2019年11月30日

アイリッシュマン/キラー・インサイド・ゴッド

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「この件におまえを引きこまないとお前に阻止される」とラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)がフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)に言葉を絞り出した瞬間、自由と平等の国アメリカがその表情を一変させ寄る辺のない取り立てがフランクに始まることとなり、少女のペギー・シーラン(アンナ・パキン)が父に見てジミー・ホッファ(アル・パチーノ)に見なかったもの、それはおそらく暴力に人生のみならず夢と友情までも借りたその負債だったということになるのだろう。その負債と資産が流動するバランスシートをアメリカの後ろ姿と描いてきたマーティン・スコセッシが、ここではペギーの視線を借りることでその背中に拭いようのない唾を吐いていて、ついにペギーから赦されないままたった一人でこの世から消えていくフランクのバランスゼロに向かう彷徨を描きながら、それでもその最期の時まで救いの訪れを待つようにドアを開けたまま眠るフランクへ向けるスコセッシの視線は、『ミーン・ストリート』から始まってロバート・デ・ニーロと共に過ごした半世紀近い旅の終わりを慈しんでいるようにも思えたのだ。そしてもうひとつ、ペギーがジミー以外の男たちを忌避するのは彼らがその奥底では女性を人生の勘定に入れない生き物であることへの押し殺した憤怒であった気もして、例えば冒頭のやりとりがかわされるモーテルの食堂で、フランクのボウルにコーンフレークを入れたラッセルがテーブルに置いたその箱の、はみだした内袋をそっと押し入れるフランクの細やかな仕草は長年連れ添った夫婦のそれとしか映らないわけで、ラッセルがフランクに贈ったリングが実質的な結婚指輪であることは言うまでもなく、彼らのいうファミリーにおいて女性たちは血と暴力のアリバイとしてその贖いの祭壇として存在するに過ぎないことをこんな風な内部告発の視線で描いてみせたこともスコセッシの清算であった気がするのである。したがって、ある限界がラッセルによって告げられて以降、あのモーテルでの朝食を起点にほとんど投げやりといっていいくらい醒めたショットと弛緩した時間(例えばできそこないのタランティーノのような車内)の果てに描かれる、ケネディ暗殺と対をなすようなアメリカ殺しは結局のところ自分たちすべての自死でもあったのだという諦念と懺悔の監獄に彼らを放り込んだわけで、赦されないことを知っている者たちがそれでも赦しを請わねばならぬ煉獄で幕を閉じるためにこそ、時間の感覚を無効化していく210分という倦んだ時間を必要としたのだろうし、これがパラマウント作品として市場を考慮した180分に収められでもしていたら懺悔の値打ちはストーリーのメランコリーとして機能するにとどまり、冒頭に掲げられた「お前は家のペンキを塗るそうだな」という言葉が、あるアイルランド人の気の利いた墓碑銘として刻まれるに過ぎない作品となっていたようにも思うのである。ディエイジングという特殊効果によって若返った貌に首から下の動きが応じていないシークエンスがないこともないのだけれど、このあらかたがフランクの回想によって語られる物語であることを想い出してみれば、むしろそのぎこちなさこそがフランクの愚直に行っては帰る人生の揺れや震えだったようにも思うのだ。してみれば『沈黙』を撮り今作を撮ったスコセッシが、それを撮る人間の人生が投影されない映画を果たして映画と呼べるのか、とまるで映画学科の学生のような苛立ちをマーヴェルにぶつけたのも、ドアをあけたまま終わる映画をついに撮りきった/撮りきってしまった昂奮と寂寥のなせる業だと思えばこそ、ワタシたちはそれにうなずくしかないのではなかろうか。ジョー・ペシがまるで即身仏のようだった。
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2019年11月27日

ゾンビランド ダブルタップ/生きてるだけじゃダメかしら

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リトル・ミス・サンシャインmeetsアドベンチャーランドへようこそ的な前作の残り香はほとんど見当たらず、というかマイケル・ルーカーをウディ・ハレルソンにあてがったような『ウォーキング・デッド』って実はどこかでオレのアレに背中押されてるよな?ってルーベン・フライシャーがニヤついたかどうかはともかく、どうせ刺身のつまにするならここまでやれよってな風に、ゾンビをほとんど飛んでくるハエの扱いへと解体するため映画の基準線をブリングリングなマディソン(ゾーイ・ドゥイッチ)に設定した喰えなさ加減に、やはりこの監督に『L.A. ギャング ストーリー』みたいな“喰える”映画は向いてないことを自ら証明したように思ったわけで、今どきのイデアやらメタファーやらに捉まることなく最後まで見事にかわした逃げ足は称賛されてしかるべきだろう。なかでも特筆すべきは、メインの4人の中で前作からの10年の間に一番遠くまで行って還ってきたエマ・ストーンの一瞬たりともとどまることをしない顔芸で、隙あらば余白にそれを撃ち込んでくる反射神経は最近では松岡茉優に同じ香りを嗅ぐ気もするわけで、ジェシー・アイゼンバーグのノーブレスなまくし立てがやや頭打ちであったことを思えばこそ、鼻につくモード寸前にまで一気に切り換えるそのスイッチに恐れ入ったのだった。もはやロメロの新作が望めないこの世の中でゾンビが生き長らえていくための方策としては『ウォーキング・デッド』よりもむしろこちらに未来と誠実を感じたりもするのは見事な仁義を切ったオープニングがあればこそで、ゾンビを屠る快感を抜きにした真顔でジャンルへの愛情表現は語れないことを今一度作り手は肝に銘じておくべきだろう。ゾーイ・ドゥイッチは母親のイメージもあって『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』のベヴァリー的にカジュアルなエマ・ワトソンが道筋かと思っていただけに、ここでのイージーゴーイングなピンキーは思いがけない役得ではなかったか。2019年にしていまだ尽きないNINJAへの憧憬もまたモンドセレクション金賞受賞のめまいする趣き。
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2019年11月21日

ひとよ/まだはくよ

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稲村こはる(田中裕子)が恐れたのは父(井上肇)が子供たちにふるう暴力はともかく、いずれ3人のうちの誰かが父親を殺してしまうことになるのではないか、というそのことであったようにも思え、この生き地獄を終わらせるためにはあいつを殺すしかないという母と子の奥底で頭をもたげつつある殺意を認識したこはるの、ならば私がその役目を引き受けてしまえばいいのだという昏いひらめきと決意が、あの夜の彼女に「母さんは(殺人を成し遂げた)いまの自分が誇らしい」と言わせた気もして(事後の処理を指示する言葉からして、あの夜の行動は衝動的ではなく計画的だったことがうかがえる)、大樹(鈴木亮平)、雄二(佐藤健)、園子(松岡茉優)の3人が抜け出せないままもがき続ける日々の屈託は、人殺しの子供となったことよりも、母親にそれをさせたことへの痛切な悔悟が色濃かったように思うのである。したがって、時折誰かが口にする贖罪という言葉は、こはるではなく子供たちの胸にしまわれた言葉のはずであって、「おかあちゃんは間違ってない」というこはるの奇妙な明るさと悪びれなさが、自分たちが世界に負った負債の正体がその贖罪であることを子供たちに告げていくこととなるわけで、それをいったいどう認めればいいのか途方にくれる子供たちが、母を救い父親を殴り飛ばすはずの夜がはからずも再現されそれを疑似体験することで、向き合うべきものの正体を知る結末の荒ぶりと昂ぶりは、暴力を、回避できない感情の切実なデザインと描いてきた白石監督の真骨頂と言ってもいいシーンだったように思う。それが内向にしろ外向にしろ、白石作品ではいつも役者が気持ちよさそうに演じているなあという印象は今作でもそのままに、とはいえそれは自然体のナチュラルというよりはアップデートされた昭和感とでもいうある種のバタ臭さに満ちたケレンであって、戦後に直結した時代の生と死のぎらついたメランコリーを現代の新しい言語として翻訳する監督の幻視は邦画において群を抜いているのは間違いがないだろう。ただ、これは今作に限ったことではなく邦画の問題としてあることだと思うのだけれど、たとえば『楽園』や今作での外部的な悪の描かれ方が、十年一日のごとく地方共同体の排他的かつ匿名的な悪意に終始せざるをえないのは、良くも悪くも日本と言う国の偏執的な均質性のなせる業なのか、悪意の反射が映画にもたらす光の角度が扁平で凡庸に思えてしまうのがそのまま邦画の限界につながってしまう気がしてしまい、人種や宗教、性的指向など個人的な属性の分断から距離を置いてきた国の宿命と呑み込むしかないのだとすれば、それはもちろん映画の外側でこの不幸を打破するところから始めなければならないことを再認識させられることとなるわけで、映画に感じ入れば感じ入るほどその負債に気づかされる複雑な面持ちの傑作であったというべきか。ところで、前述した『楽園』といい映画の中の落書きって同じ人が書いてるんだろうかと思うくらいに、説明的に崩し方が整っているところでいつも気持ちがスッと引いてしまうのもワタシにとって邦画の密かに厄介な問題点で、ダイイングメッセージでもあるまいし悪意のぶちまけなのだから字なんかハッキリと読めなくたってかまいやしないと思うのだけれども、その度に素面に戻ってしまうのがほんとうに厄介この上ない。
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2019年11月17日

グレタ GRETA/待つわ

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※展開に触れています

クイーン・オブ・オブセッション、もしくは暗黒妖精としてのイザベル・ユペールという、その怪優のエッセンスだけを抽出し続ける試みの、あまりにもあまりで誰もが頭から振り払ってきたそれをただひたすら衒いなく行ってみたらどうなるだろうと考えて、実際に行ってしまった二―ル・ジョーダンの英断と言うか蛮勇を讃えるべきで、監督やキャストの映画史的な格からハイブロウな神経戦を装いつつも、むしろサスペンスの徹底した底の抜け具合にこそこの映画の本領があることは、例えばマイケル・マイヤーズがすべての警官やヒロインの理性的な行動を無効化してしまうことを想い出してみれば、それが瞭然なのは言うまでもないだろう。相対する誰よりも小さな身長と曖昧な頭身の醸すイザベル・ユペールの不穏が、これまた年を重ねるにつれそのいかり肩に攻撃的な角度を増すクロエ・グレース・モレッツとクロスするスリルと、しかしこの映画を最終的に縦断していくのはファンキーでタイトなマイカ・モンローであったという女性たちの『ピアニスト』vs『キャリー』vs『イット・フォローズ』な三すくみに加え、探偵(スティーヴン・レイ)やフランシスの父(コルム・フィオール)といった男性陣の役立たずにおいて、二―ル・ジョーダンらしい小さくも固く引き締まった握りこぶしの物語であったように思うのである。と同時にらしからぬトリッキーで多層なショットはニール・ジョーダンが秘めたヒッチコック〜デ・パルマへの偏愛であったのか、前述した底の抜け方がこれらへの前奏であったと思えばこそワタシは重箱の隅をつつく一切をしないでのある。ではモンスターとしてのグレタを打ち倒すラストガールの役割を誰がどのように担うのか、その三すくみの力関係においてクロエ・グレース・モレッツの善性よりはマイカ・モンローのエッジーを買ったニール・ジョーダンのアップデートされた嗅覚はさすがであったというしかないにしろ、と同時にクロエ・グレース・モレッツ受難の時代をうっすらと予感させたりもして少々切なくはあったのだ。イザベル・ユペールを観るたびに大貫妙子が俳優だったらなあと益体のない夢を見たりしていたのだけれど、やはり今回もそんな夢を茫漠と見てしまったりもした。ノーブルで毅然と悪魔的なハチドリの視えない羽ばたきをする人の笑み。
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2019年11月14日

永遠の門 ゴッホの見た未来/晴れた日に永遠が描ける

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ジュリアン・シュナーベルはゴッホの人生の最期を、世界と刺し違える芸術家の彩りとしての自殺から救い出す。『バスキア』がそうであったように同じアーティストならではの批評性の一切を放棄したバイオピックは、世界が“視えてしまう”がゆえ埒外に弾かれる人に向けた彼の愛情とそれゆえの哀しみを衒いなく綴ったラブレターといってもいい。精神病院で聖職者(マッツ・ミケルセン)とゴッホが交わす、神の意志と表現者の仕事に関する会話こそはシュナーベルがゴッホに見出した芸術家の神髄で、目に見えるものではなく目に見えないものにこそ心を向けなさいという神の言葉を私は実践しているだけなのだ、というゴッホの言葉は奥底で聖職者を凌ぎさえして、神はもしかしたら少し時間を間違ったのかもしれず、私はいまだこの世に生まれていない人たちのための画家としてつかわされたのかもしれないとすら言葉を紡ぐのだ。もちろんこれは、後世で定まったゴッホの評価と業績から導かれた言葉であるにしろ、シュナーベルはゴッホの狂気が作品を産み落としたのではないことを、表現者としての無垢の魂こそがそれを成し遂げたことを愚直といってもいい寄り添いで描いていくこととなり、そればかりかゴッホ視点によるショットで時折あらわれる接写と素通しの混在した不思議な映像によって、ゴッホの視たであろう世界を追体験せよと働きかけさえしてくるのだ。ただ、そうやってゴッホの心象へと溶けていくには、ウィレム・デフォーのしわくちゃの赤ん坊のような喜怒哀楽のチャームにともすれば目と心が奪われてしまいがちではあったものの、画家ゴッホについてまわる「狂気の」という枕詞の払拭という点でシュナーベルの野心が達成されたのは確かに違いなく、それはおそらく芸術という精神の在り方に対する、世界の根底にある違和の健全性を問う試みであったようにも思うのである。自然の音とゴッホの音とがあわい光の中に溶けていく白昼夢のような瞬間はミュジック・コンクレートのようでもあり、実を言えばそれだけでも良かったと思わなくもない。
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2019年11月11日

IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。〜長くていいのは親の寿命

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ベヴァリーを捉えた恐怖の源泉となっている自らの女性性に対する怒りや困惑をいささか体よく使っていたり(原作でもフクナガ版の脚本でも薬局のくだりや日光浴のシーンにセクシャルなあてこすりはない)、彼女をルーザーズのミューズではなくお姫様と騎士という定型におとしこんだジュヴナイルへと刈り込んだ前作に今一つ乗り切れなかったこともあり、年だけを重ね大人になった彼女や彼らが真の通過儀礼を果たすための代償をペニーワイズに支払うその痛みと哀しみは、この大人篇においてようやく純粋な身の丈として沁み渡ったように思うのだけれど、死とセックスのオブセッションがイノセンスを殺していくアメリカの蒼ざめた神話をデリーという町の衰亡に重ねていくマクロコスモスを、こんな風にかいつまんでイベントムーヴィー化することの必然と切実が最後までワタシには見つからないままだったように思ってしまう。ホラー映画としてはなるべくペニーワイズを登場させねばならぬとはいうものの、ならば『ファンハウス/惨劇の館』で事足りてしまうよねという野暮を透かすように臆面もなく『レディプレイヤー1』ばりにホラーの断片を切り貼りするどころか、ミセス・カーシュのシークエンスではシャワーキャップの裸踊りなどほとんど『インシディアス』の瓦解する恐怖すらをまんま引用する豪快さ(ミセス・カーシュのあからさまなエリーズ寄せ!)が愉しくはあったものの、それぞれが儀式のアイテムを探すエピソードではさすがにネタ切れが否めないままこれが人数分だけ繰り返されることになるのかと、あろうことか『エンジェル ウォーズ』の宝探しイベントすらを思い出す始末で、ホラー映画にとって「弛れ」を越えた「飽き」はほとんど致命傷といってもよく、中華料理店あたりでの何かは知らぬが更新されそうな気分はここで霧散したといってもいいだろう。縦糸と横糸をありえぬ配色で偏執的に織り込むうち、ある瞬間ふっと予期せぬ文様がそこに浮かび上がって恐怖と希望が加速するのがキングの長篇を読む醍醐味なわけで、その文様だけを手に入れたところでそれは一匹の亀であり一匹の蜘蛛でしかなく、いずれ負け戦であるとするならばいっそキューブリックのように戦いのルールを変えてしまうくらいのヴィジョンで塗りつぶして欲しかったと思ってしまうのが正直なところだし、そしてそれは第一稿の時点で「頼むからワーナーはこれをこのまま映画にしてくれ」とキングに絶賛されたフクナガ版のシナリオと彼のヴィジョンであったのは言うまでもない。逃した魚は大きすぎた。
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2019年11月08日

マチネの終わりに/愛とは決して反省しないこと

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空間をケチらないロケーションや的確にデザインされた陰影をとらえるカメラ、ハイプなキャスティングもなくアンサンブルのラインも真摯に維持される中、蒔野聡史を演じる福山雅治だけがどこかしらリハーサルの風情のままもう一段(二段かもしれない)腰を落とす気配がないものだから、こちらはいったいどこまで真顔で追ったらいいのか最後まで遠巻きにしたままだったのである。深淵で怪物に喰われかける表現者の喪失と再生を刹那の愛に託すという筋立ては非常にわかりやすいものの、そのプロットの実践が演出者と演者とで決定的に乖離したままどうして映画が完成してしまったのか、その道程が理解しがたいというよりは純粋に興味すらおぼえたわけで、ある種の躁病的な饒舌という設定なのかと思った蒔野の軽さはそれが本質のまま覆されることもないものだから、蒔野が小峰洋子(石田ゆり子)を見初めるのは彼の勝手にしても、自分の人生をリスクに晒してまで洋子がそれに応える理由が何なのか、洋子の母(風吹ジュン)が言う「男の人に惹かれるのに理由なんかありゃせん」というセリフのままに洋子ですらがわからないそれをワタシが知る由などあるはずがなかったのである。それを取り繕うかのようにリチャード新藤(伊勢谷友介)は次第に精神の深みを欠いたいけ好かない人物として描かれ始め、そして何より、本来は蒔野と洋子とで拮抗した三角関係を成立させなければならない三谷早苗(桜井ユキ)にしたところが、予告篇で印象的だった「わたしの人生の目的は蒔野なんです!」という彼女のセリフの絶望的な自己矛盾によってプレイヤーとして土俵にあがるべきところを単なる泥棒猫のような悪人として描いてしまう始末で、重力を無視した蒔野の磁場が映画空間を狂わせていくその様はなかなかに圧巻である。原作は未読ながら三谷の造型に関してはさすがに脚色のエラーだろうとは思うものの、これを蒔野と洋子の凡庸で下世話な悲恋に収束させるつもりであったならかなり意図的な書き換えということになるし、その目論見は鮮やかに達成されたといっていいだろう。そもそも恋愛とかいう人間の実存的な行為に対する問いも答えも明快に存在するわけはないにしろ、だからこそそこに至るまでの手続きは合理的かつ実際的に行われる必要があるに違いなく、さすがにハネケやファルハーディの綿密や緻密までを求めることはしないけれど、それを余白の抽象のまま投げ出してみたり(『楽園』)、あるいは今作のように破綻を来すほど矮小化してみたり、その責を観客に負わせることが映画の問いかけだというポストモダンの信念がいまだ邦画には顕著な気がして、断定のダイナミズムによる混乱と騒乱を待っているうちに何だか疲れて眠くなってしまうのだ。というわけで、あの暗証番号が目に入った瞬間、ブランキー者はいったい誰だ?と目が冴えた瞬間がピーク。
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2019年11月06日

ジェミニマン/おまえもウィル・スミスにしてやろうか

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※通常フォーマットで鑑賞したので、映像面での評価はまるで反映されていません。

初期アン・リーの父殺しならぬ父助けの三部作を嗅ぎつけてのオファーであったのか、父の救済という視点による父子関係というアメリカ映画ではなかなかスイングしにくい題材ではあるのだけれど、序盤のヘンリー(ウィル・スミス)とダニー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)の会話におけるダニーと父親の関係や、息子のやらかしで学校に呼び出される担当官パターソン(ラルフ・ブラウン)の父親としての顔を物語の本筋とは別にそっとインサートすることで、この映画の骨子が父子の変奏にあることをアン・リーはサブリミナルのように埋め込んでいく。のだけれど、いつしかそんなサブテキストなどおかまいなしにヴァリス(クライヴ・オーウェン)とヘンリーによるジュニアをトロフィーとする父親レースが国家を巻き込んだ陰謀を巻き起こしていくわけで、ほとんどジュニアの意向などおかまいなしに父親面をしては説教をかます2人の鬱陶しさを味付けするにあたり、それをアン・リーに託した製作陣はその点においてそれなりに慧眼であったのか、俺はまだまだお前になんか負けないぞ、なんなら今ここで競走してみるか?ほら!とかいうラストの小芝居を見るにつけ判断は保留せざるをえないものの、あくまでウィル・スミスなりにではあるにしろしばしば遠い目などしては枯れた風な味わいなど漂わせていたし、傷を負ったジュニアを自ら手当てするヴァリスの撫でるように柔らかな手つきに歪んだ愛情を塗布するあたり、この映画が『ラ・シオタ駅への列車の到着』と化してしまわないための艤装はあちこち見てはとれたように思うのである。通常であればロマンス要員であったであろうダニーも、すでにヘンリーの愛情がジュニアに注がれているとあってはジュニア奪回のためのパートナーとして敬意を払われた上で銃弾を食らったりもするわけで、放っておくと独り者ヘンリーのメランコリーがウェットにまみれがちになるところを彼女のドライな馬力が程良く湿気を吸い取っていた点もアン・リーの的確な采配といっていいのだろうし、それに文字通り体を張って応えたメアリー・エリザベス・ウィンステッドこそがこの映画のMVPに相応しいのは言うまでもなく、ハードな追跡劇を繰り広げる最中、それが不可欠であるにも関わらずこの手の映画で飲食が描かれることがまずない中で(イーサン・ハントが何かをパクつくシーンを見たことがあるだろうか)、湿気たクラッカーを親の敵のように貪るダニーの姿に、何からは分らないながら救われた気分になったのだった。『ヴァレリアン』に続いて余白のある悪役となったクライヴ・オーウェンだけれど、いったんこの枠にはまりだすとメインから遠ざかる気もしてしまうのが、野卑とノーブルとを兼ね備えた大好きな俳優なだけにやや心配。それにしても、愛息へのなりふりかまわぬ親バカっぷりといい善き父親への強迫観念でもあるのではなかろうかというウィル・スミスへの皮肉めいたキャスティングを知ってか知らずか、そして父になるヘンリーを味わい尽くすような笑顔で演じる姿に、ジェイデンの内なる無事を祈らずにはいられなかったのである。
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2019年11月01日

真実/目薬をほんの一滴

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ファルハディの映画のように切羽詰まったタイトルを戴いてはいるものの、あぶりだされた真実が実存を苛んでいくというよりは、信じたことが真実となるように裏切らないことを私は貴く思う、というファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の演技論が人生論を呑み込んでいく時の楽屋落ち的な軽やかさとペーソスでカトリーヌ・ドヌーヴというジャンル映画を仕立てたように思ったのである。そうした構造が示すように、ファビエンヌとリュミール(ジュリエット・ビノシュ)の母娘がマノン・ルノワール(マノン・クラヴェル)という女優との邂逅によって、2人が奥底では共有するある喪失と折り合いをつけて再生を果たすという、場合によっては真実と刺し違える覚悟を求めるような筋立ても常に光の射す中で描かれることもあり、語るべきは劇中劇「母の記憶に」に任せるという二重構造によって、孤絶した精神がだんだんと世界から透き通っていく是枝作品のメランコリーは意図的に封印されることとなるわけで、それを理解しつつも生前のサラとファビエンヌ、リュミールの3人が繰り広げたであろう真実と愛憎の物語をどうしてもワタシは夢想してしまう。したがって、どちらかと言えばファビエンヌとリュミールの母娘をとりまく人たちに是枝作品のカラーが滲んでいて、リュミールの夫ハンクを演じるイーサン・ホークの阿部寛的なうっすらとした自虐は目に愉しく、映画の実質的な小さなエンジンとなるシャルロット(クレマンチヌ・グレニエ)の演技を超えた転がり方もまた馴染みに思えたりもした。撮影を終えた終盤、マノンとファビエンヌ、リュミールによるサラの弔いといってもいい交流はいささか性急な物分かりの良さが気になったのだけれど、それもまたあくまでウェルメイドに収めるための野心ということになるのだろうか。ラストショットでシャルロットが落とした黄色い帽子は、それを拾うマノンの姿を象徴的に予感させることで、シャルロットにおけるサラとしてのマノンという物語の未来を伝えたようにも思える。作品の感触としては『誰も知らない』の後で新たなフェーズに向かう前に、あえて決め打ちのジャンルに正面から向かうことでスタイルを整理した『花よりもなほ』に近いように感じた。ファビエンヌがブリジット・バルドーを斬り捨てるセリフと表情はドヌーヴと監督のなかなか際どい共犯行為に思えたし、そうした関係性が言わせる「それが暴力的だろうが日常的だろうが、映画には詩(ポエジー)が必要でしょう?」というセリフが、いくたびか捉えられたドヌーヴの横顔を超然と浮かび上がらせたようにも見えた。イーサン・ホークの偏執的といってもいい目盛りによる「卑」の調節については言うまでもなく。
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