2019年08月06日

よこがお/わたしはそれがひまわりに見えない

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夜の公園で基子(市川実日子)の顔が闇に喰われていたように、喫茶店で茫洋と立つ辰男(須藤蓮)の顔もまた暗がりに喰われている。市子(筒井真理子)とある種の感情を交わした人がやがて自失してしまうのは単なる偶然なのか、市子と妹である道子との関係は参考書のくだりでうっすらと昏いものとして暗示され、やがて自死してしまうその道筋は既に敷かれていたようにも思われる。かつて市子が世話をしていた大石塔子は、余命2ヶ月と宣告された後で2年以上生きながらえながらも、市子が離れた途端ほどなくしてこの世を去ってしまう。娘である洋子(川隅奈保子)の呼びかけには答えず市子には言葉を返すショットの隅でフォーカスから漏れた洋子の姿や、「結婚ってそういうもんでしょ」とつぶやく戸塚(吹越満)を覆う昏いメランコリーは既に市子の暗がりに喰われ始めているようにも映る。「過去」と「現在」という時間軸が交錯する構成は、一見したところ復讐というゴールに向かうサスペンスをフラッシュバックで絞り上げていくように思えるのだけれど、それよりは白川市子という1人の女性が持ち得た「あちら」と「こちら」のよこがおの、それは二面性などという都合と聞こえの良いだけの解釈ではない、1人の人間の全体性として世界の法則に基づいた再構築は、不遜で禍々しくしかし真摯とすらいえる直接性によってそれは行われ、生きているだけで手繰り寄せてしまう罪と罰があるのだとしたら、その救済もまた生の中に見出すことができるのか、その両者が平行世界の物語としてむき出しの絶望と希望を縫い合わせるようにクロスカッティングされていくのである。そしてそれらは互いの存在を確かめるかのように侵食を始め、動物園からの帰り途、基子を追って走る市子のクロースアップは、その先の交差点で決定的に起きることを既に知っているかのような諦念をその貌に貼りつかせて真空を呼び出し、それは押入れから向こう側の光を見て恍惚とする市子を経て、広場で基子の幻影を見て卒倒する市子においてついに貫通してしまう。突き抜けた市子は、おそらく和道との関係も断ったのであろう白髪交じりの髪のまま辰男と贖罪の日々を過ごすことで自分を鎮めようとしたその時、お前はまだ転落と救済の最終試験を受けていないではないかという、人間の理(ことわり)などはなから考慮するつもりなどない世界の道理のひと触れによって究極の残酷に直面することとなり、たとえあの場で彼女がどちらを選んだとしても世界は素知らぬ顔を通したに違いないにしろ、しかし彼女はプライマル・スクリームとしてのクラクションを鳴らし続けることで再生を選んだことを知らせつつ、走り去った市子にはさらにもう一つの選択が待ち受けてたわけで、車はサイドミラーに市子のよこがおを映したまま街の喧騒の中を走り続け、そのノイズがミュートされたと思った瞬間カメラは左前方に駐車された白い車の後部をぼんやりとフォーカスするのである。無音のままその白の中へとホワイトアウトしたスクリーンに、ああ『淵に立つ』のようにここで止めるのかと思った瞬間、暗転したクレジットロールの中、ミュートされていた通りの喧騒が何事もなかったかのようにふっと再び浮かび上がってくるのだ。ともかく車は走り続けていて、市子はついにこちらとあちらを突き抜けることで世界への復讐としてふたつのよこがおを棄ててみせたのだろう。深田監督は市子を見てあなたの闘い方を知れと言っていた。
posted by orr_dg at 16:29 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする