2021年03月30日

テスラ エジソンが恐れた天才/世界の代わりに泣いている

tesla_02.jpg
オフィシャルサイト

モルガン財閥の創始者J・P・モルガン(ドニー・ケシュウォーズ)の娘アン(イヴ・ヒューソン)を語り部とするこのバイオピックが終始いびつで奇妙な傾きを抱えている理由はといえば、これがニコラ・テスラ(イーサン・ホーク)という稀代の天才発明家のなした偉業のプロセスよりは、いかにして彼が自身の不遇を呼び込んだかというその足取りを、なぜならそれは彼が私を愛することをしなかったからなのだというアンの断罪で語っていたからに他ならず、それは例えば、愛を分けた人と行う幸福の追求は発明の才を曇らすのだというテスラのストイックな言い分と、彼がサラ・ベルナール(レベッカ・デイアン)に向ける即物/俗物的な愛とを冷ややかに等分する彼女の視線が、ニコラ・テスラという人の被虐を誘う諸刃の剣としての天才をそのナイーヴへの感傷とともに検証してみせている。世界の法則を解き明かすことで新たな強度と角度を備えた物質を本位とする時代にあっては、法則から物質を生み出すエジソン(カイル・マクラクラン)のある種山師的な目端こそが市場から求められたに違いなく、法則を解き明かし原理を手にすることで恍惚とするテスラの清貧とすらいえる思想が一敗地に塗れるのは当然の成り行きで、そうしたテスラの才と質を見抜いていたからこそ、アンは自分への愛と引き換えに彼のパトロン兼マネージメントを引き受ける野心を隠さなかったように思うのだ。アンのそれが、既にエジソンを取り込んでいた父親に対するある種の反発であったのかは分からないながら、そのエジソンにしてみても終盤のあるシーンで描かれるロマンティストとしての思いがけない一瞬に、この2人のヴィジョニストに対する監督マイケル・アルメレイダの共感というよりは跪いた思慕が伺えたりもして、アンという語り部を立てたのもテスラへの一方的で過剰な美化や憐れみを回避するためと考えればそれなりに得心が行くし、だからこそワタシたちは、テスラの受難を我が事のように言祝ぎながら言葉をつまらせるイーサン・ホークから立ち上る、極上にして鈍色の被虐を心ゆくまで味わえたのではなかったか。モルガンに大見得を切ったプロジェクトが立ち行かなくなり資金を絶たれたテスラが郊外の屋敷にモルガンを訪ね、テニスコートのモルガンにその継続を請うシーン、もはや招き入れられることもないまま植え込みの隙間からフェンス越しに泣き出しそうな子供の目で憑かれた早口で話し続けるも既にモルガンはにべもなく、ようやく振り返ったモルガンの目に入るのは植え込みの向こうに立ち尽くすテスラのズボンのひざ下だけで、もはやお前には言葉も顔も要らぬ、そのひざ下だけで十分だという嗜虐にイーサン・ホークの被虐は打ち震えたままテスラを抱えてどん底に堕ちて行ったにちがいなく、そんな極北の加虐プレイを目にした後では例のカラオケ絶唱とてチルアウトの調べに過ぎなかったのだ。捨て犬の濡れた目で、イーサン・ホークが声を殺して鳴いている、泣いている。
posted by orr_dg at 12:31 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月23日

ビバリウム/家を見に行くつもりじゃなかった

vivarium_02.jpg
オフィシャルサイト

アメリカ的な物資主義の墓場としてのサバービアというよりはシステムの牢獄としてのそれにデカダンスの爛れはなく、そうした囚われが生み出すのは無表情で無感情な人間もどきに過ぎないといういささか牧歌的な比喩と、侵略ものとしては「それ」1人というか1匹というか1体の生育に人間2人を消費して地味にマイナスを重ねていく悠長さが終わらない日常の倦怠と絶望の尻尾をつかまえてはいるものの、その終わらなさの質が完全に変わってしまっている2021年においてはどうにも他人事の手慰みにとどまってしまう点で、互いに運が悪かったというしかないように思えてしまう。人間しぐさを刷り込ませるにおいて、持家の購入を検討するライフステージにある男女を社会的に機能する人間のサンプルとして抽出し托卵させるマーティンたちの目のつけどころはなかなか秀逸で、成長したマーティンがトム(ジェシー・アイゼンバーグ)とジェマ(イモージェン・プーツ)に向ける視線が冷ややかかつ蔑むように変わっていくあたりに、これほど脆弱で卑しい存在に寄生しなければならない我が身への自己嫌悪をほのかに匂わせて、それは人間様の完コピもたらした人間性ゆえの帰結なのかマーティンとしての本質に芽生えたそれなのか、いずれにしろそれを成長の終わりとして、冒頭でトムがそうしたように穴は埋められてマーティンは町に帰っていく。システムを懐疑してそこから「自立」し「自由」であろうとした男女が最期にはそこに呑まれ喰われてしまう物語にあるのは、教訓と言うよりは巧妙なシステムのめぐらされた世界の反映に思え、だからこそルードボーイ賛歌としてのロックステディ「Rudy A Message To You/ルーディたちへのメッセージ」と「007(Shanty Town)/シャンティ・タウン」をわざわざオリジナルヴァージョンでインサートすることでその敗北を痛切にしてみせたわけで、ならばラストの1曲がなぜザ・クラッシュの「Rudie Can't Fail/しくじるなよ、ルーディ」でなかったのか、これがどれほどの画竜であったかはともかくとして点睛を欠いたのは間違いがないように思ったのだ。もちろんXTCには何の恨みもないけども。
posted by orr_dg at 20:19 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月17日

ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実/善き人のための戦争

the_last_full_measure_03.jpg
オフィシャルサイト

ウィリアム・H・ピッツェンバーガー(ジェレミー・アーヴァイン)は、なぜデズモンド・トーマス・ドスたりえなかったのか。苛烈な戦場における死力を尽くした自己犠牲にも関わらず、なぜピッツェンバーガーにはドスが授かったアメリカ軍人最高の栄誉である名誉勲章が授与されなかったのか。その始まりとなった1966年4月11日のベトナムのジャングルにおけるピッツェンバーガーをめぐる顛末を、その作戦に参加した部隊の生き残りであるトム・タリー(ウィリアム・ハート)、レイ・モット(エド・ハリス)、ビリー・タコダ(サミュエル・L・ジャクソン)、ジミー・バー(ピーター・フォンダ)、ケッパー(ジョン・サヴェージ)たちのフラッシュバックによって再構成する手際の明らかな停滞、同じシークエンスを角度を変えて繰り返しながら、それが必ずしも羅生門的な事実の乱反射を目的とするわけでもない意図の曖昧さがピッツェンバーガーの英雄的な行動の昂ぶりを抑え込んでしまうのを、デズモンド・ドスの献身を描いた『ハクソー・リッジ』が隠すことをしない愛国の直線的なヒロイズムに対する意図的な回避として捉えるか、あるいはそれから32年後のワシントンで、キャリアへの野心を隠さないペンタゴンの官僚スコット・ハフマン(セバスチャン・スタン)にとっては貧乏くじでしかない再調査の仕事が、戦争を知らない子供たちとしてのハフマンにとっての地獄巡りとなっていくその彷徨がもたらす覚束なさであったからなのか、もしくは単なる不手際か、そのいずれであるにしろベトナム戦争にまつわるすべての記憶と同様に終始歯切れが悪く口ごもったままの語り口が映画の通奏低音となっていく。この映画のミステリーとしての側面を補強する冒頭に述べた謎は、ピッツェンバーガーの使命感あふれる行動と対極をなすある卑俗な理由によっていたことがハフマンの尽力で明らかになり、ピッツェンバーガーの年老いた両親であるフランク(クリストファー・プラマー)とアリス(ダイアン・ラッド)が息子にかわって名誉勲章を受け取ることとなるのだけれど、監督/脚本のトッド・ロビンソンにとってそこに陰謀論的なサスペンスを塗すことが主眼にないのは、あくまで感情のまま粗雑と言ってもいい組み立てにおいて明らかで、それらいくつもの揺らぎやブレが、ベトナムとピッツェンバーガーの記憶に苛まれたまま年老いていく復員軍人たちとの邂逅を通してアメリカの記憶に触れていくホフマンの混乱や困惑と、それが次第にピッツェンバーガーの精神の継承へフォーカスされていく足どりに重なったその一点突破において、この映画は肉を切らせて骨を断つことを可能にしたように思うのだ。そして何より、アメリカ映画を支えてきた錚々たる俳優たちそれぞれの慟哭や告解がそのまま戦争国家アメリカの鎮魂歌となったのは言うまでもなく、図らずも今作が遺作となったピーター・フォンダとクリストファー・プラマーのうち、かつてのキャプテン・アメリカであったピーター・フォンダがシェルショックに苛まれるヴェトナム復員軍人を演じる帰結がその響きをいっそう忘れがたくしている。そんな彼らと比した自らを精神も肉体も小さく着痩せすることで、彼らを看取る存在としてかしずくセバスチャン・スタンの密やかな自在にも目を瞠る。
posted by orr_dg at 22:53 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月12日

野球少女/おおきく振りかぶらないで

baseball_girl_02.jpg
オフィシャルサイト

契約金の額を提示されたスインの母(ヨム・ヘラン)が、それを支払わなければスインは契約をしてもらえないと勘違いしてうろたえる姿に、持つ者が持たざる者からさらにむしり取る社会の仕組みとそこで痛めつけられてきた彼女が身に付けざるを得なかった、夢なんてものはそれを買える人のためのものだという諦めとそれが導く哀しい処世術の理由が明かされた気がして、それまで憎まれ役としてスインに立ちはだかり続けた母の姿が音をたてて崩れ落ちていく。スインにとって自分がプロ野球選手を目指すのは、自分は他の選手よりうまくプレイできるからその先のステージに進むのだという極めてシンプルな動機によるもので、そこには母がおびえる夢の幻影やガラスの天井を蹴破る理想の達成といった、マウンドとボールの手触りのない感情の入り込む余地はなく、それゆえ周囲の人々はコーチから友人、球団オーナーに至るまでが彼女の揺るがないピュアネスに映った自分を見て、なぜ自分はスインを阻もうとするのだろうという自問自答へと誘われてしまうのではなかろうか。一つだけスインにもたらされた新しい覚醒があったとすれば、速くて強いボールを投げなければいけないという力勝負へのオブセッション、それは常に肉体の優位を誇る男性を相手にすることで宿してしまった呪いでもあるのだろうけれど、そうした野球のマチズモ的側面を利用するプレイへの理解と実践を手に入れたことで、最初は野球部員にも痛打されたストレートで現役のプロ野球選手をピッチャーフライに打ち取ったピッチングでそれを伝えて見せて、題材の割にはそれをメインとしないプレーシーンのクライマックスをそこに凝縮させた監督の意図とその手腕はとてもスマートに思われる。正直に言ってしまえば、スインの体格と投球フォームで130km/h超えのボールを投げられるかといえばいささかの疑問符もついてしまうわけで、いくらCGで投球の軌道を描けるとはいえ、ワンカットで投球がキャッチャーミットにおさまるシーンが少なくほとんどの投球シーンをカットで割っているのもそうした理由があったように考えるのだけれど、それを不満に思わせないのは、マウンドに上がるまでのスインが起きてから寝るまで、おそらくは眠っている間でさえどれだけの視えないボールを様々な相手に投げ続けてきたかワタシたちが知っているからなのだろう。そして何より、そちらに振ろうと思えばいくらでも振ることができたロマンスを踏みとどまることで、スインに吹く孤高の風を捉え続けるそれ自体を目的とする清冽が遠くを見やることを可能にしていて、夜の職員室でひとり仕事を続けるキム先生(イ・チェウン)を目にしたジンテコーチ(イ・ジュニク)が声をかけようとしてためらい帰っていくシーンにすら、ここまで来てすべてを台無しにするつもりかと要らぬサスペンスすら生まれる始末で、だからこそ精一杯の譲歩としてジョンホ(クァク・ドンヨン)とスインの関係を爪保護のマニキュアに託した友情の甘酸っぱいゆらぎがことのほか愛おしかったのだ。スインの背番号が新たな「42」になる未来が待ち遠しい。
posted by orr_dg at 17:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月07日

あのこは貴族/私はあなたのココロではない

anoko_03.jpg
オフィシャルサイト

幸一郎(高良健吾)が2度目に華子(門脇麦)の頭を撫でた時、華子は頭を振ってそれを拒否し、幸一郎はそれに一瞬戸惑いながらも無言のまま部屋の奥に消えていく。この直前、自分には夢なんかない、この家を継ぐように育てられてきてそうするだけだ、と初めて内面らしき欠片を吐露した幸一郎の言葉に、たとえ自分がここではないどこかをおぼろげな夢として思い描いたとしても、それが叶うはずもない現実をおそらく華子は人生で初めて面とむかって突きつけられている。そんな風にして自分より巨大な異物と出会って初めて知る違和感の正体を、そののち華子は美紀(水原希子)の部屋でとらえることとなる。人生とはこちらから手を伸ばして探し求め手に入れるものであったにちがいなく、しかしすべて与えられたもので出来上がった自分のそれは、私の人生というよりは「わたし用」に用意された人生と呼ぶ以外に言葉が見つからず、それを生きるしかないことを幸一郎はとっくに知っていたからこそ、夢などという言葉を持ち出した自分を哀れんだのではなかったか。そうして華子は、自分の結婚が失敗だと分った時にそこから逃げ出す足腰を私は今から鍛えておくのだと、かつて逸子(石橋静河)が自分と美紀の前で言ったことの意味をようやく手に入れることとなるわけで、わたしたちって東京の養分だよねと、健やかに自嘲する美紀と里英(山下リオ)の言葉通り、それを摂り込んで芽を出した華子は囚われの幸一郎を見つめる慈愛の眼差しすらをついには湛えてみせるのだ。おそらく遠くない未来、美紀と里英の立ち上げた会社が企画したイベントでヴァイオリンを演奏する逸子とそれを袖から見守る華子の姿をワタシたちは見ることになるのだろう、そうやって階段を降りてきた2人と昇ってきた2人は踊り場で出会って4人は友だちになるのだろう。そして東京を笑いながら走り抜けていくのだろう。ワタシが好きなのはそんな彼女たちのいる東京だ。というわけで、自分で手に入れたものと与えられたものの象徴としてある「東京」をいまだ東京タワーに託すしかないのは、4人が自分たちだけの東京をまだ発見していないことの顕れということにしておきたい。美紀の部屋でジノリでもロイヤルコペンハーゲンでもウェッジウッドでもないただのマグカップを手にとった華子は、なんかいつまでも経っても捨てられないものってあるよねと美紀に話しかけられながらも、自分の愛着や執着で生活を染めたことのない華子はきょとんとして言葉につまってしまうのだけれど、それに応える美紀の、わかんないかぁという言葉には蔑みや卑下のかけらもなく、それよりは今この場所であなたと話をしているそのことが、なんだか新鮮で楽しくて気持ちが明るいのだという浮き立つような喜びが愛おしく感じられて、なんだかこちらまでおめでとうと祝福したい気持ちでいっぱいになったのだ。原作を読んでいないので監督が何を生かして何を捨てたのかはわからないけれど、これを階級闘争として幸一郎を追い詰めることを目的としなかった監督のたおやかな視線は曇りなく頼もしい。
posted by orr_dg at 23:28 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月03日

カポネ/お前はおれを忘れるから

CAPONE_06.jpg
オフィシャルサイト

はだけたローブからオムツをのぞかせて金色のトミーガンで目に入るものを片っ端からなぎはらった後で、健康のため葉巻代わりにくわえさせられたニンジンをペッと吐き棄てたつもりのそれは、情けなく弱々しい軌道でボタッと足もとに落ちていくばかりなのだけれど、この葉巻代わりのニンジンこそがここで描かれるアル・カポネ(トム・ハーディ)であったようにも思え、自身の過去が召喚した、葉巻をニンジンへと変える呪いに喰われていくその姿を、混濁して萎縮し夢と現の境界が決壊していくカポネの意識が映す緩慢な走馬灯として、ジョシュ・トランクはそれを悪意というよりは観察者の眼差しで追いまわしては垂れ流すように描いていく。垂れ流すようにと言ったのは、彷徨するカポネの意識と対比されるべき現実世界のフロリダまでもその足元があちこちで怪しくなっているからで、地の文のつもりで読んでいたらそれもまたカポネの独白であったというその侵食はバイオピックとしての使命を放棄しているように映りはするものの、梅毒に犯された体で小便と糞便を漏らしては襲い来る卒中の危機をかわしつつ過去と現在のあわいで茫漠とした時間を漂うカポネの姿に、濾過された狂気の上澄みがスッと透徹する瞬間を見つけるスリルは確かに存在したように思うのだ。1000万ドルともいわれるカポネの隠し財産の在りかをめぐって、病気の進行によって認知が緩みその隠し場所を思い出せないカポネのふるまいは果たして詐病なのか、それを見極めんとする家族や仲間、そしてFBIの思惑が交錯する神経症的なサスペンスの痕跡が認められはするものの、それをジョシュ・トランクの失敗とするのか、あるいは計算された幻視の目くらましとするかで評価が反転することを考えてみた時、批評家筋の評価からすればあらかたは前者であったのだろうこと、それに加えてジョシュ・トランクの業界的風評がマイナスのバイアスを誘ったことは瞭然であるのだけれど、唸り声以外ほとんどまともなセリフのない破壊されたカポネをトム・ハーディに託して創り上げた己と俳優への確信と、それを解き放った悪魔的な幻視のなめらかに震える催奇性をワタシは断然支持したいと思っている。そのキャリアを干されるどころか、トム・ハーディ、マット・ディロン、カイル・マクラクランといった界隈のスターをキャスティングし、カメラでリンチ組のピーター・デミングまでも招集した製作陣にはローレンス・ベンダーの名前も見てとれて、彼らもまたジョシュ・トランクの才能がスポイルされることを望まなかったのだろうことがうかがえた気もしたのだ。何はともあれ、ほとんどパントマイムといってもいいトム・ハーディの離れ業だけでも観ておくことをお薦めする。
posted by orr_dg at 16:00 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする