2019年10月29日

楽園/地獄は足りているか

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ここではないどこかを夢想せざるを得ない人々の希望と絶望をつづれ織りに仕立てた群像劇という意図と狙いは紛うことなく理解できるし、役者陣もそれぞれの役柄に真摯な血を通わせていたことは言うまでもないのだけれど、ではなぜ、今連ねたような言葉の上っ面をこの映画はすり抜けていってしまうのか、二つの独立した原作短編をより合わせることでさらに強靭な普遍を呼び出そうとした試みが感情のサイクルを少し急きたて過ぎたことはともかくとして、『菊とギロチン』の時にも感じたのだけれど、シナリオはすでに叫びであって機能と合理で引かれた設計図ではないとでもいうその熱量をどう受け入れるかによって評価は真っ二つになるのではなかろうか。ただ、その熱量にしたところで、あらかじめ決められた不幸と絶望のレールを歩いていく人たちの裸足の足裏を熱するばかりな気もするものだから、それぞれの運命を襲う筋の通った不条理という矛盾それ自体の露悪にとどまった気もしてしまうのだ。要するにそれは「為にする」というやつであったと言えばいいのか、豪士(綾野剛)と善次郎(佐藤浩市)の生き地獄を紡(杉咲花)が串刺しにすることで彼女を「楽園」という主題の担い手にするための手続きにそれが顕著で、原作ではどのような比重の人物なのかわからないけれど、彼女を光の方へ覚醒させる触媒としての広呂(村上虹郎)という青年の扱いに戸惑いと言うよりは鼻白むのを避けられなかったわけで、そこに至る経緯も首をかしげざるを得ないのはともかく、同郷の2人が東京の青果市場で共に働くこととなるのはまあ仕方ないにしろ、いつしか広呂が病に倒れ(おそらく癌なのだろう)その頭髪やまゆ毛が抜けた風貌からすればそれなりの抗がん治療を受けた後なのだろうけれど、それほどの時間が経過するまで紡は広呂の病気のことを知らないまま、まるで交通事故にでも遭ったことを今しがた知ったかのような風情で病室にかけ込んでくるのだ。その後しばらくして、思い出しでもしたかのように紡に広呂から退院のメールが送られ彼の生存率を知ることで喪失と再生の種が紡に播かれるのだけれど、そもそもが広呂と紡では故郷を飛び出した動機と理由の質がまったく異なるにも関わらず、何の前触れもないまま広呂は突然「おまえが楽園を作ってくれよ」などと紡に言い出すわけで、ワタシはもしかしたら広呂は紡のイマジナリーフレンズなのかとすら思ったのだ。ならばと事態を巻き戻してみると結局は事件当日を描いたオープニングにまで至るわけで、ここで描かれる紡と愛華の関係がまずは消化不良のまま、紡の愛華に対する屈託がその場限りの子供の気まぐれなのか、それにしてはそれが紡の構造上の問題であるかのように思わせぶりなショットの落とす影はフーダニットのサスペンスを撹乱する意図であったのか、結局それは紡の人生をむしばみ続ける罪悪感を下塗りしていたに過ぎないにしろ、一事が万事この調子で逆算するものだからこちらの感情がなかなか併走していかないのだ。前述したように役者陣による入魂の演技によって折々の棘は刺さるのだけれど、それが抜かれることもないまま次の棘を刺されるものだから、その痛みがどの棘によるのものなのか次第に麻痺してしまうのも茫洋とした混乱を誘うことになる。特に邦画で気になるように思うのだけれど、脚本に綿密な整合性を持たせることでまるで余白や余韻が消えてしまうかのように、「描かない」ことを目的とするその筆致が観客であるワタシに負荷をかけているわけで、そしてその「描かなさ」によってワタシは「考えさせられる」のではなくワタシに「考えさせる」ことを求めてくる全体として説諭的あるいは教条的な口調に反発してしまうのだろうと、あらためて自分を把握したところである。セリフももっと字面から自由になればいいのにと思うし、書かれた言葉と話される言葉が互いの手を放してしまっていてワタシにはどうも他人事に聞こえ続けてしまった。ニュースのLIVE映像で故郷の事件を知った紡がすぐその最中に駆けつけられるくらいには東京から近い生き地獄だったのかと、もうひとつだけ意地の悪いことも言っておく。『二十歳の微熱』の時からずっと好きなので、一緒に時間を過ごしてきたような片岡礼子が観られたのはとても嬉しい。
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2019年10月26日

イエスタデイ/微熱老人

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64歳を目前にしたダニー・ボイル(63歳)とリチャード・カーティス(63歳)がオアシスをなぶりものにして笑いをとりにいくこのコメディに、かつてザ・ストーン・ローゼズのデビューアルバムを聴いた渋谷陽一が「これってザ・バーズのコピーバンドじゃねえか」とか、口調はともかくそんな風なことを言ったか書いたかしたのを想い出したりもしたわけで、誰がどんなアレンジで歌おうが演奏しようがビートルズの作品がいかに無敵かというただそれだけを繰りごとのように綴るその挿絵としてスラップスティックなラブコメを添えてみましたという、仕事に飽きた演出家と脚本家による昼下がりの茶飲み話のような塩梅の映画であった。というわけで面倒な細部は周到に避けて通っているのは言うまでもなく、主人公が作品を再現するに際してのハードルは歌詞が思い出せないというレベルにとどめて天才たちの仕事としてのアレンジワークについては触れることがなく、たとえば「アイ・フィール・ファイン」のイントロをいかに再現するかといった、ジャック・マリク(ヒメーシュ・パテル)がそれなりのビートルマニアであったら直面する難題が描かれることはないのである。何しろこれだけふんだんにビートルズの作品を使用しておきながら、主人公の心情とマッチするドラマのツールとしてサウンド的かつ視覚的に機能するのが「ヘルプ」のみであったという点で、制作コンビがそれほどの知恵を絞っていないのは瞭然に思えたし、大団円でのウェンブリーにおける告白にしたところで、せめて「オー!ダーリン」でも熱唱してみれば場が持ち直すところを、とりとめのないセリフ語りと益体のないフラッシュバックでお茶を濁してしまう体たらくにワタシは態度を決めざるを得なかったのである。劇中で唯一フォーカスが合った気がしたのが、あの人の登場するシーンであったことを思うと、この演出家と脚本が本来すべきなのは彼らのアナザーストーリー、アナザーエンディングを夢想してみることだったのではなかろうかと思わざるを得ないし、ビートルズが存在しなかったらオアシスが存在しないどころか、そもそも喜びも悲しみも世界の気分そのものが斯様に押し広げられていなかったに違いなく、ビートルズの存在しないディストピアのエリー(リリー・ジェームズ)や誰も彼もがアナザーワールドの彼や彼女と寸分たがわぬ人々であったのがワタシはなんだか理解できないのだった。すべてのイギリス人はビートルズを好き勝手に弄り倒せるライセンスを持っていると言われればそれまでではあるけれど。というか、たぶん言うにちがいない。
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2019年10月24日

ボーダー 二つの世界/もう靴下は履かない

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なんだ、私はこれでよかったのだ、孤絶していたのではなくあまりにも独立していただけなのだ、自由はすぐそこにあったじゃないかと気づかされたティーナ(エヴァ・メランデル)の束の間の安息の後で襲いかかる驚天動地は、新たな彼女が彼女(便宜上「彼女」とする)であるがゆえ逃れることのできない引き裂かれるような生き地獄でありながら、そこから手を伸ばしてくる憎しみの連鎖への誘惑を払いのけた彼女が最後にたどりつくのは「わたしは誰も傷つけたくない」という強く静かで美しい言葉だったわけで、原題(Gräns/Border/ボーダー)は“境界”に阻まれた者、ティーナとヴォーレ(エーロ・ミロノフ)がその“一線”を超えていく時の姿を謳っていたと同時に、この映画はその姿を、現実と非現実のさらなる境界を行き来させることで永遠につかまらない者として祝福したようにも思えたのである。ティーナとヴォーレが歩を進めるにつれそれまで視えなかった世界が顕わになっていく時、それはワタシたちのためのメタファーであるどころか一切の共感も共有も拒絶していて、それゆえその世界への畏怖にも似た感情がワタシたちの様々な罪深さを無効化するどころか、その意味すらも奪ってしまったようにも思え、それはすなわち世界から見捨てられたということになるわけで、それくらいこの映画の中からワタシたちは跡形もなくいなくなってしまうのだけれど、おそらくはそれゆえに純化した視線を最後には与えられた気もしたのである。まるで頁を繰るように積み重なっていく重層に沈む昂奮は文学にまみれる時の愉悦のようで、テキストでは可能な、説明をしないための説明という矛盾がここではすんなりと視覚に落ちているのは、ティーナとヴォーレの美醜を行き来するその容貌が奏功しているのだろう。美醜でいえばあきらかに醜いという印象を植えつけながら劇中では基本的にそれゆえの日常的な差別描写をしない一方、犬たちはティーナに対して、ティーナの家で飼われている犬ですらが彼女に対して狂ったように吠えかかり牙をむくわけで、社会的な表面と非社会的な内面の対比がより根源的な差別の残酷さを示していて秀逸に思える。物語があくまでこの容貌であることを譲らないのはやがてそこに真実の意味合いが生まれるからで、美醜のラインですらが次第に無効化されていくあたりもこの映画の実験的な醍醐味であるといっていいように思うし、何しろ最終的にはワタシたちの審美眼など及びもつかない世界までぶっ飛ばされるささやかな爽快すらも手に入るのだ。オープニングでティーナが掴まえた虫がラストではどうなるか、その遠くて近く、哀しくて力強く、優しくて荒ぶったひとつの魂の旅を、むしろありったけの予断を持って観ることをお勧めしたい。予断を持てば持つほどそれが粉砕された破片が突き刺さる傑作である。
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2019年10月21日

クロール −凶暴領域−/シーユーレイター、バリーペッパー

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生き残れなかった者が受ける仕打ちに悪魔的な凄惨を叩きつけることでサヴァイヴァーの血みどろに聖性を宿してきたアジャが、ストーリーテラーとしての成熟や深化を手に入れることで映画の尺は次第に100分を超えはじめ、前作に至ってはついに人死にの瞬間でスイングする術すら手放してみせさえしたわけで、しかしそうした現状のステージに何らかの飽和を見てとったのか、ここにあるのは、果たして自分はまだ糞袋としての人間が片っ端から屠られていくサヴァイヴァーの物語を90分以内で撮り切れるのだろうかという挑戦とそれを征服していくことへの高らかな昂揚であったように思うのである。本来がアクロバティックなショットのケレンにこだわるよりは状況と情報の出し入れでリズムを作っていくセンスに長けた人なうえに、ここのところの緩急の手配を身につけた語り口も相まって、見せるものと見せないものの間にはりめぐらしたスリラーの質がとても豊かになっている。原題の”CRAWL”がダブルミーニングであることを早々に明かすオープニングからソリッドシチュエーションに捉まるまでの間に充分なドラマと感情を貯め込んでおいて、あとはそれを血のあえぎと共に途切れなく流し続けることでヴィヴィッドな息使いを失うことがないそのスリラーは、ヘイリー(カヤ・スコデラーリオ)渾身のカモンサナバビッチ!が魂の叫びとしてどれだけ響き渡ったかにも明らかではなかったか。アリゲイターを複数登場させることでモンスターとしてのキャラクター化を防ぎつつ、自分の尻ぬぐいだけでは済まされないヘイリーへの負荷のかけ方によってこれが最後までサヴァイヴァーの物語であることを見失わないシナリオも、躁病的でなく懐深いアジャのテンションに奏功していたように思う。いつのまにか楯突く側から楯突かれる側に移っていたバリー・ペッパーにメランコリーを滲ませつつも、父と娘の絆を最終兵器へと仕立てていく一瞬の狂気をコメディぎりぎりでドライヴさせるあたりのアジャには、やはりこちらがホームグラウンドなのではなかろうかと思わせる眼のきらめきが見てとれる気がしたし、とりわけ火事場泥棒のシークエンスは、湧き出すアイディアに小躍りしながら撮っているアジャの姿が目に浮かんだりもしたのだ。ヘイリーが手放さない手回し式の懐中電灯は、電池切れとかそんな雑なサスペンスに頼ったりするかよというアジャの自信満々のカウンターにも思えて、絶対絶命をはぐらかすようなキュルキュルキュルキュルという素っ頓狂な音が何ともチャーミングに鳴っていた。
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2019年10月19日

ジョン・ウィック :パラべラム/走っても走っても

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ウルトラバロックノワールとでも言えばいいのか、機能とか合理とかを一切無視した情動の残滓だけを壮麗に塗りたくった壁で世界を密閉しつつ、そこで淡々と行われるのは生死を振り分ける事務的な手続きであって、ジョン・ウィック(キアヌ・リーヴス)が殴りつけるように銃を撃つとき、まるで注射器が血を吸い上げるようにその弾道を生命が逆流していくのが見える気すらしたわけで、チャプターが進むにつれジョン・ウィックの重力だけがどんどんと重くなっていき、トム・クルーズの10分の1ほども膝の上がらないままもがくように走るその姿は、一度寄る辺なき世界を棄てたがゆえ奪った生命を排出することができなくなったその代償でもあるのだろうか、ジョン・ウィックの肉体は絶えず「遅い」のである。走るのも遅く、階段を昇るのも遅く、馬上の人となった時ですら馬は遅いでのある。しかしそれでも彼は愚直なまでに歩みを止めないわけで、どれだけ華麗に振りつけられたガンアクションや近接格闘が繰り広げられようとそこに爽快さは一片のかけらもないまま、どれだけ懸命に地面を蹴って走っても前に進まない夢の中の不快をワタシは共有するしかないのである。では、最愛の妻という生きるよすがを失った彼がなぜその歩みを止めることをしないのか、ジョン・ウィックは砂漠の果てで主席連合の長老に「自分が死んでしまったら妻の記憶、生きた証がこの世界から消えてしまうからだ」と答えるのだけれど、無垢を食い尽くすようなショウビジネスの世界で、決して器用な生き方をしているとは思えないキアヌ・リーヴスがそれゆえ成熟したフィルモグラフィー(たとえばソダーバーグ・クラブやタランティーノ・クラブとは常に縁遠い)とはすれちがいながら、なぜ第一線に居続けるべく不安定な更新を続けるのか、もしかしたらそこにはリヴァー・フェニックスへの想いがあるからなのではなかろうかとジョン・ウィックのセリフに思ったりもしたわけで、自分がここに身を置く限り世界が抱くリヴァー・フェニックスの記憶もまたそこに生き続けるのではないかと、かつて彼は考えそれを心に決めたのだろうと、あの砂漠のシーンでジョン・ウィックにキアヌ・リーヴスが重なって見えたのである。死亡遊戯的な階層の中、セセプ・アリフ・ラーマンおよびヤヤン・ルヒアンのシラット組と繰り広げる闘いは、『ザ・レイド』での彼らのアクションを知っていればこそキアヌの遅さが絶望的に映ってしまうのは否めないのだけれど、それを承知でキアヌはなぜああまでして骨をきしませ肉を打たせるのか、自分はこうしてここで生き続けるのだというキアヌの決意と覚悟がそれを裏付けしてみせた時、劇中で最も心えぐられる闘いへと装いを一変した気がしたのは確かなのだ。そして完璧なクリフハンガーで幕を閉じた今、ワタシの期待はルーキー・オブ・ザ・フィルムといってもいい裁定人(エイジア・ケイト・ディロン)が果たしてどれだけのアクションを仕上げてジョン・ウィックを待ち伏せるのか、その一点にかかっている。あれだけ偉そうにしておいて、闘わずして逃げるなんてことはしないと信じているよ。
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2019年10月17日

ヘルボーイ/言うほど猫が好きでもない

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異形の者への愛だなんだいうのは、自分がその対岸にいる者だっていう意識が言わせてるんじゃないのか?あん?とデル・トロに喧嘩を売ったわけではないにしろ、X-MEN的に角を落とした博愛の丸みに対してそれくらいの勢いで中指を立てなければリブートする意味などなかろうよという意味で、ワタシはこのニール・マーシャル版を歓迎したい。自らの異形と実存の問いかけを人間臭さとすることで共感を描いたデル・トロのコンセプトは赤銅のダークヒーローを翻訳する術として確かに有効だったけれど、ミニョーラの描く虚無のしんと冷えた感じを愛でてきた者からすればいささか物分りが良すぎる気もしたわけで、「おまえは小便みたいに黄色い素敵な目をしてるじゃないか」とヘルボーイ(デヴィッド・ハーバー)をねめつけるバーバ・ヤーガ(エマ・テイト)のセリフはデル・トロ版にはそぐわないながら、キャラクターではなく魑魅魍魎の跋扈する人外魔境の世界そのものを描くのだとするミニョーラにおいてはむしろこちらが日常会話にも思えるわけで、何で人間の側に立つかってえと悪魔とか化けもんとか何しろあいつら品がなくていけねえや、ってな与太を飛ばしつつ修羅をいくかのような倦んだ洒脱をヘルボーイの新たな造形と目指したように思うのである。その割に、ブルッテンホルム教授(イアン・マクシェーン)との関係にデル・トロ版のナイーヴが残ってしまっているあたりの詰めの甘さは巷間伝え聞く制作トラブルの残滓であった気がしないでもないし、二―ル・マーシャルにとって自ら脚本を書かない初の劇場作品であった点もマイナスに働いたのではなかろうか。おそらく製作陣は、全権を与えようものなら『ドゥームズデイ2』をやりかねないと危惧したのだろうけれど、実際のところ今作のチャームはその『ドゥームズデイ』的なニール・マーシャルのジョイパックフィルム魂が発揮された瞬間に宿っているようにも思えるわけで、俺たちは結局のところ糞袋に過ぎないという認識とその発露としてのゴア描写はこのご時世においてもっと称賛されてしかるべきだろう。まさか順撮りしたわけでもないにしろ、猥雑にあふれたルチャ・リブレのオープニングから擬似的なワンショットを多用した白昼の巨人戦あたりまでのナンセンスなドライヴが次第に法定速度に落ち着いてしまうのは、やはり誰かが踏んだブレーキによる気がしないでもない。そして何よりミラ・ジョヴォヴィッチのニムエ/ブラッドクイーンに妖しさと爛れが決定的に足りていない点でヘルボーイとのバランスを欠いてしまっていて、モニカ・ベルッチとは言わないまでもせめてレナ・ヘディあたりをキャスティングできなかったのかと「巨乳の女王にいかれちまったのか」というセリフに至ってはもう嫌がらせとしか思えない始末にも思えた。ミラ・ジョヴォヴィッチという俳優はいつどこで観てもまったく同じ顔をしているものだから、局面に現れるとどうも興を削がれてしまうところがあって、ならばいっそのこと役名もすべてミラ・ジョヴォヴィッチにしてしまった方がこちらもあきらめがつくようにも思うわけで、何を言っているかというと要するに言いがかりではあるのだけれど、映画をプラスチック化してしまうクィーンのその能力をそれだけ恐れている証拠なのは間違いがない。
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2019年10月10日

ジョーカー JOKER/The King of Remedy

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確かにジョーカー・ライジングな物語ではあったけれど、これはアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)という男がジョーカーへ変貌していくその道程というよりは、ゴッサムシティにジョーカーという呪いがかかるにいたったその顛末を記した覚書のように思える。そうしてみた時、アーサーとブルースの年齢差やウェイン夫妻を手にかけた男の予兆のようなマスクも腑に落ちる気がしたし、その生い立ちに始まり次々に外部からもたらされる不幸によって追い込まれていくアーサーの「わかりやすさ」も、オリジンは往々にして単純で素朴であるということの裏書きであったようにも思うのだ。映画の終盤、カメラは「BLOW OUT(ミッドナイト・クロス)」の文字を映画館のサインボードにとらえていて、これが1981年の出来事であったことを密やかに、だがこれみよがしに示している。この時期のニューヨークはといえば、のちにジュリアーニが牛舎の大掃除を行う以前のニューヨーク・バビロン期における犯罪発生件数が天井をついた時代でもあり、劇中のゴミ収集ストライキもクリスマスを控えた12月に17日間にわたって行われてもいる(ストライキは明日で18日目に突入します、という劇中冒頭のニュース音声はそれを受けてのことだろう)。アメリカ全土ということで言えば、カーターを蹴落としてレーガンが新大統領となり、富裕層や大企業の優遇につながる経済政策によって富の集中が加速するそのスタートの年であったということになる。そうしてみると、アーサーが地下鉄で屠ったあの3人は80年代半ばに登場するヤッピーの萌芽と捉えることも可能だろうし、レーガンが銃で撃たれた暗殺未遂事件がこの年であったことを思い出してみれば、アーサーが初めて外側の世界とコンタクトし波長を合わせたそのツールが銃であったこともまた象徴的に思えてくる。まるでノーメイクでエレファントマンを演じるかのようにアーサー・フレックという男の凄惨なメランコリーに憑依するホアキン・フェニックスに心を奪われて、彼の履く靴が最初のドタ靴から次第に軽やかになっていき最後にはあの一足となったことは彼にとっての解放であったように映りはするし、右手に持ったナースコールを押さなかった母ペニー(フランセス・コンロイ)は贖罪としてその死を受け入れたようにも思ってみれば、ホアキン・フェニックスが演じたのはあくまでジョーカーの呪いに捧げられた生贄としてのアーサー・フレックであったのだろうという気がしてならない。したがって、せいぜいが「善悪は主観に過ぎない」などといった凡庸な論をふりかざしつつ、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に善悪問答を挑むことなく射殺してしまうアーサーにジョーカーの萌芽が見てとれないのは仕方のないところではあるにしろ、ニューヨークの片隅であがくように暮らす一人の男の銃と病気と欠乏の三題噺もまたアメリカの神話であることをトッド・フィリップスは記していたように思うのだ。果たしてアーサー・フレックのジョークを笑っていいのか悪いのか、そんなことを想ういとまもないままただひたすら大勢の人々がこの物語を受け入れているこの世の中こそゴッサムシティそのものであることが、彼が最後にうそぶいたジョークのパンチラインだったにちがいない。
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2019年10月03日

アド・アストラ/父よ、父よ!

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ロイ・マクブライド(ブラッド・ピット)が、少佐(=Major)、と呼ばれるたびにメイジャー・トムの残像がゆらいだ気がしたし、実際のところ「笑顔ですべてを見せない」「宇宙は理解できる」とうそぶくロイはメイジャー・トムのごとく宇宙の唯一性に神性を見た殉教者であって、月へのシャトルロケットのパンナム感皆無の不自由さや、中東の紛争地帯のような車列襲撃、火星の入国管理室の弛緩した殺風景は、宇宙を自身のサイズに矮小化していく人間の無様に対する殉教者の嫌悪と忌避の顕れにも思え、ケフェウス号のクルーに対するロイの独白は言葉によるその証左となっている。結果としてロイは、父クリフォード(トミー・リー・ジョーンズ)と同様にクルー殺しをすることで同じ罪を背負うこととなるわけで(「父の罪を子が負うのか」)、父の道程を追体験するようにたった一人で深宇宙への旅を続けるロイをむしばむ宇宙の絶対性は一人遊びとしての孤独など一顧だにすることなく、お前の存在に何か意味でもあるかとほんの一瞬でも思ったか?ならばこれでもくれてやろうと孤独という死に到る病を注入していくのである。そしてついに海王星で対峙した父マクブライドが見つけたのも、この宇宙には私たちしかいない、生きているのは私たちだけだという、人類の孤独を想えという答えに過ぎなかったわけで、これは星をめざした者(”ad astra=to the stars”)たちの終焉、言い換えてみれば永らくワタシたちを支配してきたスペイス・オディティ幻想の終焉を告げたようにも思え、その体現者であった父マクブライドの退場を見届けたロイがなりふりかまわぬ姿で孤独からの脱出に必死となり、冒頭と円環するように地上に落下した後で、差し出された手に自らの手を差し伸べるショットによってそれは決定的となるも、疎外された者としてのアウトサイダーの帰還とその叶わぬ夢を描いてきたこの監督にあっては、宇宙で孤独の本質を知ってしまった男が求める共感に潜む静かな破滅の香りを、イヴ(リヴ・タイラー)を待つロイの笑顔に漂わせた気もしたのである。俺はいま途方に暮れているが、俺の暮れている途方を君たちが知ったら生きていることを続けようと思うだろうか、というロイのメランコリーと「笑顔ですべてを見せることをしない」という独白は、ブラッド・ピットという俳優が懐に隠し続ける虚無の顕れであった気もして、それは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でのクリフ・ブースにも通じる死の甘く倦んだ香りであったのは言うまでもなく、どちらの映画にも共通する無意識のうちに鬼の玄人が素人を一閃してしまうシーンは、深淵で途方に暮れるブラッド・ピットが貼りつけた彼岸の笑顔に促されて、気がつけば監督がカメラにおさめてしまっていたように思えてならない。寄り添え、ワタシたちはこの宇宙で孤独なのだ、それを知ったら気が狂って死んでしまうくらい孤独なのだ、とブラッド・ピットの“水晶でできているようにさえ見える山中の湖―それも酸性雨が湖中の生物を残らず滅ぼしてしまったために純粋になった湖(ジョー・ヒル)”のようなまなざしが言っている。
posted by orr_dg at 15:28 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする