2019年10月10日

ジョーカー JOKER/The King of Remedy

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オフィシャルサイト

確かにジョーカー・ライジングな物語ではあったけれど、これはアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)という男がジョーカーへ変貌していくその道程というよりは、ゴッサムシティにジョーカーという呪いがかかるにいたったその顛末を記した覚書のように思える。そうしてみた時、アーサーとブルースの年齢差やウェイン夫妻を手にかけた男の予兆のようなマスクも腑に落ちる気がしたし、その生い立ちに始まり次々に外部からもたらされる不幸によって追い込まれていくアーサーの「わかりやすさ」も、オリジンは往々にして単純で素朴であるということの裏書きであったようにも思うのだ。映画の終盤、カメラは「BLOW OUT(ミッドナイト・クロス)」の文字を映画館のサインボードにとらえていて、これが1981年の出来事であったことを密やかに、だがこれみよがしに示している。この時期のニューヨークはといえば、のちにジュリアーニが牛舎の大掃除を行う以前のニューヨーク・バビロン期における犯罪発生件数が天井をついた時代でもあり、劇中のゴミ収集ストライキもクリスマスを控えた12月に17日間にわたって行われてもいる(ストライキは明日で18日目に突入します、という劇中冒頭のニュース音声はそれを受けてのことだろう)。アメリカ全土ということで言えば、カーターを蹴落としてレーガンが新大統領となり、富裕層や大企業の優遇につながる経済政策によって富の集中が加速するそのスタートの年であったということになる。そうしてみると、アーサーが地下鉄で屠ったあの3人は80年代半ばに登場するヤッピーの萌芽と捉えることも可能だろうし、レーガンが銃で撃たれた暗殺未遂事件がこの年であったことを思い出してみれば、アーサーが初めて外側の世界とコンタクトし波長を合わせたそのツールが銃であったこともまた象徴的に思えてくる。まるでノーメイクでエレファントマンを演じるかのようにアーサー・フレックという男の凄惨なメランコリーに憑依するホアキン・フェニックスに心を奪われて、彼の履く靴が最初のドタ靴から次第に軽やかになっていき最後にはあの一足となったことは彼にとっての解放であったように映りはするし、右手に持ったナースコールを押さなかった母ペニー(フランセス・コンロイ)は贖罪としてその死を受け入れたようにも思ってみれば、ホアキン・フェニックスが演じたのはあくまでジョーカーの呪いに捧げられた生贄としてのアーサー・フレックであったのだろうという気がしてならない。したがって、せいぜいが「善悪は主観に過ぎない」などといった凡庸な論をふりかざしつつ、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に善悪問答を挑むことなく射殺してしまうアーサーにジョーカーの萌芽が見てとれないのは仕方のないところではあるにしろ、ニューヨークの片隅であがくように暮らす一人の男の銃と病気と欠乏の三題噺もまたアメリカの神話であることをトッド・フィリップスは記していたように思うのだ。果たしてアーサー・フレックのジョークを笑っていいのか悪いのか、そんなことを想ういとまもないままただひたすら大勢の人々がこの物語を受け入れているこの世の中こそゴッサムシティそのものであることが、彼が最後にうそぶいたジョークのパンチラインだったにちがいない。
posted by orr_dg at 01:24 | Comment(2) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする