2019年10月03日

アド・アストラ/父よ、父よ!

ad_astra_01.jpg
オフィシャルサイト

ロイ・マクブライド(ブラッド・ピット)が、少佐(=Major)、と呼ばれるたびにメイジャー・トムの残像がゆらいだ気がしたし、実際のところ「笑顔ですべてを見せない」「宇宙は理解できる」とうそぶくロイはメイジャー・トムのごとく宇宙の唯一性に神性を見た殉教者であって、月へのシャトルロケットのパンナム感皆無の不自由さや、中東の紛争地帯のような車列襲撃、火星の入国管理室の弛緩した殺風景は、宇宙を自身のサイズに矮小化していく人間の無様に対する殉教者の嫌悪と忌避の顕れにも思え、ケフェウス号のクルーに対するロイの独白は言葉によるその証左となっている。結果としてロイは、父クリフォード(トミー・リー・ジョーンズ)と同様にクルー殺しをすることで同じ罪を背負うこととなるわけで(「父の罪を子が負うのか」)、父の道程を追体験するようにたった一人で深宇宙への旅を続けるロイをむしばむ宇宙の絶対性は一人遊びとしての孤独など一顧だにすることなく、お前の存在に何か意味でもあるかとほんの一瞬でも思ったか?ならばこれでもくれてやろうと孤独という死に到る病を注入していくのである。そしてついに海王星で対峙した父マクブライドが見つけたのも、この宇宙には私たちしかいない、生きているのは私たちだけだという、人類の孤独を想えという答えに過ぎなかったわけで、これは星をめざした者(”ad astra=to the stars”)たちの終焉、言い換えてみれば永らくワタシたちを支配してきたスペイス・オディティ幻想の終焉を告げたようにも思え、その体現者であった父マクブライドの退場を見届けたロイがなりふりかまわぬ姿で孤独からの脱出に必死となり、冒頭と円環するように地上に落下した後で、差し出された手に自らの手を差し伸べるショットによってそれは決定的となるも、疎外された者としてのアウトサイダーの帰還とその叶わぬ夢を描いてきたこの監督にあっては、宇宙で孤独の本質を知ってしまった男が求める共感に潜む静かな破滅の香りを、イヴ(リヴ・タイラー)を待つロイの笑顔に漂わせた気もしたのである。俺はいま途方に暮れているが、俺の暮れている途方を君たちが知ったら生きていることを続けようと思うだろうか、というロイのメランコリーと「笑顔ですべてを見せることをしない」という独白は、ブラッド・ピットという俳優が懐に隠し続ける虚無の顕れであった気もして、それは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でのクリフ・ブースにも通じる死の甘く倦んだ香りであったのは言うまでもなく、どちらの映画にも共通する無意識のうちに鬼の玄人が素人を一閃してしまうシーンは、深淵で途方に暮れるブラッド・ピットが貼りつけた彼岸の笑顔に促されて、気がつけば監督がカメラにおさめてしまっていたように思えてならない。寄り添え、ワタシたちはこの宇宙で孤独なのだ、それを知ったら気が狂って死んでしまうくらい孤独なのだ、とブラッド・ピットの“水晶でできているようにさえ見える山中の湖―それも酸性雨が湖中の生物を残らず滅ぼしてしまったために純粋になった湖(ジョー・ヒル)”のようなまなざしが言っている。
posted by orr_dg at 15:28 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする