2019年11月21日

ひとよ/まだはくよ

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稲村こはる(田中裕子)が恐れたのは父(井上肇)が子供たちにふるう暴力はともかく、いずれ3人のうちの誰かが父親を殺してしまうことになるのではないか、というそのことであったようにも思え、この生き地獄を終わらせるためにはあいつを殺すしかないという母と子の奥底で頭をもたげつつある殺意を認識したこはるの、ならば私がその役目を引き受けてしまえばいいのだという昏いひらめきと決意が、あの夜の彼女に「母さんは(殺人を成し遂げた)いまの自分が誇らしい」と言わせた気もして(事後の処理を指示する言葉からして、あの夜の行動は衝動的ではなく計画的だったことがうかがえる)、大樹(鈴木亮平)、雄二(佐藤健)、園子(松岡茉優)の3人が抜け出せないままもがき続ける日々の屈託は、人殺しの子供となったことよりも、母親にそれをさせたことへの痛切な悔悟が色濃かったように思うのである。したがって、時折誰かが口にする贖罪という言葉は、こはるではなく子供たちの胸にしまわれた言葉のはずであって、「おかあちゃんは間違ってない」というこはるの奇妙な明るさと悪びれなさが、自分たちが世界に負った負債の正体がその贖罪であることを子供たちに告げていくこととなるわけで、それをいったいどう認めればいいのか途方にくれる子供たちが、母を救い父親を殴り飛ばすはずの夜がはからずも再現されそれを疑似体験することで、向き合うべきものの正体を知る結末の荒ぶりと昂ぶりは、暴力を、回避できない感情の切実なデザインと描いてきた白石監督の真骨頂と言ってもいいシーンだったように思う。それが内向にしろ外向にしろ、白石作品ではいつも役者が気持ちよさそうに演じているなあという印象は今作でもそのままに、とはいえそれは自然体のナチュラルというよりはアップデートされた昭和感とでもいうある種のバタ臭さに満ちたケレンであって、戦後に直結した時代の生と死のぎらついたメランコリーを現代の新しい言語として翻訳する監督の幻視は邦画において群を抜いているのは間違いがないだろう。ただ、これは今作に限ったことではなく邦画の問題としてあることだと思うのだけれど、たとえば『楽園』や今作での外部的な悪の描かれ方が、十年一日のごとく地方共同体の排他的かつ匿名的な悪意に終始せざるをえないのは、良くも悪くも日本と言う国の偏執的な均質性のなせる業なのか、悪意の反射が映画にもたらす光の角度が扁平で凡庸に思えてしまうのがそのまま邦画の限界につながってしまう気がしてしまい、人種や宗教、性的指向など個人的な属性の分断から距離を置いてきた国の宿命と呑み込むしかないのだとすれば、それはもちろん映画の外側でこの不幸を打破するところから始めなければならないことを再認識させられることとなるわけで、映画に感じ入れば感じ入るほどその負債に気づかされる複雑な面持ちの傑作であったというべきか。ところで、前述した『楽園』といい映画の中の落書きって同じ人が書いてるんだろうかと思うくらいに、説明的に崩し方が整っているところでいつも気持ちがスッと引いてしまうのもワタシにとって邦画の密かに厄介な問題点で、ダイイングメッセージでもあるまいし悪意のぶちまけなのだから字なんかハッキリと読めなくたってかまいやしないと思うのだけれども、その度に素面に戻ってしまうのがほんとうに厄介この上ない。
posted by orr_dg at 23:20 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする