2020年07月28日

海底47m 古代マヤの死の迷宮/わたしたちが水中だったころ

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※誰それの生死に関する点に若干触れています

本来ならそこでは死んでいるはずの人間が背中のボンベだけで生かされている、いわば仮死状態で漂う黄泉の国の静寂をかき乱す者として彼女や彼らはあるわけで、下界では居場所のない主人公がその境界を越えることで喪失を再生に変えながらも、そこには多大なる犠牲が伴うことを容赦なく告げる監督のオブセッションは前作「海底47m」からより苛烈に更新されることとなる。予兆としてのオープニング、姉妹の相克、意志にそぐわぬ越境、それら報いとしてのサメ、そして屠られ捧げられる者、彼女が世界から分捕った居場所と失ったすべてとの地獄のバランス、という一度語られた物語を倍増された予算でさらに語り直す監督の妄執は、実際に死の祭壇をしつらえ、倍増どころではない数の生贄を捧げるその熱狂に強化されたあげく、ミア(ソフィー・ネリッセ)に沁み込んだ死の匂いに蹴散らされ目をそらし身をそらすキャサリン(ブレック・バッシンジャー)をとらえるミアの視線の、私が二度と戻ることのできない世界の住人であるこいつ、から、しかし私にとっては既に道端の石ころでしかないこいつ、への刹那のスイッチこそをミアの暴力的な覚醒の証とし、それが彼女にとっては幸福なのか不幸なのか、前作では描かれなかったそのラストの先のフェイドアウトの真空にまで監督は手を伸ばしたように思ったのだ。9割方を占める海中シーンにも関わらず、音と光の炸裂をストーリーに焚きつけるアイディアによる単調さの回避、幽鬼のような盲目サメのデモニッシュな造形と質量の彼岸のたゆたい、プロフェッショナルではないアマチュアゆえの全身を賭した闘い、そしてこれらをパッケージする幻視の悪夢のようなケレンと書き連ねてみれば、異形の傑作『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』の続篇を正攻法で押し切った地肩の強靭さにもうなずけるわけで、今後ヨハネス・ロバーツという名前を界隈で見過ごすわけにはいかなくなったのは言うまでもない。盲目サメに背中のボンベを捉えられ、このまま喰われるかボンベを捨てて自死を選ぶかという究極の選択を迫られたアレクサ(ブリアンヌ・チュー)の最期は、かつてこれほど切ない溺死があっただろうかと心震わされて個人的なピーク。一方では、もしやマヤ/アステカ文明の遺跡に寄せるためなのかというアズテック・カメラ(AZTEC CAMERA)による導入および凄まじく状況説明的に響き渡るロクセット、にも関わらず「愛のプレリュード」については水中での響きを考慮してあえてカーペンターズとは異なるヴァージョンを選んだというインサート曲への奇妙な執着が絶妙に収まりの悪さを誘っていて、その全体を見渡してみれば、このジャンルにおける『ディセント』以来の洞窟スリラーの傑作という称号までも合わせて獲得したことを伝えておかねばなるまいと思っている。ぜひ劇場で。
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2020年07月24日

レイニーデイ・イン・ニューヨーク/たどりついたらいつも雨ふり

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当時82歳の監督兼脚本家が孫のような年恰好の俳優たちに「これが現実さ」「現実なんて夢をあきらめた人のものよ」と諦念と達観を語らせたあげく、美しい主演男優(ギャツビー/ティモシー・シャラメ)は、ぼくは一酸化炭素の香りとタクシーの騒音、そして灰色にくぐもった空の下でなきゃ生きられない都会のバガボンドだと宣言し、もう一人の美しい主演女優(アシュレー/エル・ファニング)をおぼこなカントリーガール扱いをしては、慇懃無礼にほっぽり出すのである。そしてアレンは、1930年代のNYにうっすらと死生観を湛えた『カフェ・ソサエティ』、1950年代のコニーアイランドを愛と幻想のアサイラムと描いた『女と男の観覧車』と再び私小説のタガを外し始めたその仕上げとして、ティモシー・シャラメをピーターパンに、セレーナ・ゴメスをティンカーベルにあつらえることでマンハッタンをネヴァーランドと幻視しては、君たちがこれを昏睡の夢と思うならもうそれでかまわないと居直ってみせてすらいる。したがって、ネヴァーランドの住人となることを許されないアシュレーに施されるはりぼてのスノッブ描写には当然悪意が漂うわけで、『女と男の観覧車』におけるケイト・ウィンスレットといいブロンドの白人女性へのネガティヴな執着に加え、今作のセレーナ・ゴメスの黒髪を見るにつけその役回りに託した黒い屈託をアレンはすでに隠す気すらないわけで、プロットを探りシナリオを仕上げ、撮影編集すべてのプロダクションを経てなお希釈されるどころか洗練すらされるその「悪口」に陶然としてしまうのをワタシは否めない、というか否むつもりもないのだ。アレン史上、もっとも眉目秀麗な彼のヴァージョンとなったティモシー・シャラメのどこまでもヴィヴィッドな猫背のノンシャランは、いかにもリアル・アレン的なブラウンコーデですらを洒脱に着流して、ほとんど腹話術の人形的なやり過ぎすら感じさせるのもアレンの止まらぬ執着ということになるのだろうし、分割されたアルターエゴとしての映画監督ローランド(リーヴ・シュレイバー)と脚本家テッド(ジュード・ロウ)にはさらりと自己憐憫の場も与えつつ、などと書いてみればいかにも神経症的なスラップスティックに辟易しそうなものだけれど、前作で狂気の光と屈託の影で煽りまくったヴィットリオ・ストラーロのカメラは一転して、既にすべては赦されたのだとでもいう柔らかな光と影のあわいでギャツビーを押しいただくだけにたちが悪く、そしてそれは映画でしかなし得ない口上のたちの悪さであると同時に、ウディ・アレンにしかなし得ないたちの悪さであるからこそなおのことたちが悪いのだ。ちなみにワタシは、今のところはそうする判断ができるほどの手持ちがないのでアレンを断罪する側に回っていないし、彼の問題に限らず「彼の本を買わなければいいし、映画に行かなければいいし、音楽を聴かなければいい。金を投じなければよい。」というスティーヴン・キングのスタンスに準じることにしている。
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2020年07月21日

パブリック 図書館の奇跡/STAY HOME STAY FREE

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「私は図書館という公共機関を行き来する情報の自由を守るために人生を捧げて来たんだ。この国では公共図書館こそが民主主義の最後の砦なんだよ、それをお前らみたいな悪党が戦場に変えやがったんだ!」と館長のアンダーソン(ジェフリー・ライト)がブチ切れた瞬間こそ、悪党呼ばわりされたラムステッド刑事(アレック・ボールドウィン)と地方検事デイヴィス(クリスチャン・スレイター)を悪役とする構図が浮かび上がりはするものの、一般市民(The Public)を虐げる公僕をとっちめて溜飲を下げることが監督・主演・脚本をつとめたエミリオ・エステヴェス(スチュアート役)の目的でなかったことは、それゆえ時おりふらついてしまうプロットにも見てとれて、監督がこの物語を通して謳い上げたのは、人種や階級など人々の平等を妨げるすべての問題に関係なく一般市民(The Public)には情報を公開したり利用する自由があり、言うまでもなくそれは言論の自由であり基本的な人権でもあること、そしてそれが実践される公共図書館こそが民主主義の砦であるとしつつ、その「情報の自由」が脅かされつつある現在のアメリカを一晩の寓話に圧縮してみせたということなのだろう。アンダーソンのセリフにもあった「情報の自由」はけっして装飾的な言葉として使われているわけではなく、1966 年に制定された情報自由法(Freedom of Information Act)を承認したジョンソン大統領の『民主主義は国家の安全が許す限りにおいて、すべての情報を国民が知る時に最もうまく機能する』という言葉の最前線の実施機関として公共図書館が在ることの宣言でもあるわけで、例えば劇中で来館者が「ジョージ・ワシントンのカラー写真が見たいんだけど」と尋ねるシーンも、それはけっして図書館員はつらいよというオフビートな緩和というよりは、情報を見たい知りたいといういかなる類のアクセスをもまずは尊重するべきなのだという姿勢のあらわれであるのだろう。前述したように物語上の対立要素としてラムステッド刑事と地方検事デイヴィスが描かれはするものの、寓話としての楽観性や性善を維持するために彼らがふるう法と秩序の鉄槌もあいまいな腰砕けに落ち着くしかなく、それは現在のアメリカで実際に起きている苛烈な軋轢からすればいささか夢見がちであるのは否めないにしろ、それを冷笑するよりは、ともすれば見失いがちな正気を確認するためにどこまでも正論が愚直に遂行される姿を新しい記憶の一つとして留め置くべきだと考えたいし、最後のバスの車内でひとりだけ浮かぬ顔を隠しきれなかったスチュアートに、何よりシニカルを抑え込むことこそを目指したエミリオ・エステヴェスの隠せぬ徒労が影とよぎった気もしたからこそ、ワタシは彼も映画も信用するのだ。

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2020年07月16日

透明人間/もうあなたしか視えない

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※若干展開にふれています

キッチンでコンロのフライパンを焦がすシーン、シドニー(ストーム・リード)の部屋に向かうセシリア(エリザベス・モス)がカウンターを離れた瞬間、彼女が置いた包丁がひらっと舞いあがって姿を消し、それから次第にコンロの火力があがって炎が立ち上り、水をかけようとしたセシリアを制したシドニーが消火器でその炎を消して一応は事なきを得たようには見える。このシークエンス以外では追いかけ回り込み切り込む神経症的なカメラワークがセシリアの心象を煽り続けるだけに、ここでのフィックスの長回しシーンは一種異様な静けさを湛えていて、劇中で数度インサートされる監視カメラのモニター映像がそうであったように、すべての感情や意思が排除された場所で永遠に記録され続ける世界の禍々しさ、それは例えば光などとうに届かない深海でカメラの眼が捉える人間の意志など介在したことのない世界への畏れにも似つつ、何も見ていないがゆえすべてを映してしまういわば死者の眼とも言えるカメラの眼に人間の眼を重ねることで生じる禁忌の震えとでも言えばいいのか、しかもそこにはカメラが映すことのない存在があることを先だっての包丁によってワタシたちは暴力的に知らされているわけで、カメラが視つづければ視つづけるほどそこにないものが脳内に膨らんでいく時の、その乖離の淵に投げ出されるような言い知れぬ不穏と不安においてこのシーンが映画のピークとなることで、以降はその余韻が、セシリアを襲う視えない恐怖の通奏低音として映画を支配し続けていくこととなる。そうやって、セシリアが攻勢に転じて以降、存在が視認されることで恐怖が失速しないために打ち込まれたくさびとしての機能は、綱渡りをする恐怖ではなく綱渡りを見る恐怖を塗りたくるにおいて傑出するリー・ワネルの面目躍如にも思えたのだ。前作『アップデート』でも顕著だった、脇のキャラクターに不可避の陰影をつけつつもそれらのストーリーを最低限しか主人公に交わらせないことで遠近を際立たせ、物語が止まっているときでさえ推進するスピードの感覚を手放さない手管はより洗練され、物欲しげな語り手であればマーク(ベネディクト・ハーディ)をセシリアの新たなロマンスの相手とすることで嫉妬の血祭りにあげられるシークエンスに手を出してしまうところを、エイドリアン(オリヴァー・ジャクソン=コーエン)でもジェームズ(オルディス・ホッジ)でもない、外部の世界がセシリアの備えるチャームを認知する目としてすれ違うにとどめ、これがセシリアという一人の女性がみずからを開放していく物語であることを考えてみれば、このシーンを踊り場をしたことの意図も自然とうなずけてくるのだ。姿の視えぬストーカーに悄然とし、どうしてわたしなの?と打ちひしがれてつぶやくその答えを、限界を超えて追い詰められたセシリアは知性と勇気と思いやりを武器に闘うことで明らかにしていくわけで、セシリアの内部に眠る汚れのない輝きを見抜きそれを弄び飼いならし屈服させるにおいて発揮されるエイドリアンの醜悪で歪んだサディズムは、それゆえ彼女を欲し続けたにちがいなく、ついに事切れたエイドリアンから颯爽と顔を上げて歩き去るセシリアの、威風堂々とすら言える佇まいこそが本来そうして世界にあるべきセシリアという女性その人だったのだろう。だからワタシは、この先の彼女がガラスの箱に閉じ込められた女性たちを救う視えない闘いに身を投じたとしてもなんら驚くことはしないのだ。
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2020年07月13日

SKIN/スキン〜首輪のない犬

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『SKIN』(短編)も今作も劇中に登場する黒人はあくまで物語上の装置としてあって、行って帰る旅、もしくは行ったままの旅に出るのは白人なわけで、一人相撲をとっては右往左往するばかりのその姿を見るにつけ、黒人問題というのは結局のところ白人問題に過ぎないということがあらためて突きつけられる気がした。それを少し乱暴に言ってしまえば、白人にとって黒人が共存すべき存在でないのは、黒人がもはや共生のための存在となっているからで、優生思想の成立が劣った種を求めるように、白人至上主義者が至上を謳うためには非白人の存在が不可欠で、自身の確立だけでは為し得ない彼らのアイデンティティの脆弱と不安定こそが白人問題であって、ブライオン(ジェイミー・ベル)が身を投じるのは、レイシズムの洗脳を解く以前にまずは自律した社会的存在として立つための苦闘であり、人生の選択を与えられなかった人間がそれを勝ち取るという点において、ブライオンが知らず辿るのもまた尊厳の抑圧とその解放をめぐる物語となっていくわけで、One Peoples Project(OPP)の活動家マイク・コルター(ダリル・ラモント・ジェンキンス)が急進にはやる若者をたしなめて説くのも、そうした白人問題に黒人がいかに向き合うことが可能かというその場所へ行きつかざるを得ないことを知っているからなのだろう。ブライオンの養父であるシャリーン(ヴェラ・ファーミガ)とフレッド(ビル・キャンプ)のクレイジャー夫妻が疑似家族としてピューリタニズム的家族愛を鎖とすることで白人至上主義カルトを運営していくやり口の狡猾とえげつなさは、問題の根深さをより顕わにするし、フレッドが拾って来たギャヴィン(ラッセル・ポスナー)やジュリー(ダニエル・マクドナルド)の娘デズリー(ゾーイ・コレッティ)に対するシャリーンの蛇のようなアプローチは、たとえ彼女に後にあかされる過去があるとはいえ、かつてのブライオンもおそらく同様だったのだろう犠牲になるのが不幸を抱える子供である点において、より醜悪の度合を増していくように思うのだ。とはいえ、そうした事実に派生する背景と状況の描写を優先したこともあって、ブライオンとジュリーの関係も含め造型されたキャラクターの感情の行き来がいささか不自由であったことや、寓話としての『SKIN』(短編)が補完していた肌の色とタトゥーが交錯する呪われた意味性を欠いてしまうことなど、あくまで秀逸なレポートとしての機能で高止まりしてしまったのが惜しくもあったのだけれど、『SKIN』(短編)における監督の貫くような幻視を見る限り、今作では伝えるべきことを伝えるというその役割に徹して自身のエゴを収めたのだろうと考えておきたい。
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2020年07月10日

アングスト/不安〜殺人鬼には手を出すな!

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『ザ・バニシング−消失−』にしろ『ヘンリー』にしろ80年代のある領域に生息した映画のまとう文学的と言ってもいいロマンチシズムは、深淵の怪物に対する未知の憧憬とでもいえばいいのか、探究者の抱く上気した情熱から発熱していたように思うのだ。そしてこの映画もまた、傑出した先達の眼差しを頼りに殺人者に憑依することによって、怪物の内面を辿る冷熱の航海へと乗り出していくわけで、主人公(アーウィン・レダー)をK.と名付けた魂胆に素直にのってみさえすれば、K.にとっての不条理な世界を彼の視点で偏執的に描くことでミクロからマクロへの突破を図るその野心の、予想を超えた達成にはしめやかに敬意を捧げるしかなかったのだ。ステディカムらしきカメラをいったいどのようにセットしているのか、主人公だけが確固として立つ周囲を背景が曖昧に揺れ続けるショットや、ひとたび彼を離れるや縦横の動きで彼の行動を監視し始めるクレーンショットは、全編にわたる彼のモノローグおよび、リンチもかくやという超絶クロースアップとクロスすることで異様な立体感を醸しだしていくこととなり、それらカメラの自由が奪われる室内シーンでは彼にのしかかる殺人の徒労がただただひたすら逐語的に描写されていくことになる。ここでの、現実とは異なる計算尺をもった人間が行う弛緩した(ように映る)演算の無駄と無理とムラは、90年代を迎えて先代の探究者たちの成果をもとに実を熟した、シャープな陰影とエッジの効いた色彩でアーティフィシャルにレイアウトされた解剖学的なゴア(『セブン』『羊たちの沈黙』)では真っ先にデオドラントされた悪食で、それゆえマーケットの口には合ったにしろ、実は誰もその正体を知らないがゆえの始まりも終わりもない本質の曖昧さや不穏、茫漠をかすめたという点において、K.の繰り広げる人間の合理を打ち棄てた動きのすべてとそれを捉えたカメラの虚飾を排した崇高さに、否応なく心が動かされてしまうのだ。人生のオプションに殺人を備えてしまうことや、そうした人間をトレースする妄執といい、人間はなんと、何でもしてしまうことか。それにしても、血の色がほんとうにいい。
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2020年07月07日

カセットテープ・ダイアリーズ/都会で聖者になれなかったわたしたちに

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1980年代、一緒にレコードを買いに行ったりキュアーとかバニーメンとかスタイル・カウンシルとかビッグ・カントリーとかジュリアン・コープとかサイケデリック・ファーズとかペイル・ファウンテンズなんかのライヴに行ったりして、それが何かを生み出すでもなくダラダラ過ごした5〜6人の友だちはみな基本的に聴く音楽はUK一辺倒だったのだけど、どういうわけか全員がスプリングスティーンが好きで、中でもその一人のO君は、その頃既にジャベド(ヴィヴェイク・カルラ)のようなボス麻疹にかかった時期はとうに過ぎていて(とはいえ彼がジャベドのように浮かれ騒ぐ姿はちょっと想像できないのだけど)、O君のスプリングスティーンに対する穏やかな愛情と理解はアーティストと作品に対する理想のファンの姿のようにも思えたのだ。O君の信頼できる審美眼の基準は“えらそうでないこと、いばっていないこと”で(たぶんザ・スミスのシングルを仲間内で最初に手に入れたのも彼だったかもしれない)、シニカルでありながらもそれで世界を断罪しない腹の座ったノンシャランとでもいう佇まいもふくめワタシはO君のファンでもあった。そんな中、85年の来日も仲間内では当然のように一大イベントとなったわけで、年が明けたころから出回り始めた来日の噂が確定事項になっていき、ワタシたちはチケット確保の算段をし始めることとなる。当時は外タレの場合、チケットぴあ以外にプロモーターでも直売りをすることが多かったので、おそらくウドーもそうするだろうことを見込んで、2月下旬あたりから順番で新聞販売店が近くにある仲間内のアパートに泊まっては、まだ夜も明ける前トラックが配達した朝刊を買って来日公演の告知をチェックし、その日が来たら始発で青山のウドーに向かい整理券を手に入れる体制をとっていて、そうした努力の甲斐もあって全員が4日分のチケットを手に入れることができ、その時は、あとは心配なのは直前のケガとか病気、身内の不幸だな、などと浮かれた気分で言い合っていたのだ。そして初日の4/10を間近に控えたある日の午後、ワタシはO君の部屋でCISCOかどこかで買ってきたばかりの新譜かなにかを聴いたりTVを見たりしていつも通りのんびりとしていたのだけれど、そこで1本の電話がO君の実家からかかってくる。電話で話すO君の口調が親に対するぶっきらぼうからだんだんと真剣な口調に変わり、電話を切ったあとで「なんだかおふくろが事故にあったらしくて、詳しいことはまだわからないみたいけどまったくこういう時に困ったもんだ」みたいに冗談めかして笑ってみせたりもしていたのだけれど、それからしばらくしてまた電話がかかってきて、手術中らしいけれどかなりまずい状況とのことで、自然とワタシも口が重くなり、その時つけっぱなしのTVでは女子プロレスの中継でダンプ松本が暴れていて、「こんなもん見てる場合じゃないな」とぼそっと言ったO君のその声を今でも思い出す。結局、その後の3度目か4度目の電話でO君の母親が亡くなったことが告げられ、「わるい、これからすぐ帰るわ」と立ち上がって、とりあえずスーツ着ないとだめだよなと、それでも取り乱すこともなく淡々と身支度をしていたO君が、「だめだわ、手が動かなくてネクタイ締められないから締めてくれないか」とワタシの前に立ち尽くし、それからはお互い口をきくこともなく彼のアパートを出て、手持ちがないから近くの親戚のところに寄って新幹線代を借りる(ワタシもその場で貸してやれるほど手持ちがなかった)というO君と別れ、考えれば考えるほど大変な状況だったのに何もしてやれず言ってやることもできなかったなと情けない気持ちで家に帰った記憶を、今でもさっと思い出すことができる。その後、ワタシが受けたのか誰が受けたのかは忘れたけれど、おれは行けないと思うと連絡があって、一番その場にいるべき人間を欠いたままスプリングスティーンとEストリート・バンドは来日し、今のところ最初で最後のバンド・ツアーは「ボーン・イン・ザ・USA」で幕を開け、まあ現金なものでワタシは追加公演を含め5日間を熱狂と共に見届けることになるのだけれど、その後なんとか都合をつけたO君は最終日に上京し、その日のチケットが5日間のうちで一番アリーナ前方の良席だったワタシは、彼のチケットと交換することで少しだけ罪ほろぼしをした気持ちになったのだ。人の数だけブルースはいる。
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2020年07月03日

はちどり/ベネトンとキム・イルソンとミチコロンドン

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※未見なら知らずにいた方がいい、あることについて触れています

「いまのこの時間は不思議な気分だね」と、ウニ(パク・ジフ)がボーイフレンドのジワン(チョン・ユンソ)に公園で語りかける。そうだねと答える彼に、ジワンはどんな感じ?とウニがたずねてみれば、「寂しい(って感じ)?」と答えるのだ。この映画に登場する男たちの例にもれず、身勝手で腰の座らないジワンが思いがけず口にする「寂しさ」という言葉に思わずハッとしてしまうのは、相手に気持ちを寄せれば寄せるほど、どこまでいってもわたしはあなたに近づき切れないことに、わたしはあなたになれないことに、わたしはあなたではないことを思い知らされて、しかしそれらを知ることでワタシたちは、寂しさ(loneliness)から孤独(solitude)へと世界から独立した自身の輪郭を意識することを促され、やがてはその不可侵の魂が放つ光が照らす道を歩き始めるその第一歩こそがジワンの口にしたその言葉であったからなのだ。物語は、ウニの前に現れたヨンジ先生(キム・セビョク)がウニの中に孤独の原石を見出して以降、彼女をメンターとすることでウニは日々の出来事を新たなまなざしで見つめることを知っていく。なぜわたしたちは世界に対してファイティングポースをとらなければならないのか、この世界は不条理だからこそ、あなたはあなたを世界に明け渡してはいけないのだ、だからあなたは殴られてはいけない、殴られたら黙っていてはいけない、立ち向かっていかなくては、と伝えるヨンジ先生は、そうすることでかつて自分が打ち破れた喪失に向き合っているかのようにも思えてならず、誰もいない一人だけの教室で自分の体をぎゅっと抱きしめたその背中には、ウニたち世代に対する責任にも似た悲痛な覚悟すらをまとった気がしたし、彼女が塾を辞めたのはウニと向き合うことで新たな再生の予感を自身に感じとったからなのだろうと考えてみる時、その結果もたらされる彼女の最期はウニの独り立ちへの力ずくの最終試験にも思えたのだ。突然自分を裏切る親友を、流血の夫婦喧嘩の翌朝に笑いながらTVを見る父と母を、あれほど血が流れていた父の左腕の白いガーゼを、街中で呆けたように歩き去る母親を、病院の廊下で自分の病気を想って人目もはばからず泣く父親を、知っていると思っていた人たちがふとした裂け目から垣間見せる知らないその人を、ただひたすら見つめては立ち尽くすばかりだったウニはそれにどう応えたのか、「あなたが顔を知っているたくさんの人たちの中で、その心の中がわかるのは何人いる?」というかつてヨンジ先生が投げかけた問いかけを心の奥底で反芻するかのように、ラストシーンで自分のまわりのクラスメートたちを静かに顔を上げて見つめるウニの視線が湛えるのは、孤独を知った人の優しさと厳しさのないまぜになった静謐ではなかったか。そしてそれら感情の流転を監督はその余白の隅までもミリ単位の感覚とすらいえる精緻な筆でデザインしていくわけで、映ってしまうものの蓋然性に対する潔癖症的な嫌悪を漂わせつつ、しかしそれが観客を一切圧迫することのない光と影の恍惚とした溶かし方は中毒性すらを帯びるわけで、突発的に完璧なショットが目の前に現れる時の震えはどこかしら黒沢清を想起すらさせ、例えば、塾が始まるまでの時間を建物の前の広場で潰すウニが一人遊びのように段差を駆け下りては昇るその運動をロングショットでとらえたシーン、とっさに立ち上ったのは『岸辺の旅』で深津絵里が道路を斜めに横切ってやにわに駆け出すその後姿だったのだ。そしてなんといっても、ウニという少女の感情を発火する回路を組み立てるパク・ジフの理解と解釈と表出が傑出していて、ウニが自身を襲う不条理に出くわした時、監督はカットを割ることなく変転するウニの表情と仕草だけでほとんどサイレント映画のように文脈を語ってしまうのだけれど、それに対して完全かつ幾ばくかの余韻まで加えて応え続けるパク・ジフのパフォーマンスを観ているだけで知らず映画体験の幸福に捉われてしまうし、138分の間ずっと地雷原を歩き続ける少女の物語でありながら、それが不穏や不安の残酷ショーに陥らないのはある高みの映画だけが放つ愉悦や快感が最後まで途切れることがないからなのだろう。半径5メートルの日常がその向こうに茫洋としてある社会や政治と分かちがたくあることを今のウニは無意識の感覚として知り始めていて、ならばそこに生きる自分はどうすれば世界と自分を見失わないでいられるのか、それは目を開き心を開き、自分を知るように相手を知ることで起きる出会いこそが世界と自分を繋げてくれることを確信したからこそ、かつて海辺でアントワーヌを捉えた孤独のその先で、既にウニは世界を見渡すことを始めていたに違いないと思うのだ。ワタシではない、新世紀の10代に差し出されたマスターピース。
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2020年07月01日

ワイルド・ローズ/夢でもくらえ

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歌が上手いやつなんてこの世にいくらでもいる、では聞くがおまえのその上手な歌はいったい何を伝えようとそこまで空気を震わせるのか、という真実の問いかけにローズ=リン・ハーラン(ジェシー・バックリー)が巡り合うための物語であって、本当の才能とは出口を見つけるためではなく正しい入口を知るために備わっているにちがいなく、才能と表現の出会いを分けるその一線を、彼女はナッシュビルで潜りこんだライマン公会堂のステージで知ることとなるわけで、この映画を凡百のサクセスストーリーと分けているのは答えではなく問いを探すその七転八倒に彼女のリアルを見つけたからなのだろう。元をたどれば海のこちらから持ち出されたものだとはいえ、グラスゴーでカントリーという脈絡のなさ(そしてそれが説明されることも特にない)も、ロックあるいはパンクというジャンルで観客の訳知り顔がノイズになることを阻止すると同時に、ワタシたちもスザンナ(ソフィー・オコネドー)と同じ初見の視線でローズと彼女の音楽への距離を詰めることに奏功したように今となっては思うのだ。とはいえ、エルヴィス・コステロがカントリーソングのカヴァー・アルバムを”Almost Blue”と名付けたことや、劇中でローズが「カントリー&ウェスタンじゃない、カントリーなんだよ、そしてカントリーはスリーコードが奏でる真実なんだ(Three chords and the truth)」と叫んだことを思えば、日々のメランコリーをレベルソングに書き直す挑戦がカントリーであることを知るべきなのだろうと考えたりもしたのだ。それもこれも、アテレコなしで豪快かつ繊細に歌い上げるジェシー・バックリーの頭抜けたパフォーマンスこそがこの映画を可能にしていたのは言うまでもないし、何より彼女と彼女のバンドが鳴らす大音量のサウンドに琴線を揺さぶられることで、精神の自粛を強制され萎縮して過ごすこの数ヵ月で自分がどれだけ不健康に強ばってしまっていたのかをあらためて知らされた気がしたし、自分の居場所を再確認して新たな中指を立てるためにも今一番「必要な」映画なのかもしれないと思ったりもした。ツアー出られるよね彼女と彼女のバンド。
posted by orr_dg at 01:49 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする