2020年02月21日

屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ/影が光りを喰うところ

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これがブコウスキーであったなら「粗にして野だが卑にあらず」とでもいう屈託に沈む日の黄昏をメランコリーに綴る物語にもなり得たところが、このフリッツ・ホンカ(ヨナス・ダスラー)という男というか生き物は、目盛りの粗い日々に野良犬のごとき卑屈にまみれつつ野生動物の直截な本能に衝き動かされた結果、アルコールとセックスだけが彼を人間社会につなぎ止めていたようにも思われて、殺人という行為が、ホンカにとっては何の意味もない社会と彼との間に生じる存在の誤差に過ぎない点で彼に快楽殺人者の美学も切実も備わるはずもなく、ならば死体などシュナップスの空き瓶や汚れた皿、吸い殻の溢れる灰皿と同じ日々の塵芥に過ぎないわけで、最初は真夜中に人目を忍んで捨てに行ってはみたものの、その手間に嫌気がさしたあげく自宅収納としてしまうあたりの脈絡を丁重に描くことで、監督はホンカに人格を植え付けることに成功している。思わず丁寧ではなく丁重と書いてしまったのは、映画の原題(”Der Goldnene Handschuh=The Golden Glove”)となっているバー「ゴールデン・グローブ」に集う客たちの「粗にして野かつ卑」な精神と生態を水平に活写する筆さばきの細やかさと温もりのある光の当て方こそが監督のヴィジョンであったように思うからで、それはホンカを見る人、ホンカに見られる人、ひいてはホンカに殺される人すべてが人格を備えた存在として描かれることにより、最終的に「ゴールデン・グローブ」へとたどり着いた彼や彼女たちの人生を肯定していたように思うのだ。何も注文しないなら店から出ていけと言われた文無しのお婆さんに、自分にしたところでさして余裕があるとも思えない女性が飲み物を注文してやるシーンの穏やかな交歓や、決して一線を越えることのない客同士の打ちつけるような甘噛みは、そこに自虐や被虐、自己憐憫の情動は一切ないし、ジャングルクルーズの気分でバーを訪れたブルジョアな若者への痛烈なしっぺ返しは、おれと同じ人生を歩んでなお酒を飲む金を持っていたらここへ来るがいいという矜持の現れにも思えて、ホンカも含め第二次世界大戦が産み落とした私生児としての彼や彼女たちを、ファティ・アキンはこれまで彼が見つめてたきたのと同じ視線と視点の角度で生かしたり殺したりしていくのである。それだけに、一度は酒を絶ちまっとうな仕事についたホンカが、酔って人生の屈託を吐露する職場の女性ヘルガ(カティア・シュトゥット)に促されてついには酒を口にしてしまい、再び転げ落ちるように瓦解していくペーソスの救いのなさは残酷ですらあるわけで、バラバラにした4人の女性を部屋のあちこちに隠したまま粛々と日々を営む殺人鬼に対してすらそう思わせる世界の引きずりおろし方こそは、世界に負けを背負わされた人間の見る光景を翻訳するこの監督の真骨頂といってもいいだろう。何より殺された彼女たちはみな、殺されるその時まで確かに生き続けていたのだ。この映画を観ていて最初に頭の中で繋がったのは、Anders Petersenの”Cafe Lehmitz” という写真集で、1967年に当時20歳だったスウェーデンの若者がハンブルグの場末でカメラを抱えて彷徨した夜ごとを安酒場“Cafe Lehmitz”を舞台に焼き付けたモノクロームの覚え書きは、この酒場の外では一体どう生きているのか想像も難い真夜中の人々に向けた透明で均質な視線に貫かれ、深夜の気高さを纏った人々をしてまるで鏡でも見るかのようにカメラのレンズを覗き込ませていて、それはまさにこの映画が持ち得た眼差しをそのものだったように思うのだ。トム・ウェイツのアルバム「RAIN DOGS」でカヴァーとして使われたのがこの写真集の中の1カットで、ワタシもそこから遡って虜になったのだけれど、突然昔懐かしい知己に出会った気がして少しだけ脈が早くなってしまったりもした。おいそれとは薦められない空気と描写の映画ではあるけれど、『女は二度決断する』を観て血が逆流した人なら覚悟ができていると思うので是非。


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2020年02月14日

ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密/キャピタル・アメリカ:ノー・タイム・トゥ・ライ

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※当然のごとく展開に触れています

マルタ・カブレラ(アナ・デ・アルマス)は家政婦というわけではないけれど、『マダムのおかしな晩餐会』『ROMA』そして『パラサイト』と続く、持つ者が持たざる者の価値を決定する社会への中指をさらなる持たざる者としての女性がつきつけるサスペンスを解とするミステリに、かつてあったものの失敗と退場だけでできあがっていた『最後のジェダイ』のことがふと頭をよぎりつつ、希望とは善くあることを望むことだと皮肉や絶望を封じ込んだ『ルーパー』にまで思いを馳せてみれば、ライアン・ジョンソンと言う人が常に変わらぬ気分で彼方の光を見つめていることをあらためて確信したのだった。誰がなぜどうして?というミステリをミステリたらしめる要素それ自体は刺身のツマだと言わんばかりに早々と投げ出され、慇懃無礼な紳士探偵ブノワ・ブラン(ダニエル・クレイグ)は、マルタの備えたある重要な2つのポイントを頼りに彼女を補助線とすることで、謎解きというよりはいわば人間性テストの仕掛け人としてスロンビー家の寄生虫をあぶり出していく。とはいえ下衆をおちょくることに生きがいを見出しているかのようなこの探偵が途中経過的な素ぶりを中盤以降見せなくなることもあり、おそらくはこれをマルタの闘争とするためのさじ加減ではあるのだろうけれど、では伏線も使い果たした一本道のその裏でいったい何が進行しているのか、そもそもこの物語はどこへ向かおうとしているのか、その目隠しされたような曖昧がサスペンスを持続させるという摩訶不思議なミステリが展開されるわけで、本人いうところの“ドーナツの穴”に徹するこの探偵のややこしいチャームがあればこそ、まるで隣のレーンのピンを全部なぎ倒すような逸脱したミステリをアクロバットのように着地させた気がしたし、そのある種のでたらめさは原作脚色ものでは不可能な味わいと言ってもいいだろう。その最たるものと言っていい、嘘をつくとゲロを吐いてしまうというマルタの特性を思いついた時点でライアン・ジョンソンは小さくガッツポーズをしたのだろうし、おかげでマルタは4回にわたりゲロを吐くことになるどころか、目の前でいきなり植木鉢に吐くマルタを見て「文字通り吐くとは思わなかった…」と感嘆するブランの図から始まり、ついにはとどめのゲロをぶっ放すことで見事に円環を閉じる離れ業に、アカデミーはよくぞこの脚本をノミネートしたものだと、その闊達が『パラサイト』への底抜けの祝福を誘った気もしたのであった。それにしても、誰も殴らず銃も撃たず車すら運転しないアメリカの探偵となるとそうそう記憶になく、ホームズはともかくポアロまでがマッシヴなヒーロー化することで隠さないフランチャイズへの貪欲をせせら笑うようなこの探偵はそんな昨今にあっては新たな発明といってもいいのだろうなと思っていたところが、どうやらスタジオは探偵ブランの次作にGOを出したようなのだけれど、よくよく思い出してみればこの事態を解決に導いたのはマルタと彼女の善きゲロのおかげであったことに気づくわけで、ならばいっそのことマルタをワトソンにしてしまえばいいのではないか、彼女の能力を外部感応型に改良するくらいライアン・ジョンソンなら朝飯前だろうと煽ってみておくことにする。南部なまりでフレンチネームの探偵とプランテーションの地主のような屋敷、そしてスワンピーなストーンズとくれば、ラストシーンの逆転の構図がさらに味わいも増すわけで、そうやってアメリカを解放していくのだろう探偵ブランのさらなる活躍を楽しみに待ってみたい。
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2020年02月05日

リチャード・ジュエル/ドーナツの穴があったら入りたい

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リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)が犯人でないことなど観客であるワタシたちは百も承知であるにも関わらず、監督はワタシたちが彼に対して苛立ちや侮蔑の気持ちを抱くよう、まさにその一点のために微に入り細を穿つ手管を駆使して止まないのである。もちろんそれは、キャシー・スクラッグス(オリヴィア・ワイルド)による記事が喚起し醸成していくリチャードへの悪意を観客までも巻き込んで再現していく試みであるのは言うまでもないのだけれど、ここ最近のイーストウッド作品の、主役以外はみんな書き割りで済ませてしまう憑き物の落ちたような執着のなさもあって、いきおいリチャードの情動のみがこちらを直射し続けることとなり、してみるとそれはもはやメディア論であるとか衆愚の時代であるとかいった告発の筆というよりも、社会に追い詰められた人はそれが偽物/偽者だと心の奥底でわかっていても信じるふりを許してくれるものを信じてしまうのであって、その上っ面をもってそうした人々を蔑んだり理解を止めてしまうことの愚かしさを今さらながら説いているようにも思え、そんな風な映画を撮って大統領選を控えた年に公開することの意味を、それを知るべき人々は知るべきであるというイーストウッドのメッセージに思えたりもしたのだ。リチャードに訪れるエスタブリッシュと訣別することで独立した個人となる瞬間は、リバタリアンとしてのクリント・イーストウッドの揺るぎない信念にちがいなく、30〜40代の低学歴の白人という現在のアメリカで下層に追いやられる人たちのプロフィールを集約したようなリチャード・ジュエルが主役となる題材を選んだのも、その投影としてコントロールしやすいキャラクターだったからなのは間違いがないだろう。では、本来であればトランプの支持層となるはずのリチャード・ジュエルがリバタリアンとして覚醒したあとでどこに向かうのか、まずはアメリカの「リチャード・ジュエル」を正面から理解しようと務めることだと、めずらしくイーストウッドがお節介を焼いているようにも思えたのだった。書き割りとしての機能のみを要求された助演たちの中でオリヴィア・ワイルドは見事に役回りを全うしたものの、それが見事であればあるほど貧乏くじを引かされることとなり気の毒なほどである。一方でクライヴ・オーウェンの失敗したクローンのようなジョン・ハムはその木偶っぷりで役得。アメリカの無謬と誤謬を肥大した体内でシェイクし続けるポール・ウォルター・ハウザーについては、痩せたら負けという過酷なキャリアを道連れにしたネッド・ビーティ的な横断を末永く見守っていきたいと思わされた。でもこれが2010年代の事件だったらイーストウッドは本人をキャスティングした気がしないでもなく、果たして役者の振れ幅をあてにしているのかどうか、常に中央値を見つけて並べていった結果の完璧なメディアンという少々薄ら寒さすら感じる透徹した叙事はどこか彼方で流れる水のよう。
posted by orr_dg at 23:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする