2019年08月11日

サマー・オブ・84/ドント・スタンド・バイ・ミー

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オフィシャルサイト

主人公デイヴィー(グラハム・バーチャー)の「郊外でこそイカれたことが起きる」という冒頭のモノローグによって、この物語がサバービアの憂鬱が引き寄せる暗黒神話というあらかじめ総括された批評眼によって語られる、感傷や郷愁による80年代再現ドラマでないことが宣言されることとなる。たとえば『サマー・オブ・サム』が、あいつがいようといまいがあの夏は俺にとっちゃとてつもなく酷い夏だったという物語であったように、この国の夏休みとは異なり新年度に向かっていったん何者でもなくなる季節であればこそ、鬼が出るか蛇が出るかどちらに転ぶかわからない季節の天国と地獄が「サマー」という言葉に治外法権のようにデモニッシュな響きを与えることとなるわけで、この映画はそれを残酷なまでに利用することによってジュヴナイルに潜むメメント・モリを弄ぶように増幅しては、いかにして1984年というオーウェルの夏が永遠に終わることのない呪いとなったのかを、まるでそれが彼らの罪と罰であるかのように書き記していく。カーペンターやらモロダーやらタンジェリン・ドリームやらの名前が浮かんでは消えていくシンセサウンドを時代の空気を醸す援用としつつ、躁病的な80年代ネオンライトを一切オミットしたくすんだ彩りは、核家族化したアメリカの家族制度がサバービアから崩れ始めたことの表れにも思え、劇中の類型的で貌の見えない大人たちに振り回される子供たちの抵抗こそが、隣人としてのシリアルキラー狩りへと向かっていったようにも思えたのだ。しかしその反逆はある悲劇的な犠牲を払っただけでなく、デイヴィーの視点によってオープニングと円環するラストの風景にあきらかなように、みんな壊れていなくなっていく明日を予感させて物語は幕を閉じるのである。ちょっとだけスマートな主人公デイヴィー、不良を気取るイーツ(ジュダ・ルイス)、太っちょウッディ(カレブ・エメリー)、メガネのファラデイ(コリー・グルーター=アンドリュー)という主人公と不良と太っちょとメガネの組み合わせがそのまま『スタンド・バイ・ミー』の引用であることは言うまでもなく、となればスティーヴン・キングの原作タイトル「死体(THE BODY)」が『スタンド・バイ・ミー』へと移ろうことで青い死と訣別の物語が感傷と郷愁の物語へと書き換えられたことを想い出してみれば、この映画こそが真の『スタンド・バイ・ミー』を名乗るにふさわしいように思うのである。スティーヴン・キングはかつて、“想像力豊かな人間は、自分が脆いという事実をしっかり見据えている。想像力豊かな人間は、物事がなんでも、いつでも、どうしようもなく悪い方向へ進むという可能性に気づいている。想像力豊かな人間は、シリアルキラーの犠牲になるのが自分以外のだれかだとは思わない。ヘンリー・リー・ルーカスのようなやつはこの世に現実にいて、そいつに出くわす確率はパワーボールくじで3億5000万ドル当たる確率よりも高いと思っている。”と書いたけれど、まさにこの映画を撮っているのがキングの言う“想像力豊かな人間”であるならば、それが“電子レンジは扉を開けたままでは作動しないことすら気にとめないそこいらのホラー映画”であろうはずがないのである。キングを信じよ。
posted by orr_dg at 01:58 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする