2019年12月31日

2019年ワタシのベストテン映画

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ミスター・ガラス
岬の兄妹
荒野にて
魂のゆくえ
オーヴァーロード
ガルヴェストン
ゴールデン・リバー
ゴーストランドの惨劇
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
ボーダー 二つの世界

観た順番。
秋口からあまり映画館に行けていなかったりして、劇場鑑賞数は例年より30本程度減少。でも、さほど悩むこともなく無理矢理でもなく10本が決まったのだから、今年は良い映画に恵まれた年だったんだろう。

私は通りすがりの映画館に入って目を酷使した。呼吸のざわめきや、いやなにおいをたてるぐにゃぐにゃと温かい皮膚にみたされ、たえまなしに色と音が変わりつづけているその闇にもぐりこんでいると潮のように迫ってくるものからしばらく体をかわすことができた。―開高健

なのに、そんな風に映画館に逃げ込んだ、なんだかあまり健康的とは言えない記憶が残る年になった気がしてしまっている。来年は、スクリーンの緊張に顔を上げて向き合える年になりますように。
posted by orr_dg at 00:59 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月26日

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け/死なばもろとも

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オフィシャルサイト

※もはやどうでもいいので思い切り展開に触れています

“見てみろ、この慌てぶりを。怖いのだ。怖くてたまらずに覆い隠したのだ。恥も尊厳も忘れ、築き上げてきた文明も、科学もかなぐり捨てて。自ら開けた恐怖の穴を慌ててふさいだのだ。”と大佐の言を引用してしまえばそれで済んでしまう気もしたのだ。センスはあってもそれはセンス・オブ・ワンダーになりえないことに絶望しワンダーを抹殺する人生に身をやつすことを選んだカイロ・レンの荒ぶるフラストレーションへと自身の屈託をしのばせたJJに、フランチャイズのリサイクラーとしてではない作家性を初めて垣間見た『フォースの覚醒』はその点においてスリリングですらあったし、強大な父を乗り越えるために要求される男らしさ=マチズモの支配する枠組みを解体するため、父殺しをしなければ更新されない世界を鎮めるべくフォースの持つ破壊と再生という側面を最後の父殺しレンと殺すべき父を持たないレイに分け与えた『最後のジェダイ』も、ならばとワタシは心穏やかに受け入れたのである。それがなぜ前作を恐怖の穴と唾棄し、応急処置のしかもマッチポンプとすら言えるつぎはぎで覆い隠したような、新たな地平を目指すつもりなど一切ない言い訳だらけの撤退戦に終始したのか、自ら産み落とした若者たちを信じることすらできず幾多の亡霊たちの力を借りては急場を凌ぐうち、亡霊その一のパルパティーンに至っては実体化をするどころかついにはレイの祖父すらを名乗り始める始末で、前作の「幻想にしがみつくのはやめろ!」というカイロ・レンの叫びがどれだけ虚しく響いたことか、ベン(カイロ・レン)とレイという均衡の双子かつ理力のソウルメイトにキスをさせるに至っては、JJの思春期朴念仁っぷりが『スーパー8』から何一つ成熟していないことすら晒してしまう始末ではなかったか。本来であればエピソードの半分は費やすべきレイの両親の出奔をほんの数カットで片づける逃げ足はまるで打ちきり漫画の最終回のそれとしか思えず「――すべて、終わらせる。」というのはまさに字義通りの意味だったのかと、四角な座敷を丸く掃く体裁だけの大掃除に、ああそう言えばほうきをスッと手繰り寄せたあの少年は今頃何をしているのだろうと彼方を見つめたりもしたのであった。とはいえ、そもそも語るべき物語などそれ自体が罪なのだとでもいう全方位マーケティングへの強迫観念的な奴隷労働こそは、キャンセル・カルチャーという時代の気分をヴィヴィッドに反映させた最前線の140分であったということになるわけで、ワタシたちの誰もが罪深いファントムメナスなのだろう。もはやストーリーに組み込むことすらあきらめたのか、昏睡するファンが今際の際に見た走馬灯にしか映らないイウォークを、ならばそっと後ろ姿にとどめおくことすらしない野暮がどこまでも念入りにとどめを刺してくる。
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2019年12月19日

ラスト・クリスマス/ルック・アップ・イン・アンガー

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オフィシャルサイト

※展開に触れています。

「普通」なんていうのは、他人を傷つけるだけの醜い言葉でしかない、と諭しつつも吐き棄てるように言うトム(ヘンリー・ゴールディング)の正体が明かされた瞬間、ああこれは分断が蝕む時代のクリスマス・キャロルでもあったのだなと、この映画が失わない清冽な灯りの理由がわかった気もしたのである。どうして私が、なぜ私だけがと人生の分け前にこだわるあまり、失ったもの(私の心臓)に屈託をぶつけるばかりで自分が生かされている理由(誰かの心臓)を省みることをしないケイト(エミリア・クラーク)にトムは、下ばかり見ていないで上を見てごらんとそっとアドバイスをする。そうやって上を見上げて背筋を伸ばし胸を張り、自分が気づかないだけでいつもずっとそこにあるものを知ることは新しい旅への第一歩であるに違いなく、ケイトの場合それはカタリナというもう一人の自分へと立ち還る道行きとなることで、自分はどんな連なりの最後尾にして最前線にいるのかを再確認しつつ今自分がここにいることの意味を知っていくこととなり、疑うことなく自分を「普通」だと考える人たちによって断ち切られた繋がりをもう一度結んでみることによって、かつて断ち切ったカタリナの輪郭がもう一度ケイトに重なっていったように思うのだ。大切なのは、ありもしない普通であろうとすることよりも自身の自然であることなのだというその眼差しは、離脱と分断の恍惚に焦がれるイギリスへの絶望よりは衒いなく真っ直ぐな希望に照らされた気もして、しかしそれは、シニックが有効なのは最低限の正気が担保された社会相手のことだったのだという、あきらめの先で行われる笑顔の逆ギレにも思え、すなわち現実がいかに救いがたいことになっているかというその証明であった気もしてしまうわけで、『ラブ・アクチュアリー』から15年経ったイギリスがこんなふうに真顔でクリスマスを迎える無常に想いを馳せたりもしてしまう。奇しくも自転車で事故った若者の物語でありながら、かたや大英帝国の誇りを歌い上げたあの映画の楽天性が犯罪的な鈍感としか映らなかったことも、今この世界の忠実な反映であったのだなあとようやくその役割に気づいた気もしたのだった。今作がクリスマス映画の新たなスタンダードになりますように。
posted by orr_dg at 17:26 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月05日

ドクター・スリープ/エンジンルーム、ボイラールーム

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オフィシャルサイト

キングが指摘していたように、キューブリックはホラー映画とブラックコメディの世界が接する境界線を認識して、ある一線を越えると恐怖と共に笑いが生まれることを理解しそれを実践していたわけで、『シャイニング』の計ったような「ホラー」のアプローチとアタックはほとんど幽霊屋敷もののパロディといってもいいくらい余白までも完全にデザインした表層でものにされていて、ジャックの間抜けな凍死体はそこまで引きずりまわした観客への見事なあっかんべえだったのだろうとワタシは思っている。してみると、まずは『シャイニング』を「ホラー」のジャンルに取り戻さねばならぬというキングの復讐を達成するために、ジャンルに愛と忠誠を誓ったプロパーを据えるという点において、かつキューブリックのヴィジョンを理解し再構築する視点と胆力を持ち合わせるにおいて、ホラーのヴィジョンで状況ではなく情動を語ることのできるマイク・フラナガンは正鵠を射た起用だったというしかないし、このメジャー作品においてもこれまで同様に脚本と編集を手掛けることを認めた点でも、どれだけキングの後押しがあったかは不明ながら製作陣の慧眼は称賛されるべきだろう。したがって、キューブリックが何より興味を示さなかった善と悪のあわい、すなわちキングがいうところの“エンジン”にフラナガンはガソリンを注ぎ続けたわけで、善の為すことと悪の為すことを常に対比的に描くことによって最終的にはキューブリックの描いたヴィジョンにすら血を通わせて(しまって)いて、ほぼ40年を経てダニー(ユアン・マクレガー)とジャックが対峙するゴールド・ルームのトレースといい、その一歩も退かぬ確信と勇気はほとんど感動的ですらあったのだ。と同時に、ダニーとアブラ(カイリー・カラン)の立ち向かうべき相手は「悪」であって「狂気」でないことを念押しするためには野球少年の断末魔も厭わない躊躇のなさは、キングの刻印であると同時にフラナガンの譲れぬ矜持にも思えたのである。そんな風にして、『オキュラス』を観た時に思った、この監督にとって恐怖の対義語は愛なのだろうというその定義がここでは見紛うことなく爆発していて、キングにキューブリックを赦すことを促してみせさえしていたし、何よりそれは『シャイング』の嫡子ともいえるポスト/ポストモダンホラーの虚空に放り出す流体が支配する現在において、恐怖で往き愛で還ってくる物語もまた守るべきホラーの牙城であることを明確に示してみせたのではなかろうか。ある意味、彼女に今作の成否がかかっていたと言ってもいいレベッカ・ファーガソンが、右目に野卑、左目にノーブルを宿した女王蜂をしなやかで揺るぎのない重心でいわゆる良識の人のかけらもなく演じていて、ユアン・マクレガーと共に欧州の幽かにささくれたソリッドがジャック・ニコルソンの狂情を跪くように鎮めてみせていた。
posted by orr_dg at 22:06 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする