2019年11月30日

アイリッシュマン/キラー・インサイド・ゴッド

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オフィシャルサイト

「この件におまえを引きこまないとお前に阻止される」とラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)がフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)に言葉を絞り出した瞬間、自由と平等の国アメリカがその表情を一変させ寄る辺のない取り立てがフランクに始まることとなり、少女のペギー・シーラン(アンナ・パキン)が父に見てジミー・ホッファ(アル・パチーノ)に見なかったもの、それはおそらく暴力に人生のみならず夢と友情までも借りたその負債だったということになるのだろう。その負債と資産が流動するバランスシートをアメリカの後ろ姿と描いてきたマーティン・スコセッシが、ここではペギーの視線を借りることでその背中に拭いようのない唾を吐いていて、ついにペギーから赦されないままたった一人でこの世から消えていくフランクのバランスゼロに向かう彷徨を描きながら、それでもその最期の時まで救いの訪れを待つようにドアを開けたまま眠るフランクへ向けるスコセッシの視線は、『ミーン・ストリート』から始まってロバート・デ・ニーロと共に過ごした半世紀近い旅の終わりを慈しんでいるようにも思えたのだ。そしてもうひとつ、ペギーがジミー以外の男たちを忌避するのは彼らがその奥底では女性を人生の勘定に入れない生き物であることへの押し殺した憤怒であった気もして、例えば冒頭のやりとりがかわされるモーテルの食堂で、フランクのボウルにコーンフレークを入れたラッセルがテーブルに置いたその箱の、はみだした内袋をそっと押し入れるフランクの細やかな仕草は長年連れ添った夫婦のそれとしか映らないわけで、ラッセルがフランクに贈ったリングが実質的な結婚指輪であることは言うまでもなく、彼らのいうファミリーにおいて女性たちは血と暴力のアリバイとしてその贖いの祭壇として存在するに過ぎないことをこんな風な内部告発の視線で描いてみせたこともスコセッシの清算であった気がするのである。したがって、ある限界がラッセルによって告げられて以降、あのモーテルでの朝食を起点にほとんど投げやりといっていいくらい醒めたショットと弛緩した時間(例えばできそこないのタランティーノのような車内)の果てに描かれる、ケネディ暗殺と対をなすようなアメリカ殺しは結局のところ自分たちすべての自死でもあったのだという諦念と懺悔の監獄に彼らを放り込んだわけで、赦されないことを知っている者たちがそれでも赦しを請わねばならぬ煉獄で幕を閉じるためにこそ、時間の感覚を無効化していく210分という倦んだ時間を必要としたのだろうし、これがパラマウント作品として市場を考慮した180分に収められでもしていたら懺悔の値打ちはストーリーのメランコリーとして機能するにとどまり、冒頭に掲げられた「お前は家のペンキを塗るそうだな」という言葉が、あるアイルランド人の気の利いた墓碑銘として刻まれるに過ぎない作品となっていたようにも思うのである。ディエイジングという特殊効果によって若返った貌に首から下の動きが応じていないシークエンスがないこともないのだけれど、このあらかたがフランクの回想によって語られる物語であることを想い出してみれば、むしろそのぎこちなさこそがフランクの愚直に行っては帰る人生の揺れや震えだったようにも思うのだ。してみれば『沈黙』を撮り今作を撮ったスコセッシが、それを撮る人間の人生が投影されない映画を果たして映画と呼べるのか、とまるで映画学科の学生のような苛立ちをマーヴェルにぶつけたのも、ドアをあけたまま終わる映画をついに撮りきった/撮りきってしまった昂奮と寂寥のなせる業だと思えばこそ、ワタシたちはそれにうなずくしかないのではなかろうか。ジョー・ペシがまるで即身仏のようだった。
posted by orr_dg at 10:58 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする