー)はそれを嘆くでも自嘲するでもなく、しかし一度はそれに抗って敗れた絶望に餌を与えて飼い続ける忠誠心が彼を駆動させていて、その軌道が自分を世界から遠ざけ続けることを不思議そうな目で他人事のように眺めながら彷徨い続けている。ウェイ・ブー(ポン・ユーチャン)、ファン・リン(ワン・ユーウェン)、ワン・ジン(リー・ツォンシー)の3人はチェンの彷徨う軌道の住人で、劇中で彼らが口にして語る満洲里の象はその世界のマイルストーンのような存在として座り続けていて、かつて『欲望の翼』でレスリー・チャンがテネシー・ウィリアムズから引用した脚のない鳥の一節を想い出させたりもする。その最終形を知ることはなかったとはいえ香港の『欲望の翼』と、台湾の『牯嶺街少年殺人事件』という「総合小説」の表現を目指して達成した先達がどれだけフー・ボーの頭にあったのか今となっては知る由もないけれど、その2作にあって、というよりはウォン・カーウァイとエドワード・ヤンにあってフー・ボーが持ち得なかったものこそがこの作品を4時間弱のあいだ推進していたように思うのだ。そしてそれは、ウォン・カーウァイとエドワード・ヤンが作品に託した美しい時代の美しい時間とその喪失がもたらした強烈なペシミズムの決定的な不在であったに違いなく、今この瞬間が永遠に続けばいいのにと請う時間はこの234分の間ラストに至るまで一瞬たりとも存在することがないまま、最期の最期にようやく天啓のような瞬間が訪れるのだけれど、中国第六世代の著名な監督にして今作のプロデューサーをつとめたワン・シャオシュアイ(『在りし日の歌』)とのラストをめぐる意見の決定的な相違を知ってみると、資本主義と物質主義が食い散らかした残飯の捨てられたゴミ箱の時代のみを知るフー・ボーが最期に求めた仄かな救いにリアリズムを嗅ぎとれなかったワン・シャオシュアイへの、あなたたちが持ちうる時代の感傷もメランコリーも自分たちには存在しないのだ、そしてそのことを描くために撮ったこの映画をついにあなたは理解しなかったという断絶がフー・ボーを追い詰めたことも、その夭折の顛末を知ってみると想像に難くないように思ってしまうのだ。すべてがワンシーン・ワンショットのみで構成されるスタイルもまた、カットによる省略や誘導を作為として排除する潔癖のあらわれに思えはするものの、永遠に終わることのない日常を相手に逆流する血の契約をすることで、泥のような倦怠と意識の遠のく窒息を手に入れたのだろうと考える。おれはすべての他人が嫌いだし、弟も嫌いだとうそぶくユー・チェンが、弟殺しの犯人ブーと邂逅していくつかの言葉をかわすうち、もしかしたらあったかもしれない弟への感情をブーの中にみとめて知らず微笑んでしまう瞬間から先、暮れていく夜に灯る街の明かりがそれまで蒼白だったこの物語にうっすらと血を通わせて、ここがどんなゴミ溜めだろうと自分たちはここから始めていくしかないことをフー・ボーは宣言したのではなかったか。世界が刑務所なのだとしたら脱獄を勧めよう。
posted by orr_dg at 02:57 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする