2019年11月14日

永遠の門 ゴッホの見た未来/晴れた日に永遠が描ける

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オフィシャルサイト

ジュリアン・シュナーベルはゴッホの人生の最期を、世界と刺し違える芸術家の彩りとしての自殺から救い出す。『バスキア』がそうであったように同じアーティストならではの批評性の一切を放棄したバイオピックは、世界が“視えてしまう”がゆえ埒外に弾かれる人に向けた彼の愛情とそれゆえの哀しみを衒いなく綴ったラブレターといってもいい。精神病院で聖職者(マッツ・ミケルセン)とゴッホが交わす、神の意志と表現者の仕事に関する会話こそはシュナーベルがゴッホに見出した芸術家の神髄で、目に見えるものではなく目に見えないものにこそ心を向けなさいという神の言葉を私は実践しているだけなのだ、というゴッホの言葉は奥底で聖職者を凌ぎさえして、神はもしかしたら少し時間を間違ったのかもしれず、私はいまだこの世に生まれていない人たちのための画家としてつかわされたのかもしれないとすら言葉を紡ぐのだ。もちろんこれは、後世で定まったゴッホの評価と業績から導かれた言葉であるにしろ、シュナーベルはゴッホの狂気が作品を産み落としたのではないことを、表現者としての無垢の魂こそがそれを成し遂げたことを愚直といってもいい寄り添いで描いていくこととなり、そればかりかゴッホ視点によるショットで時折あらわれる接写と素通しの混在した不思議な映像によって、ゴッホの視たであろう世界を追体験せよと働きかけさえしてくるのだ。ただ、そうやってゴッホの心象へと溶けていくには、ウィレム・デフォーのしわくちゃの赤ん坊のような喜怒哀楽のチャームにともすれば目と心が奪われてしまいがちではあったものの、画家ゴッホについてまわる「狂気の」という枕詞の払拭という点でシュナーベルの野心が達成されたのは確かに違いなく、それはおそらく芸術という精神の在り方に対する、世界の根底にある違和の健全性を問う試みであったようにも思うのである。自然の音とゴッホの音とがあわい光の中に溶けていく白昼夢のような瞬間はミュジック・コンクレートのようでもあり、実を言えばそれだけでも良かったと思わなくもない。
posted by orr_dg at 23:52 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする