2020年06月29日

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語〜シャラメのシャはノンシャランのシャ

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少女のグレタ・ガーウィグは、ジョーの結婚を認めることも許すこともできなかったのだろう。良き伴侶とめぐりあい良き家庭を築くことを女性のゴールとしない生き方、すなわち自分という人間をそのままでは不完全なピースと見なす世界に対し蜂起したはずのジョーが、なぜいともたやすく軍門に降ったのか、オルコットが自分を騙したのか、オルコットもまた世界のからくりに騙されるしかなかったのか、そうすることで成り立つ世界との落とし前をつけることで私はジョーの復讐をするのだ、というガーウィグの闘争宣言が「若草物語」に交錯する光と影のうつろいを、欠かせぬ真実の奥行きとして描き加えることを可能にしていたように思うのだ。したがって、それまでの清冽なアンサンブルからすればジョー(シアーシャ・ローナン)とベア(ルイ・ガレル)のゴールインがほとんどやけくそのように描かれるのは、既に心ここにあらずのオルコットやガーウィグにとってあれが真実のジョーではない証ということになるのだろう。そうやって虚実の構造を行き来することを求められるジョーが最終的にはどこかしら記号化してしまうのに対し、経済としての結婚を否定して彼女なりの通過儀礼を果たすことでローリー(ティモシー・シャラメ)の愛を手に入れるエイミー(フローレンス・ピュー)は真実の愛の覇者のように映るのだけれど、それは画家として生きる表現者の自分に見切りをつけることの代償として与えられたとも言えるわけで、最終的にはジョーの総取りというハッピーエンディングの露払いとしてありはするものの、ピューリタニズムの欺瞞とモダニズムの予感との間で苛立つ直感の存在としてロマンスの血肉が通ったのはエイミーであったという、いささか皮肉な着地となった気がしないでもない。ローリーがジョーに言う「ぼくらがいっしょになったら殺し合いになるからね」というセリフは啓蒙主義から個人主義へとうつろう時代の予感でもあり、来たる20世紀はまさに両者殺し合いの世紀となっていき、世紀を超えて膠着したワタシたちはといえば、過去を振り返ってはこうして想いを馳せている。
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2020年06月24日

ペイン・アンド・グローリー/ヘロイン・アンド・グルーミー

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かつて自分を精神の奥底まで決定づけた、そしてそれゆえ人生を共に進めることのできなかった恋人が30余年を経てある日突然自分を訪ねてくるその瞬間、果たして彼はどれだけ変わってしまっているのか、そして自分は彼の目にどれだけ変わった姿と映るのか、期待と畏れに苛まれながら戸口でフェデリコ(レオナルド・スバラーリャ)を待つサルバドール(アントニオ・バンデラス)の、至福の苦痛すらを待ちわびる数秒に溢れる恍惚と倦怠、楽観と悲観、要するに生と死の両側に均しく足をおろした者の生命が剥きだされて香り立つ瞬間、押し寄せる全体性の波にこちらまで呑まれてしまいそうになる。過去は死んでしまった時間なのか。だとしたらこの激痛は棺桶の蓋を打ちつける釘が我が身をえぐるのか。なかば贖罪でもあるかのように痛みと共生するサルバドールは、その痛みと引き換えに手に入れた美術品によって装甲した自宅で籠城戦を戦っているかのようだ。しかし彼は、ある過去が彼に追いついたのを、それを待っていたかのごとく追いつかれるままにそこへとたゆたっていくわけで、それを謳うかのようにプールに沈むオープニングから、精緻にして巧妙な回想(しかしその仕掛けがラストで明かされる)で母への思慕と自身のヰタ・セクスアリスを描いては、愛憎半ばする盟友アルベルト(アシエル・エチュアンディア)に託した戯曲で自身とフェデリコの愛と苦痛の日々を告白し、それら過去の記憶を現在のサルバドールの茫漠としたメランコリーとめくるめくような語り口でクロスさせながら、しかし物語は確実に喪失から再生の物語へだんだんと顔をあげながら歩を進めていくのである。その足取りはまるで、かつて片岡義男がしたためた“現在とその延長としてのこれから先、というものだけにとらわれていると、人はほとんどの場合、過去を亡きものにしてしまう。過去を葬れば、現在が道連れにされる。”という一文が照らす道を歩くようにも思えたし、そしてなにより、ポン・ジュノが引用したスコセッシの“最も個人的なことは、最もクリエイティブなことだ”という言葉の明晰で熱を帯びた実践に恍惚と眼も心も奪われてしまうのだ。ヘロインを手に入れるためサルバドールが訪れた裏通りで知らない男が刃物で斬りつけられ脚から血を流すシーン、ヘロインに引き寄せられて劇中で唯一自分の陣地から外に出たサルバドールに吹く暴力の風を一筆書きのように描いてみせて、そのスケッチすらが滴るように完結して少しだけ震える。そして何より、執着と諦念の間で地上からほんのわずか浮いたように漂泊するアントニオ・バンデラスがキャリアハイといってもいい表出で終始の圧倒。アルモドバル作品では今作に限ったことではないのだけれど、原色を中間色のように感じさせる色彩設計の妙が爛熟したポップの倦怠や退廃をつかまえてため息しか出てこない。ワタシがこの映画にどれくらい喰われたかといえば、それは『シングルマン』を異母姉妹としてしまいたいくらい。傑作。生きてさえいれば、また会える(「愛の行方」大貫妙子)
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2020年06月16日

ハリエット/ニューゲーム、ニュールール

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ナルコレプシーときけば色川武大の名前が浮かび、ひいては「狂人日記」にしたためられた幻覚と実存がひとりの人間の内部で繰り広げる共食いの極北を想い出してしまうわけで、してみるとナルコレプシーがそんな風に都合の良い天啓で事態を済ませてくれるものだろうかと訝しんでみたりもするものの、しかしついにはコロンブスまでもが粛清される時代とあっては新しい神話が可及的速やかに求められるのもむべなるかなと物分かり良くふるまってみたりもするのである。映画的神話としてはハリエット・タブマン(シンシア・エリヴォ)がまだミンティだった最初のエスケープをピークにすべてのスリルとサスペンスは“神懸かり”にとって代わられ、脅威の目と鼻の先でそんな悠長に愁嘆場を繰り広げてる場合じゃなかろうよと幾度となく気をもむも、ハリエットは次第に偉人伝の舗装道路をすいすいと進み始めていくわけで、その見晴らしを良くするためには、一見したところ複層的なキャラクターも他の邪魔にならないような単色でベタ塗りされてあるべき風景の中に調和するよう配置されていくわけで、ジャネール・モネイでさえがきわめて忠実かつ贅沢に一介の要員の役をこなして死んでいくのだ。そんな中、この神話が最後まで扱いかねたのが奴隷ハンターのビガー・ロング(オマー・ドージー)であったように思われて、農場主ギデオン(ジョー・アルウィン)に、そんなに稼いでおまえなんかが何に使うんだ?と皮肉を言われれば、白人の女を買って抱くんだよ!とやり返す当たり前の屈託を秘めつつも、なぜ彼が同胞を追い白人に差し出す稼業に身をやつしたのかといった彼の物語はかけらも語られることのないまま単なる醜悪な裏切り者として死んでいくのである。しかもその最期はマリーの復讐としてハリエットの手にかかることすらなく、ハリエットへの執着に憑かれたギデオンの手によって虫けら同然の退場を余儀なくされるわけで、おそらくそれは聖人ハリエットの手を同胞殺しで汚すわけにはいかないのだという舵取りによっているにしろ、自由か死を!とつきつけるハリエットの前にあってはその屈折した瞳の翳りなど言い訳にすらならなかったのだろう。ジョン・トールのカメラによる繊細かつ流麗な抒情と、テレンス・ブランチャードの静謐で神々しくすらあるスコアがハリエットのアジテートを力業で御言葉へと響かせて、今も昔も神は死を厭わないのである。
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2020年06月08日

ルース・エドガー/ファニーゲームU.S.A.

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「おれだって黒人だよ」「お前は大丈夫だよ、“ルース”だから」と交わされるルース(ケルヴィン・ハリソン・Jr)と白人の友人オリッキー(ノア・ゲイナー)の何気ない会話ですらが、おまえのような白人に比べておれたち黒人は世界から簡単に弾き出されるんだよ、だから俺だっていつかそうした目に遭うかもしれない、いやお前は(黒人でもない、もちろん白人でもない)ルース(という記号)だから大丈夫だ、そんな目に遭うことはないよ、というあらかじめ分断された手続きに則って行われるわけで、多様性や水平性の遂行という白人の側から差し出された理念を非白人の側が戴くことで成立する自由がいかに危うくて脆い共同幻想に過ぎないか、戦火の国で生まれ暴力の胎動を聴いて育った少年を自由と平等の国アメリカがその理念の遂行者へと改造するその実験が成果をあげればあげるほど、ルースは自由で独立した精神の乱反射するモザイクが引き裂くフランケンシュタインの怪物とならざるを得ないのである。それは白人であることの罪悪感がもたらす変形したノブレス・オブリージュなのか、エドガー夫婦が辿った道程が具体的に語られることはないにしろ、図らずもピーター(ティム・ロス)がエイミー(ナオミ・ワッツ)につきつけた「代償」という言葉が白人リベラルの本音とそれが規定してしまう限界を晒していて、それを否定できなかったからこそエイミーは善悪をかなぐり捨てて自罰的ともいえる行動をとったのではなかろうか。一方で黒人リベラルとして賢明に歴史と併走してきたハリエット(オクタヴィア・スペンサー)はルースにもその従順な併走を求めるわけで、この両極のリベラルたちがそれぞれにフランケンシュタイン博士となることでルースは怪物の哀しみと怒りに引き裂かれ続け、それはそのままアメリカへの愛憎でもあるのだけれど、劇中でついぞ見せたことのない剥き出しの形相を貼りつけたルースは、そのラストシーンで彼だけが知る道をアメリカという父殺しにむけて走りだしたように思うのだ。自由と独立を勝ち取るため、立ちはだかる壁をいくつもぶち抜いていくうちにその手段が目的化してしまい、その手段の先鋭を競うことそれ自体を存在の証にそれぞれが孤絶と分断にひきこもる世界がひた隠す疑問符こそがルース・エドガーという青年そのものであり、彼を理想の怪物という矛盾の王たらしめたに違いないと考える。これだけセンシティヴで際どい題材を、バッドシーズものとしての演出とサウンドのデザインでジャンル映画としての消費すら厭わず成立させてしまう懐と確信の深さには、ジョーダン・ピールが展開する教育的指導ホラーに通じる流れを感じるのは言うまでもなく、しかしそれは、アメリカの病巣がより日常的にカジュアル化したことの顕れともいえるわけで、それを理解と認識が深まったとするのか麻痺が進んだとするのか、いずれにしろ角を曲がればそこに地獄があることを世界中が知っている今日とあっては、もはやこのサスペンスを維持する脅威から誰も逃げることができない世界に生きていると知るべきなのだろう。かつて別荘地に沈んだナオミ・ワッツとティム・ロスの夫婦は再びの壊滅でサバービアに沈み、道連れに消えるオクタヴィア・スペンサーの正しくも切ない断末魔。そして何よりケルヴィン・ハリソン・Jrの、もはやオバマは亡霊なのだと言わんばかりのあまりにもスマートな憑依に胸がざわつく。
posted by orr_dg at 21:07 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする