2019年11月01日

真実/目薬をほんの一滴

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ファルハディの映画のように切羽詰まったタイトルを戴いてはいるものの、あぶりだされた真実が実存を苛んでいくというよりは、信じたことが真実となるように裏切らないことを私は貴く思う、というファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の演技論が人生論を呑み込んでいく時の楽屋落ち的な軽やかさとペーソスでカトリーヌ・ドヌーヴというジャンル映画を仕立てたように思ったのである。そうした構造が示すように、ファビエンヌとリュミール(ジュリエット・ビノシュ)の母娘がマノン・ルノワール(マノン・クラヴェル)という女優との邂逅によって、2人が奥底では共有するある喪失と折り合いをつけて再生を果たすという、場合によっては真実と刺し違える覚悟を求めるような筋立ても常に光の射す中で描かれることもあり、語るべきは劇中劇「母の記憶に」に任せるという二重構造によって、孤絶した精神がだんだんと世界から透き通っていく是枝作品のメランコリーは意図的に封印されることとなるわけで、それを理解しつつも生前のサラとファビエンヌ、リュミールの3人が繰り広げたであろう真実と愛憎の物語をどうしてもワタシは夢想してしまう。したがって、どちらかと言えばファビエンヌとリュミールの母娘をとりまく人たちに是枝作品のカラーが滲んでいて、リュミールの夫ハンクを演じるイーサン・ホークの阿部寛的なうっすらとした自虐は目に愉しく、映画の実質的な小さなエンジンとなるシャルロット(クレマンチヌ・グレニエ)の演技を超えた転がり方もまた馴染みに思えたりもした。撮影を終えた終盤、マノンとファビエンヌ、リュミールによるサラの弔いといってもいい交流はいささか性急な物分かりの良さが気になったのだけれど、それもまたあくまでウェルメイドに収めるための野心ということになるのだろうか。ラストショットでシャルロットが落とした黄色い帽子は、それを拾うマノンの姿を象徴的に予感させることで、シャルロットにおけるサラとしてのマノンという物語の未来を伝えたようにも思える。作品の感触としては『誰も知らない』の後で新たなフェーズに向かう前に、あえて決め打ちのジャンルに正面から向かうことでスタイルを整理した『花よりもなほ』に近いように感じた。ファビエンヌがブリジット・バルドーを斬り捨てるセリフと表情はドヌーヴと監督のなかなか際どい共犯行為に思えたし、そうした関係性が言わせる「それが暴力的だろうが日常的だろうが、映画には詩(ポエジー)が必要でしょう?」というセリフが、いくたびか捉えられたドヌーヴの横顔を超然と浮かび上がらせたようにも見えた。イーサン・ホークの偏執的といってもいい目盛りによる「卑」の調節については言うまでもなく。
posted by orr_dg at 21:12 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする