2019年09月27日

アナベル 死霊博物館/あっちへいかなければこっちからいく

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ああ、これはスリープオーヴァー(sleepover=お泊り会)のお話だったんだなあと気づかされた瞬間、この子供たちにとって最初の体験となるだろう目の奥とうなじが熱く疼く徹夜明けの昂揚が眩しげに降り注いだ気もしたのである。そもそもがこのウォーレン家において死人を出せるはずがないという決定的な縛り(このホラーでは誰一人死ぬことがない)の中で、コメディやメタ構造の楽屋オチに逃げることなく、捉えられたら死んでしまうという鬼ごっこの正攻法だけで一晩を逃げ切った巧みなシナリオと衒いのないホラー演出は、人生の因縁を歩き始めたばかりで逃げまどう少年少女たちのヴィヴィッドと相まって、ある意味では死霊館ユニヴァースらしからぬ爽快を残した気もしたし、アイディアと飛び道具先行で少しばかり腰高が目立つこのユニバースのスピンオフ群にあっては、むしろこちらの方が新機軸にも思えたのだ。冒頭のシークエンスにおいて車中のロレイン(ベラ・ファーミガ)のシーンで示される“いないいないばあ”がこのホラーの基本トーンとなっていて、余白の多用とワンカットでの静かな出し入れなどJホラーの洗練をうかがわせる神経の障り方がこの監督の地肩となっているようで、たとえそれがビックリ箱であったとしてもそこに幽かなワンクッションを入れてみせるあたり、この監督の“ホラーの人”としてのセンスは思いがけずワタシの好みであった。様子を見にジュディ(マッケナ・グレイス)の寝室を訪れたメアリー(マディソン・アイズマン)が、ジュディのベッドにもぐりこんで勝手に添い寝をしているアナベルを見て、しかしアナベルのなんたるかをまだ知らないメアリーが、なんだか分かったような分らないような顔をしてそっと部屋を出ていくシーンが物欲しげでなく印象に残っている。恐ろしさの正体を知っているからこそ恐怖に囚われてしまわないロレイン(それをオープニングでおさらいしている)と、その遺伝子を受け継いだがゆえ恐ろしさの正体を無理やり知らされてしまうジュディの恐怖とを端正に描くことで、無垢のメアリーと混乱のダニエラ(ケイティ・サリフ)と、それぞれの恐怖の質までも描き分けた細やかさによってパジャマパーティの狂騒を終始遠ざけていたことも記しておきたい。ただ、ダニエラについては火付け役としての一面性を解いてやるのに少し手まどったせいで、誰よりも辛く切ない恐怖を味わうことになるにもかかわらず、その哀しみが割りを食ってしまったのは少しかわいそうに思えた。人は死なないけれど鶏が一羽だけ殺されていて、しかしそのシーンでのボブ(マイケル・チミノ)はこの映画のというかこのユニヴァースというか、ひいてはジェームズ・ワンの善性を顕していたような気がしてちょっと良かった。
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2019年09月20日

荒野の誓い/マダムと軍人

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相変わらず手を汚さない監督だなあという印象は『クレイジー・ハート』『ファーナス』『ブラック・スキャンダル』からずっと一貫していて、個人の情念を社会背景で強化することで主人公が何だか崇高な理念を手に入れたように映るのだけれど、実はその互いが互いを借りものとしているものだから、本来避けては通れない救いがたさが露悪されることもないまま、やさぐれたハーレクインロマンスがマニュアル車でテクニックを競うようなハンドル捌きで繰り広げられることとなる。冒頭、ロザリー・クウェイド(ロザムンド・パイク)が後家となった瞬間から、あとはジョー・ブロッカー(クリスチャン・ベール)といかにして手に手を取り合うかという手続きが、先住民に対するジョーの罪と罰という障害によってなだめすかされつつ幾多の犠牲者の血を吸うことによって、その蒼ざめた顔に血の気を通わせていくわけで、早々とロックオンしたロザリーが煮え切らないジョーにしびれを切らしてテントに誘い、ついには殺戮の火ぶたを切る銃弾を自らぶち込むことでジョーの尻を蹴りあげることとなり、結果としてこの物語は疑似家族となる3人以外をいかに排除するかというその達成のために善悪のくびきを溶かしていくその腐心を奥行に変えていたように思える。なんと言ってもこの監督の才能はキャスティングを含めた座組みに尽きるともいえ、マサノブ・タカヤナギのカメラに加えて今回はマックス・リヒターの劇伴まで手に入れた布陣もあって、あとは馬なりに流してさえいればハイエンドなドラマが手繰り寄せられていくという寸法はさらに磨きがかかり、中盤で投入されるチャールズ・ウィルス(ベン・フォスター)にしたところで、それがベン・フォスターであるがゆえにジョーの漆黒の胸像として対峙するように映りはするものの、役割としてはジョーの手下を人減らしするだけの機能性の人でしかないという贅沢は、ここまでで既にティモシー・シャラメ、ジェシー・プレモンス、ロリー・コクレーンという手練たちを死屍累々と積み重ねることで死のインパクトを借り続けるそれにも繋がっているのは言うまでもない。作品ごとに時代と風土を変えてこの監督が描いてきたアメリカの原風景が、傑出したキャストとスタッフのパフォーマンスにも関わらずどこか芯を食っていないように感じてしまうのはなぜなのか。やはり俳優出身の監督としてこれもやはりシンガーを主役に据えた初監督作をものにしたブラッドリー・クーパーと比べて見た時、ブラッドリー・クーパーの描いたのが、そうならざるを得ない人生の半ばあきらめにも似た確信であったのに対し、一見したところ同じ諦念を漂わせたようでありながら、スコット・クーパーの描く諦念は、叶わなくても仕方がない、なぜならこれは俺の願望に過ぎないのだからという退路が透けて見えるからこそ、そこには地獄が透けて見えることがないように思うのである。だから御大イーストウッドやデヴィッド・ロウリーの映画を観た時のような、“なんだか困ってしまう”感覚がついてまわることがないのだ。イーストウッドになれなかった男という点では世界中の誰しもと横一線ながら、例えばブラッドリー・クーパーになれなかった男と呼んでみた時、その屈辱と屈託が彼に地獄の蓋を開けさせることになるのだとしたら、誰かがそう言ってやるべきだとワタシは考える。と散々な言いようながら、おそらくはその完璧な座組に絆されて次作も観てしまうのは間違いがないのだけれど。ロザムンド・パイクだけが本能的にはみ出そうとしていたように思う。
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2019年09月16日

タロウのバカ/生きてないやつは死ねない

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あたりまえのように「イワンのばか」を思い浮かべるのだけれど、自己肯定の怪物イワンに対するタロウ(YOSHI)は肯定や否定をする自己というやつがまずわからない自己不定の怪物として、こちらは自己否定の低空飛行で地面に腹をすりつけてはいつも血まみれなエージ(菅田将暉)と自分の中の自己肯定感をかきむしるように苛立つばかりのスギオ(仲野太賀)と共に、おれたちは今ここがここでないことだけを要求するという破壊衝動だけを絆に繋がっている。その絆について言えば、よく言われる登場人物への共感による感情移入など映画にまったく必要のないことを告げる好例ともいえるのだけれど、そうやってピカレスクの光すらを拒否するただひたすらの悪意と暴力によるダンスは、せっかく太陽がお前を照らしてくれているのだから上を向いて自分を肯定しろと迫る世界への、だったらお前が照らすせいで目に入るこのごみクズを先に何とかしろという徹底抗戦にも思えたし、そのダンスに魅惑されるかどうかというよりは、物語という体裁を拒否したそのあまりのやめなさ加減において次第に混濁していく善と悪とか生と死とか朝と夜とか昨日と明日とかいった感覚こそが、この3人の生きる日常なのだとただそれだけをこの映画は告げていたように思ったのだ。となれば踊れなくなった者から死んでいくのも当然と言えば当然で、ついに自己が内側を食い破って出てきたことで肯定と否定の決断を迫られることになったタロウが、グラウンドでサッカーをする少年たちを見て慟哭するその姿に、海を見てこの絶望から始めることを決意したアントワーヌの姿が浮かんだ気もした。避けられぬこととして暴力はふんだんに塗されているのだけれど、最初の殺人は拳銃によってなされねばならないという縛りもあってか、例の如く金属バットで滅多打ちされても人間は死なないという事例が多発していて、それはもう下着をつけたままのセックスシーンと同じくらいフィクションを意識させられてしまうわけで、人が死ぬにはその一閃で十分であることを晒してしまった「その男凶暴につき」の罪深さは海よりも深いままである。そして、彼らがどれだけ往来で人を破壊し襲っても警察が介入してこないのは、この悪い夢が覚めてしまわないための舵の切り方をしているからなのだろうと言い聞かせつつ観ていたところが、終盤でインサートされるある幻視によって時間はすでに夢とうつつのあわいに在ることを念押しのように告げていて、このアリバイは功罪すれすれで映画の救いとなっていたように思う。俳優として最初で最後のマジックを使いきったYOSHIの永続する一瞬を背骨とする危うさが監督の覚悟をうかがわせて冷汗が出続ける。ピザ屋のバイクを弄ぶくだりは、カットがかからなければ誰もいなくなってもあれを続けるのではなかろうかとすら思った。
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2019年09月12日

アス/はやくアメリカ人になりたい

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※展開に触れています

時代の切実な反映は幸福や平和よりもそこに充満する恐怖にあらわれるにちがいなく、ならば恐怖を思想とするホラー映画こそが炭鉱のカナリア足り得て断末魔を響かせることができるのだとジョーダン・ピールは確信しているのだろう。得体の知れない存在を実在のものへと形作っていくことで恐怖の質を現在地に地続きにする点において『ゲット・アウト』の構造を踏襲してはいるものの、今作において急カーヴをきって激突するハンドルさばきのスリルとでたらめは不謹慎なものであったかのように控えめなスパイスにとどまり、それに代わってたぎるような怒りが恐怖に火を点けることで隠されてきた二重性が世界を転覆させようと這い出して来ることとなる。そうやって恐怖を外部に実在化させる点において、既に『ヘレディタリー』がスタンダードとなったあなたがあなたである限りその恐怖が止むことはないという実存のホラーとは対極にあるように思うけれど、今そこにある存在の不安が恐怖を先鋭化する時代の落とし子として、内外を横断する恐怖の質を語る直接性はホラー以外にその手段を持たないとする作家の登場は必然だったと言うことになるのだろう。今作はドッペルゲンガーという、ジャンルにおいてはメランコリックともいえる存在をボディスナッチャーに仕立てることで分断と下剋上の劇的な闘争を目指し、自分が自分を殺しに来るという殺戮のステージまではまるで前払いのボーナスのように血と暴力のスプラッタが大判振る舞いされて、以降でドッペルゲンガーの正体が明かされる本題の講義に備えよと着席を促されることとなる。『ゲット・アウト』同様、良からぬことは地下で行われるというわけで、地下からやって来たドッペルゲンガーの正体が明かされていくのだけれど、すでにイドの怪物でも残留思念体でもない血肉を備えた存在であることが明かされているドッペルゲンガーが、ある失敗した実験の置き土産として打ち棄てられたクローンであることが告げられるものの、地下世界の悪夢的かつきわめて抽象的な描写とあいまって、アデレード個人の闘争がいかにして未曾有の階級闘争へと変貌していくのか、それらが「メタファー」であることは重々承知の上ではあるものの、“クローンではない”彼女以外のクローンたちから血肉の厚みが奪われてしまっているように思えてしまうのは諸刃の剣といったところでもあるのだろう。火事場の馬鹿力に見せかけて切り抜けた『ゲット・アウト』に比べた時、この後で見せなければならないラストのあれに向けて真顔を保たなければならなかった点である程度の失速を監督は覚悟していたように思うのだけれど、それがもし「人間の鎖」運動が自明であるかどうかによる彼我の差ということであれば、ワタシはそこで詰めてた息を吐いた気がしてしまっている。とはいえラストのあれはダイトーリョーが作りたくて仕方のない例の壁のホラーモデルとして最高だったと思うけれど。
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2019年09月08日

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド/夜をぶっとばせ

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※展開に触れています。

1969年8月がいかに紙一重だったか。8月9日に起きたシエロドライブの殺人を含む複数の殺人事件の犯人としてチャールズ・マンソンとそのファミリーが逮捕されたのはしばらく後の10月12日で、もし仮に現行犯に近いスピードで彼らが逮捕されていたならば、その6日後の8月15日から開催が予定されていたウッドストック・フェスティヴァルに地元自治体や住民とのカルチャーギャップに伴う軋轢で開催地の変更を余儀なくされた経緯があったことを考えてみれば、ヒッピーあるいはフラワーチルドレンの犯した凶悪で凄惨な事件の衝撃によって、ただでさえ緊張含みだった地元との関係は嫌悪や憎悪すらを巻き起こして開催が中止に追い込まれていたとしても不思議ではなかっただろう。その場合、ジミ・ヘンドリックスの国歌演奏が存在しなかったどころか、この世界に「ウッドストック」という概念すらが存在しないこととなるわけで、70年代以降のカウンターカルチャーの横顔はワタシたちの知るそれからは大きく修正されていたにちがいない。そしてタランティーノが幻視してみせたのは、その横顔を照らす光と影の違いこそあれやはり紙一重の世界であったのは言うまでもなく、シャロン・テートを救うことでハリウッドの甘くイノセンスな夢を生きながらえさせると同時に、チャールズ・マンソンという怪物の勃興を阻止したことでアメリカのカウンターカルチャーを救ってみせさえしたわけで、タランティーノがこれまで行ってきた歴史の修正がある極悪を叩き潰すことによってなされてきたことからすれば、この作品では叩き潰すのではなく救い出すという真逆の行為によって大きな転換の修正がなされたこととなる。この映画ではかつて片岡義男が“いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と解き明かしたその時間が、およそ120分を過ぎた頃までメランコリーと多幸感の強烈なないまぜとして描かれ、そして8月9日の逢魔時を過ぎてブールバードのネオンに灯がともり、ミック・ジャガーがベイビー、お前はもう時間切れだぜと歌い出した瞬間、さっきまで夢うつつに見ていたあれを守るためなら何だってする用意があることをタランティーノは宣言してみせるのだ。それまで執拗に繰り返されていた、存在の証をつなぎとめるように足元から全身をあおっていくショットは以降完全に封印され、ほとんどが黄泉の国の出来事でもあるかのような非現実の世界の中で、ヒッピーがハリウッドセレブを血祭りにあげるという構図は真っ逆さまに逆転し、シャロン・テート(マーゴット・ロビー)が「テス」の初版本を胸に抱いた世界は変わらぬままワタシたちの知らない8月10日の朝を迎え、この映画が存在する限りそれは永遠に続くこととなるのである。クリフ・ブース(ブラッド・ピット)は、本来リベラルの質を持った人間であったことがうかがえはするものの、グリーンベレーとして戦場のフィルターをくぐったことで無自覚で整理されていないリバタリアンとしてハリウッドを漂泊していて、ヒッピーやフラワーチルドレンに対する眼差しの暴力的な豹変もごく自然に行われ、それが何であれ思想への共鳴は優先順位のリストに入ることはなくその点においてリック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)よりは70年代をサーフすることの準備はできているように思われる。そうした佇まいもあってワタシにとっての主人公は終始クリフに尽きるということになり、1969年2月9日のクリフ・ブースはこの映画における最高最良であると言い切ってしまってもいいだろうと考える。なかでも、屋根のアンテナを直すべくリックの自宅に戻ったクリフが、ガレージの道具部屋から工具ベルトと作業グラブを取り出して針金をくわえ、劇中でたった一度見せるスタントマンの身のこなしで屋根にのぼり、アロハシャツとTシャツを脱いでタバコに火を点けるまでの一連はすべてのストーリーから解き放たれた完璧なモンタージュとして成立し、インサートされる回想シーンで彼のナイスガイが押しとどめている不発の気配を増幅した上で、その余韻をスパーン牧場の密やかな決闘へとつなげていくこととなる。ここでクリフが漂わせるのは、命のやりとりをして生き残ってきた者特有の倦んだようなアパシー、言いかえれば人殺しの匂いであって、それはランディ(カート・ラッセル)がクリフを忌み嫌う薄気味悪さの正体でもあり、車を停めてスパーン牧場におり立った瞬間、チャールズ・マンソンとそのファミリーが染みつかせた歪んだ精神の澱みに感応してリックの前では封印しているクリフのもう一つの顔が剥き出しにされていくわけで、ノンシャランなヒロイズムが暴力的なマチズモの領域に変質していく一連を物音一つたてず忍び寄る摺り足のシームレスで演じたブラッド・ピットには、息がつまるように圧倒されてしまう。それを日の下にさらけ出したその半年後、クリフのデーモンをいかにして解体し再構築してみせたか、“私たちに殺しを教えたやつらを殺すのよ”とナイフを振りかざす彼女たちに対し、でもまだこの殺し方は教えてないだろ?とさらなる暴力と殺人の新たな角度で世界を均していくタランティーノの、そうやって死を司ってきた者がここでは生を司ることすらを課したことによって今ここにいない者たちへの思慕が強烈に刻まれることとなり、それは例えば『甘い生活』のような、死の香りが立ち込める地獄めぐりを超えた天国めぐりの彷徨となることで、ついには生と死を円環する全体性を獲得していたように思うのだ。そうやってこの夜の紙一重をすりぬけた者たちが静かで親密に笑いながら退場していくラストは、図らずも神を気取ってしまったタランティーノの安堵のため息といくばくかの照れであったように思えて、ワタシまでもが疼くようにうんうんとうなずくばかりなのだった。テックス(オースティン・バトラー)が手にしていた優雅な銃身を備えたコルトはチャールズの愛銃バントラインスペシャルで、実際はこの夜2人の生命を奪い3人目にとどめを刺そうとして不発に終わっている。
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2019年09月01日

ロケットマン/愛していたと言ってくれ

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もういいかげんやめにしようやと言ってカートが吹っ飛ばしたセックス、ドラッグ&ロックンロールというスターダムとファンダムの共同幻想を、今の気分にデオドラントした上で絵に描いたような話として復活させたのが『ボヘミアン・ラプソディ』の勝因であったのだろうと思いつつ、やはり絵に描いたような話であった今作と決定的に異なるのは『ボヘミアン・ラプソディ』が「絵」に描いたような話であったのに対して『ロケットマン』は絵に描いたような「話」であろうとした点にあったように思う。だって映画だろう?映画のエは「絵」のことだろ?とすっとぼけては、あくまで正史としての「話」を描こうとしたサシャ・バロン・コーエンを一蹴した歴史修正主義者ブライアン・メイの強権は正しかったのだなあとあらためて恐れ入った上で、そうした現場処理にそれなりのほぞを噛んだであろうデクスター・フレッチャーにとって今作はある意味逆襲というか復讐というか、そうした熱量を内燃させて走らせたのは確かであったとは思うものの、そうやって描きあげた「絵」に描いたような「話」のバランスは、結果として「絵に描いたような話」に均されてしまったように思えたりもしたのだけれど、逆にそれがクリシェのオリジンとしての凄味につながっていたのは、祀られるためには(ブライアンの手によって)偶像の中に閉じ込められるしかなかったフレディに対し、そこから下りることで手に入れたエルトンの解放感がこの映画を撮らせたのは明らかで、なにしろこの映画のタイトルは『ロケットマン(Rocketman)』であって『僕の歌は君の歌(Your Song)』でなかった点においてさらに明らかだろう。そんな風にエルトン自身の完全なコントロール下で仕上げられたシナリオなだけに、トラウマというと聞こえはいいけれど彼がいまだ根に持ち続けていることがいろいろと明らかになっているのが愉しくて、『僕の歌は君の歌』誕生の微笑むようなエピソードよりは、トルバドールでお披露目ステージを大成功させてママ・キャス邸のパーティに招かれるという当時の界隈においてまさにスターダムへの扉が開いたその夜に、それを分かち合うことなくナンパした女性としけこんだバーニー・トービンを恨めしげに睨むエルトンの図が忘れがたいのも至極当然で、そこにつけこんだジョン・リードについて、絵に描いたような悪徳マネージャーというわけでもない陰影と愛憎をしのばせた点もエルトンの自虐史観の表れとして物語の強度を支えることとなる。そしてそれはソダーバーグの『恋するリベラーチェ』を観た時に感じた、人目を喰って生きる者の暴力性を当然のように思い出させることとなって、フレディ・マーキュリーもまたそれをまとい続けざるを得なかった人であったことを思ってみれば、それを無理やり脱がせてしまったブライアン・メイの罪深さをワタシはどうしても思わずにはいられないのだ。となれば、両者にとってのジョーカーたるジョン・リードのメランコリーを描く者はいないのかと思ってしまうのが人情というものではなかろうか。もちろんそれはマーティン・フリーマンに演じてもらうとして。
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