2020年01月31日

パラサイト 半地下の家族/下を見たらきりがない

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ギウ(チェ・ウシク)がトム・リプリー的野心を独りくすぶらすピカレスクロマンではもうどこへもたどりつけない世の中なのか、という判断よりは、巧妙に水平化された世界にあってはもはや階級闘争など骨抜きにされ、革命のロマンや感傷はカリカチュアの対象にすらないことを『スノー・ピアサー』で愚痴ってしまった監督にしてみれば、金持ちは世界に、貧乏人は金持ちに寄生するそのシステム自体を共生と呼ぶ以外何があるのか、というこれまでで最も寄る辺のない結論を、それはもうにこりともしない真顔のまま導いていたように思うわけで、下降するらせんとして円環するラストでのギウのモノローグがどこかしら遺書のように聴こえたりもしたのである。実際のところ、キム家の面々が追い落として取って代わる相手は見上げたブルジョアジーの面々ではなく自分たちと同じ分け前に生きる人間たちだし、父ギテク(ソン・ガンホ)がパク社長(イ・ソンギュン)にふるう刃は、おそらくは立志伝中の人であろうパク社長が(ギテクの匂いを臭いとして嫌悪するその言葉「切干大根のにおい」「地下鉄のにおい」からして、かつてその臭いの中にあったことがうかがえる)、ギテクのみならずパク社長を地下深くから敬愛するグンセ(パク・ミョンフン)までもその臭いで全否定する品性の下劣さに対し、お前も金持ち連中に寄生してきた一人ではないかとする怒りであって、そこにあるのはもはや内ゲバの陰鬱な内圧でしかなく、おそらくはブルジョアの家庭に生まれ育ったパク社長の妻ヨンギョ(チョ・ヨジュン)の“金持ち喧嘩せず”的な健やかさを褒めたたえ、自分が追い出した前任の運転手の行く末すら案じるギテクにとってパク社長の言動は許しがたい背信以外の何ものでもなかったのだろう。一方で、そうした怒りを外部に向かって持ち得ないギウにとって、それは家族の窮状を招くことになった「計画」を持ち込んだ己に対する自罰として向かうしかなく、俺たちは「計画」を持つこと自体が分不相応なのだと撤退戦を選んで生きる父ギテクに対する反抗というよりは捧げものとしての「計画」に家族が喰われてく絶望が、ギウに山水景石を抱かせて殺人を「計画」させもしたのだろう。しかしまたしてもその「計画」が破綻することで殺戮が殺戮を呼び、しかも当のギウは死ぬことすらを叶えてもらえないという残酷こそはギウの世代と属性がはまりこんだ先の見えない地獄の象徴に他ならず、だからこそギウが夢想する「最終計画」の哀れと儚さと透明な狂気こそがポン・ジュノの怒りと絶望の上澄みに思えてならなかったのだ。そうした社会において、なお女性であることの理解されないあきらめと苛立ちとを、汚水の逆流するトイレをフタして座り込みタバコを吹かすギジョン(パク・ソダム)のニヒル一発で焼き付けたポン・ジュノの殴りつけるような幻視にもひりついて、異物との邂逅によって変容した自身が世界に踏みとどまるために差し出す贖罪、というポン・ジュノのメインラインを時々見失いすらした。いいのかこの映画をこんなにもてはやして。
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2020年01月27日

マザーレス・ブルックリン/バース・オブ・ザ・フール

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ローラ・ローズ(ググ・バサ=ロー)がライオネル・エスログ(エドワード・ノートン)の背中からそっとすべらせたその手でうなじを慈しむように撫でてみせては彼を母親の記憶に恍惚と染めていく、その伏線と回収の切羽づまったような生真面目さこそが1957年のニューヨークという鈍色のソリッドな時代に4ビートの赤い血を通わせていく。原作での“マザーレス・ブルックリン”はライオネル、トニー(ボビー・カナヴェイル)、ギルバート(イーサン・サプリー)、ダニー(ダラス・ロバーツ)の4人の孤児を総称した“おふくろのいないブルックリン”だったけれど、エドワード・ノートンはそれを、ロバート・モーゼスをモデルにしたであろうモーゼス・ランドルフ(アレック・ボールドウィン)ら権力者が弱者を蹂躙することで産み落とされる“私生児としてのブルックリン”へとさらに解題し、アメリカという国と人が抱える闇と業を普遍と捉える物語とすることでその複層の交わるところを発熱させては運命のメランコリーを疼かせてみせる。終盤にかけて拍車がかかっていくローラの反転に『チャイナタウン』のそれがよぎるだろうことを監督は隠しもしていないし、となれば目指したのはノワールのゼロ地点、せいぜいが振り出しに戻るだけの倦怠が麻痺させる昂揚であったのは言うまでもないだろう。しかし監督はラストのゼロ地点をほんの少しだけらせん状に立ち上らせていて、孤児としてあり続けたライオネルと今や孤児となったローラが互いに寄り添うことで“私生児としてのブルックリン”と新しい家族を築くであろうラストの予感は原作からの正気と希望に満ちたジャンプとなっていたし、原作では最後の一文となった「話は歩きながらしろ(Tell your story walking)」からこの映画が始まっていたことを考えると、エドワード・ノートンはこの物語を変奏した続篇として描いた気もしてくるわけで、ならばほとんど20年を要したそのアクロバットをワタシは完全に受け入れた上で、なお原作に抱くのと変わらぬ愛情でこの映画を胸にとどめようと思うのだ。そして、トランペット・マン(マイケル・K・ウィリアムズ)としかクレジットはされないものの、明らかに「カインド・オブ・ブルー」誕生前夜のマイルス・デイヴィスとしか思えないトランペッターとの忘れがたい邂逅や、ライオネルを救うために彼が台無しにしたトランペットがまるでディジー・ガレスピーの愛器のように映るあたりもまたエドワード・ノートンが内部に育てていた偏愛の表れに思えたし、この物語にどれだけ取り憑き、あるいは取り憑かれ、一転してそれを醒めた目で解いた後にいかにして自分の物語として語り始めたのか、そんな風に世界でたった一人彼だけがあきらめることなく過ぎていったいくつもの夜があったのだろうことを想うとなおさらこの映画が愛おしくなってしまうのだ。ライオネルが叫ぶいくつもの”IF!”は、エドワード・ノートンがこの映画と共にあった日々に浮かんでは消えていった数え切れない可能性への鎮魂のように響いて仕方がなかった。立てたピーコートの襟がニューヨークの屹立を透かすように睨みつけている。
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2020年01月17日

フォードvsフェラーリ/おれの車にのりたいか

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レオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)がキャロル・シェルビー(マット・デイモン)に向かって「マイルズは、あれはビートニクだ…」と吐き棄てた瞬間、フォーカスがクリアになる。「フォードvsフェラーリ」というよりは「シェルビーvsビーブ」という構図に終始するこの映画でキャロルがレオと闘い続けたのは、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)という自らの肉体をラボに人間復権の臨床実験を行う男の、すなわちビートニクの体現者への憧憬と同志愛のなせるわざであったのは言うまでもなく、すでにケネディは斃れ、ヒッピーという大量生産されたビートニクの気配が忍ぶこの時代は、身体ひとつでシステムを打ち負かすアメリカの騎士を描くことのできる最後の時代でもあったのだろう。7000回転の向こう側へフリークアウトしたマイルズが疾走するミュルサンヌ・ストレートの真空のような静寂は、たとえば『断絶』のラストでドライヴァーが溶けていく虚無を想い起させつつも、しかしマイルズはそこから引き返すことを選ぶわけで、それはついに見るべき風景を見た達成感であったのか、シェルビーへの友情と仁義であったのか、あるいは永遠に思われた思春期の終わりであったのか、いずれにしろビートの天使マイルズはその翼を差し出して他者の幸福を願うことを選んだのであり、となれば、あのシフトダウンはいずれ彼を襲う悲劇のカウントダウンがスタートした合図ということにもなるのだろう。イノセンスの喪失とはすなわち死を想うことであり、本来なら映画一本が費やされるそのテーマをセリフもないたった一つのシークエンスで抉りだしてしまうクリスチャン・ベイルに、いったい役者というものはどこまで可能なのかと、自分が何の映画を観ているのか覚束なくなるくらいワタシも向こう側へと溶かされた気がして胸がこわれそうだった。スピードとは時間で、時間は生命あるものすべてを支配することを思えば、スピードに抗う者たちは束の間ドライヴァーズシートで神を演じることが可能であると同時にそれを求められることとなり、そのためには下界の合理を棄て去る必要があることを識らなければならないわけで、そのキャリアをドライヴァーからスタートさせたエンツォがフォードを醜いと言うのはそこに神の合理が宿るにふさわしいシートを持ち得ていないからだし、してみればシェルビーがフォード2世をドライヴァーズシートに縛りつけてスピードの只中に放り出した荒療治に涙を流したフォード2世はそこに神の気配を感じたのだろうし、激闘を終えたマイルズとそれを見つめるエンツォの視線が交錯する時の昂揚に絡みつく、いささかの倦怠の正体が神々の憂鬱であったことは言うまでもないだろう。妻モリー(カトリーナ・バルフ)のみならず息子ピーター(ノア・ジューブ)もまた家族というよりは同志として描くさわやかな緊張感が神話にさらなる聖性を与えてやまない。不幸な天才の屈託と苛立ちを半ば嬉々として演じるマット・デイモンがクリスチャン・ベイルと取っ組み合いをする姿に『グッド・ウィル・ハンティング』の20歳が重なって見えた瞬間、アメリカ映画という在り方になぜ心惹かれてやまないのか、それは楽観も悲観も引き受けた上で世界の最善性を問い続け試みる生き方の証明だからなのだろうと、腑に落ちる音が聴こえた気すらした。
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2020年01月10日

ロング・ショット/セックス、ドラッグ&ボーイズUメン

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理想を笑わずそして現実もあきらめない貪欲を清々しいとさえ感じてしまう時点で、ワタシたちはいい加減スポイルされてしまっていることに気づかされるし、それはグレタ・トゥーンベリが変人扱いされる世界の笑えなさとどこかでつながって、この映画から漏れ出す忍び笑いの多幸感はそんな時代を足蹴にする混じりけなしの正気をウォッカで流し込んで血管の隅々までめぐらせるその酩酊によっているのは言うまでもなく、すなわちこれが効かない相手は今後のアナタやワタシの人生から整理してしまっても差し支えないということになるだろう。どれだけ下ネタやドラッグネタでくすぐりを入れようとそれが露悪的にならないのは、そこを潜った上でどれだけ身ぎれいにして目は澄んだままでいられるかという2020年代の闘いの流儀としてそれらが描かれているからで、シャーロット(シャーリーズ・セロン)やフレッド(セス・ローゲン)の水平性と流動性が垂直性の支配に立てた中指なのは言うまでもないし、2人のロマンスを生餌に観客を誘いこむのは、すべてのシステムをカルチャーとして捉えなおすことで見晴らせる世界の広がりであって、政治もまたカルチャーであってビジネスではないと記した石つぶてをアゴを緩ませ開いた瞳孔で彼方へ雨あられと投げつけてみせる。フレッドはシャーロットによって狭量なセクト主義を、シャーロットはフレッドによってポピュリズムの轍を、それぞれがそれぞれを更新していく関係のそれゆえ避けられぬほろ苦さとそれがもたらす幸せの甘さは、この世界で人がよく生きるためのやり方が尽きることはないのだなあと、まさかこの監督&主演のコンビに人生の指針を示されるとは思ってもみなかったわけで、かつて最右翼かと思われたトッド・フィリップスがああやって一抜けしたとあっては、絶えて久しいチーチ&チョンの名跡がようやくのこと継がれた気もしたのだった。それがどれだかアメリカを痛めつけてきたかはともかくとして、ドラッグをカルチャーとして芽吹かせたその歴史こそがアメリカをアメリカという概念たらしめていることをあらためて思い知らされる。そこにとても冴えたやり方でさっと力を添えたシャーリーズ・セロンの頭抜けた嗅覚に相変わらずうっとりとしてしまう。笑う門には福来たるよ。
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2020年01月05日

テッド・バンディ/おまえももう死んでいる

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テッド・バンディ(ザック・エフロン)による凶行の犠牲となった女性たちが過ごしたであろう地獄の時間を、何らかの理由で彼に生命を奪われることのなかった女性たちは、しかしその生がある限り、引き延ばされたその時間を永遠の囚われの中で過ごさねばならなかったのだろう。なぜ自分は殺されないのか、それはテッドが私の中に彼と同じうごめきを見つけたからなのか、一度でも彼を愛した私はすでに彼と同じ悪に違いないのか、そうやって破壊を逃れた肉体の内側で精神が喰われていく緩慢な殺人をワタシたちはリズ(リリー・コリンズ)を通して追体験することとなり、既にテッド・バンディの犯した罪を知るワタシたちに、いったんそのことは頭から追い出してテッド・バンディに見初められた者の曖昧な生き地獄を共に過ごすことを強要しては、カワート判事(ジョン・マルコヴィッチ)がテッドに「きみはとても聡明な若者だし、ならば優れた弁護士としてここで私の前に現れてくれていたらと思っている」という言葉をかけた瞬間が、テッド・バンディの悪魔のような二面性とその呪いを図らずも強化してしまいさえするのである。果たしてテッドはリズを愛していたのだろうかと言えば、そもそもワタシたちの言う愛などという代物がテッドのそれを解題できるわけなどなく、それよりはお前を殺さないでいることで他の女性たちをもっとよく殺せるんだ、とでもいう彼なりのバランサーだったのだろうとワタシは考えていて、リズとの最後の面会で彼がとったある行動によって足もとから瓦解したリズを見つめるテッドの、もしかしたらおれはもう一人の女性も破壊できないかもしれないから、お前のその表情を人生のデザートにさせてもらうよとでもいうその貌に「テッド・バンディ」という記号が刻まれて完成するのをようやく見た気がした。そうやって冤罪と闘うテッド・バンディという狂気を徹底する手続きをとることで、この映画はリズやキャロル(カヤ・スコデラリオ)といった言わばバンディ・ガールズとくくられてしまう女性たちを、騙される方が悪いのではなく騙す方が悪いに決まっているのだと正当な犠牲者として描き、彼女たちの冤罪を晴らすことを願ったようにも思うのである。欲望が感情のフィルターで濾過されることなく行動に決定され、理性をその道具と従えた人間の亜種テッド・バンディを実物の倍増しのチャームで演じたザック・エフロンがほとんどキャリアハイのきらめきをみせていて、まるで洗練された教育とマナーで調教された千葉真一のようだった。『ザ・バニシング −消失−』のレイモンはある意味でバンディのコピーキャットだったことに今さらながら気づく。
posted by orr_dg at 20:42 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

僕に残されてる夏はあと何回?と歌う片寄明人の詞に込められた刹那の意味が、二ヒルの白熱ではなく瞬間を慈しむことなのだとようやく分りかけてきた今日このごろの、その気持ちで今年を過ごしていきたいと考えています。
posted by orr_dg at 19:09 | Comment(2) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする