2019年08月25日

鉄道運転士の花束/天国列車におまえを乗せて

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激突してひしゃげたメメント・モリと丹念になめした鈍色のアパシーと、地政学上の鬼っ子セルビアがシャツとズボンのようにいちどきに身につけたそれとこれはまるで鉄道運転士の制服でもあるかのようで、これはイリヤ(ラザル・リストフスキー)からシーマ(ペータル・コラッチ)へその制服が受け継がれる儀式の物語。ここは死を拭い死に涙することが必ずしも正気の沙汰として歓迎される素振りともいえない世界で、どれだけ線路で人を轢いたとしても罪に問われることのない俺たちが人並みの正気を欲してしまっては、あの世に送った人たちに申し訳が立たなかろうよと、けっして死を軽く想うわけではないけれど、死に捉まらないためにはそれを足蹴にせざるを得ないのだという、夜寝る時にしまいこみ朝目が覚めた時に身につけるその制服こそがこの国を生き抜くための薄日差すあきらめと仄暗い知恵なのだという、監督がセルビアに捧げた愛と苦笑いの讃歌であったようにワタシは思えた。倫理や道徳ではものさしにならない、生きているということは死んでいないということだという確認は、それは人間の右肩上がりの活動を阻害するざわめきとして顕著に忌避されてきたのは間違いがなく、例えば昭和のブルータルが戦争の残滓としてあったことなど思い出してみれば、そこで生まれて育ったワタシがこの映画に感じる親しみと懐かしさの正体を知るのはとても自然で容易なのは言うまでもなく、ペシミズムの色としかいいようのないくすみと退色の緻密な色彩設計がそれら感傷とメランコリーに拍車をかける。ラザル・リストフスキーとミリャナ・カラノヴィッチが身を寄せ合う姿はまるで『アンダーグラウンド』の白日夢のよう。
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2019年08月24日

感染家族/ゾンビあり〼

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※若干展開に触れています

感染と殺戮のスピードを加速し続けることで新しい風景を獲得した『新感染 ファイナル・エクスプレス』に挑戦するかのように(ラストのトンネル&ハワイはそういうことだろう)、ゾンビをカタルシスの獲物と屠ることなくどれだけダウンテンポで着地できるかというアクロバットを倒けつ転びつしながらクリアしていく姿が、ゾンビという愛と欲望のマネキンを押し頂いたこのジャンルの特異な懐の深さをあらためて告げていたように思ったのである。物語の中心となる家族が拝金主義の前に道徳も倫理も投げ捨てていることをあらかじめ描いた上で、ゾンビ体験を経てそれが教訓的に修正されたかというとまったくそんなことはないどころかその先の幸福な落としどころさえ描いてみせるわけで、『新感染 ファイナル・エクスプレス』に欠けていた慟哭するような悪趣味をノンシャランなピカレスクとしてしのばせた辺り、かなり念の入った知能犯であったのではなかろうか。ただ、大オチのためにゾンビ(というか厳密には感染者)の肉体を破壊してしまうわけにはいかないという制約があるせいで、敵陣を突破する軽トラは一人たりともゾンビを跳ね飛ばさないし、チェインソー代わりの草刈り機もアリバイ的に一度だけ誰かの片腕を切り落とすものの(しかし切り落とされた腕にはどこかすまなそうにモザイクがかかるのだ)、切り株上等なマサカーに至ることもなく、ガソリンスタンドの大爆発もロングショットで確認するにとどまって黒焦げたゾンビがいたのかいないのかお茶を濁さざるを得ないわけで、籠城からの脱出、「バブ」化したゾンビ、DIY武装といった王道を外さない分だけ、ゴアゴアの回避がそちらの好事家には物足りなく映るのもやむなしといったところだろう。飛び蹴りは2度ほどありますが。それと韓国映画には必ず先輩後輩ネタが仕込まれるけど、外にいるワタシには自明の文化として映るそれもやはり当事者には厄介で面倒なシステムとしてあるからこそああしてネチネチあげつらうんだろうなとつれづれに思ったりもして、そんなこんなを思いめぐらせることのできるくらい良い塩梅にレイドバックしたポストゾンビ映画の未知なる亜種。
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2019年08月21日

カーマイン・ストリート・ギター/それを作れば、やってくる

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なんだか『ブルー・イン・ザ・フェイス』を思い出したりもしたのだ。グリニッジ・ヴィレッジの小さなギター屋さんのドアをたたくあの人やこの人が、煙草をくゆらすかわりにリック・ケリーとシンディ・ヒュレッジの仕上げたカスタムギターを慈しむようにつまびき鳴らしては、こいつが手の中にあるおかげでぼくらはこんな風に真人間のような顔をしてられると思うんだ、とかそんなことを言いたそうにしてはお互いうんうんうなずき合うその姿に、時間の流れを自分の中に通してはそれを甘美な痛みと引き換えに操る人たちの軽やかなペシミズムを感じたりもして、だからワタシはこの人たち(音源が手元にあるのは半数ほどだけれど)の奏でる音楽に引き寄せられてしまうのだなあと、その秘密を少しだけのぞき見した気分だったのだ。そうやってドアの外とは時間の流れやまわり方が通じない空間だからこそ、時間の彼方に消えていったルー・リードやロバート・クワインといったここにいるべき人たちの不在も何だか一時的なことのように思えたりもしてしまうし、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の不機嫌なチェーンスモーカー、エヴァ=エスター・バリントが、35年?そんな時間わたしは知らない、といった風にすっとそこにいてギターをかき鳴らす姿に不意打ちをくらい、ああこれがNYの魔法ってやつか、と一も二もなくひれ伏したのだった。そしてジェフ・トゥイーディーの誕生プレゼントにギターを買いに来るネルス・クラインの、少し照れくさそうな顔と渾身の試し弾きは極上のボーナストラック。むかし何度かNYに行ったとき店の前を幾度となく通ってるのは確かなのに反応できなかったのは、ワタシがそういう人でなかったからなんだろうと思うとちょっと切なくてくやしい。
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2019年08月20日

HOT SUMMER NIGHTS ホット・サマー・ナイツ/幸せなら頰をたたこう

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※展開に触れています。可笑しくて可怪しい映画で、ティモシー・シャラメが嬉々として空っぽを演じます。

『ターミネーター2』が封切られフレディ・マーキュリーがこの世を去った年として1991年を名指しで呼び出しておきながら、CAN、リンダ・ロンシュタット、ゾンビーズ、スーサイド、デヴィッド・ボウイ、モダン・ラヴァーズ等々といった挿入曲は1991年のヒットチャートと無縁に散らかっていて、そもそもこの物語の語り手が誰なのかその素性と関わりが最後まで告げられないことを考えると、これら選曲は正体不明の語り手によるミックステープに過ぎないのではなかろうかと、デヴィッド・ボウイの選曲に関してはいささか食傷気味であったとはいえ、なかなか居心地のいいトラックリストによるそう遠くも近くもない過去への催眠効果はてきめんだったように思うのである。とはいえ、1991年に物語の舞台となるケープコッドを超大型のハリケーン・ボブが襲ったのは史実そのままで、してみるとこの物語は、地元ではいまだ語り継がれるハリケーンの年に起きたある殺人とその背景を名もない土地っ子が妄想を全開に幻視してみせたひと夏の顛末ということになるのではなかろうか。そう考えてみると、土地っ子のハンター(アレックス・ロー)やマッケイラ(マイカ・モンロー)の輪郭となる苦くて昏い屈託に比べ、よそからやって来た中途半端な通りすがりにすぎないダニエル(ティモシー・シャラメ)が空っぽなピカレスクでしかないのは、彼の役目が狂言回しに過ぎないことの顕れになる気もして、実際のところハンターにしろマッケイラにしろ、ダニエルと関わることで次第に内面は裏返ってキャラクターは奥行きを増し屈託を滴らせ始めるわけで、それとは対照的に父の喪失という餌を与えられながらそれに手を付ける素振りを一向に見せる気配のないダニエルは、倦怠した避暑地の底にたまった鬱屈に火を点けて破壊へのメランコリーをあぶり出す、いってみれば風の又三郎的な存在であったようにも思われたのだ。製作のタイミングからすると『君の名前で僕を呼んで』でのブレイクによってティモシー・シャラメをキャスティングしたわけではないようだし、その在り方のすべてが無邪気という邪(よこしま)でしかないダニエルという存在を、内省なしで主に視線の外し方と合わせ方および薄い胸となで肩によってデザインできる役者として彼をチョイスした慧眼は称賛されるべきだろう。到来したハリケーンが街を破壊したように、ダニエルが街にやってきたことで誰かが死に誰かが街を去ることで物語は収まりよく閉じられるのだけれど、映画のクライマックス自体はその少し前、ダニエルの正体が喝破され又三郎のマントが剥ぎ取られるシーンにあるわけで、それを執り行うシェップ(ウィリアム・フィクトナー)のあまりにもエレガントな緊張と緩和の乱射に見惚れるだけでワタシは料金のもとを取るどころかお釣りさえもらった気分だったのだ。伸るか反るかの大勝負に出たダニエルがドアをノックすると、開いたドアの先に立っているのはウィリアム・フィクトナーその人で、いつも相手の頭の上や横を見つめているようなその視線は先に相手の守護霊を殺しにかかっているようでもあり、「コーヒー呑むか?でも今の若いやつはコーヒーなんか呑まないよな、くくっ」と無精髭に寝起きの髪で小さく笑い、洗いざらしのターコイズブルーのTシャツにオレンジのショーツというノンシャランという名の虚無に身を包んで、よたよたとキッチンへコーヒーとドラッグを取りに行くその数十秒でああこれはダニエル血祭りだと思わせてしまうシナリオと演出のデザインが圧倒的で、しかもその後で事態はさらに圧倒的かつ悪魔的になり、詳細を書いてしまう野暮はしないけれどダニエルは生きながら殺されていくことになる。といった風に、これはティモシー・シャラメのとろけるようなナイーヴを溶かし込んだ「切なく、美しく、スリリングなひと夏の青春」というよりは、町いちばんの不良が死に、町いちばんの美人が町を出たその夏の裏側を、いつも遠くからあこがれの目でふたりを見ていたある土地っ子の少年が可能な想像力をすべてぶちこんで語り尽くす与太話とも言えるわけで、そのあたりの食えなさ加減はA24の面目躍如といったところだし、そのA24の信を得て自身のオリジナル脚本で長編デビューを果たしたイライジャ・バイナムという監督の名前をワタシはここに覚えたのであった。あそこでナメクジの話を持ち出せる書き手はそうそういないと思う。
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2019年08月13日

ゴーストランドの惨劇/ラヴクラフトならこう言うね

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※展開に触れているのでパスカル・ロジェという名前にそわそわしている鑑賞予定の方スルー推奨。一刻も早くそのそわそわを鎮められんことを。

肉体の先に宇宙(魂)を覗く実験であった『マーターズ』から始まり、監禁や誘拐によって真空でスウィングされる肉体こそが魂の共鳴を誘うのだという狂人の正論を整えた『トールマン』を経て、肉体の死か精神の破壊かそのどちらかしか途はないところに追いつめられた魂が肉体の記憶と手をたずさえた時、自動書記のように立ち上がる想像力の筆が描き始める世界は昏睡した現実へのいかなる乱入が可能なのか、魔道士パスカル・ロジェがまるで臨床試験を執り行うかのような冷徹と恭しさとで、ベス(クリスタル・リード/エミリア・ジョーンズ)とヴェラ(アナスタシアン・フィリップス/テイラー・ヒックソン)姉妹の心と肉体を文字どおり“折り”にかかることとなる。しかしパスカル・ロジェが単なる姉妹絶唱の残酷ショウそれ自体を目当てとするはずもなく、ベスによるエピグラフとして捧げられるラヴクラフト愛はいずれ想像力の強度を支えてめぐらされる梁となり、ヴェラ言うところにの“ロブ・ゾンビの家”で繰り広げられる肉体への即物的な恐怖と暴力の応酬との二重世界を築くことで、やがてこの物語にしのばされた目的が次第に明らかとなっていく。ベスの世界に現れる書物のタイトルがそのままこの映画のタイトルとなっていることを忘れさえしなければ、ラヴクラフトがベスに告げる「この傑作を一字一句でも変えたりしたら僕はきみを許さないよ」という言葉を聞いて、ベスが自らガラスを突き破りロブ・ゾンビの家へと戻っていったことの意味が、エピゴーネンからオリジナルへ、仮想敵に酔う世界から真の敵と闘う世界へ、ひとりの女の子の通過儀礼の物語として完結させることすら可能に思えたのだ。といったサイドストーリーを預けたことで、すべての痛覚描写は整合性と正当性を持ち始め、殴る蹴る刺す裂く噛む撃つそして嗅ぐといったおよそ考えうる肉体の破壊が綿密かつエレガントに創造されていくこととなる。特にベスとヴェラの姉妹に顕著な顔面崩壊が得も言われぬ素晴らしさで、それは例えば『トールマン』で犬に脚を酷く噛まれたジェシカ・ビールが映画の間ずっとその脚をひきずっていたりとか、時間が経つほどに腫れ上がっていくそのまぶたであるとか、暴力の結果が都合よく消えるはずなどないことを、ほとんど肉体への敬意といってもいい細やかさでそれを施していたのである。キャンディトラックの女が姉妹の母ポーリーン(ミレーヌ・ファルメール)を三度刺して殺すそのナイフのスピードと角度も絶品で、もしかしたらワタシは劇場でおかしな声を出していたかもしれない。終盤のクライマックス、ベスが絶体絶命となるシーンでからくり人形が絶妙なタイミングを得て笑い出すのはベスがこの物語をついに支配したことの現れだったのだろうことなのはともかく、ここでベスの口から吹き出す泡の色艶と質感に陶然と心奪われたことも付け加えておきたい。
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2019年08月11日

サマー・オブ・84/ドント・スタンド・バイ・ミー

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主人公デイヴィー(グラハム・バーチャー)の「郊外でこそイカれたことが起きる」という冒頭のモノローグによって、この物語がサバービアの憂鬱が引き寄せる暗黒神話というあらかじめ総括された批評眼によって語られる、感傷や郷愁による80年代再現ドラマでないことが宣言されることとなる。たとえば『サマー・オブ・サム』が、あいつがいようといまいがあの夏は俺にとっちゃとてつもなく酷い夏だったという物語であったように、この国の夏休みとは異なり新年度に向かっていったん何者でもなくなる季節であればこそ、鬼が出るか蛇が出るかどちらに転ぶかわからない季節の天国と地獄が「サマー」という言葉に治外法権のようにデモニッシュな響きを与えることとなるわけで、この映画はそれを残酷なまでに利用することによってジュヴナイルに潜むメメント・モリを弄ぶように増幅しては、いかにして1984年というオーウェルの夏が永遠に終わることのない呪いとなったのかを、まるでそれが彼らの罪と罰であるかのように書き記していく。カーペンターやらモロダーやらタンジェリン・ドリームやらの名前が浮かんでは消えていくシンセサウンドを時代の空気を醸す援用としつつ、躁病的な80年代ネオンライトを一切オミットしたくすんだ彩りは、核家族化したアメリカの家族制度がサバービアから崩れ始めたことの表れにも思え、劇中の類型的で貌の見えない大人たちに振り回される子供たちの抵抗こそが、隣人としてのシリアルキラー狩りへと向かっていったようにも思えたのだ。しかしその反逆はある悲劇的な犠牲を払っただけでなく、デイヴィーの視点によってオープニングと円環するラストの風景にあきらかなように、みんな壊れていなくなっていく明日を予感させて物語は幕を閉じるのである。ちょっとだけスマートな主人公デイヴィー、不良を気取るイーツ(ジュダ・ルイス)、太っちょウッディ(カレブ・エメリー)、メガネのファラデイ(コリー・グルーター=アンドリュー)という主人公と不良と太っちょとメガネの組み合わせがそのまま『スタンド・バイ・ミー』の引用であることは言うまでもなく、となればスティーヴン・キングの原作タイトル「死体(THE BODY)」が『スタンド・バイ・ミー』へと移ろうことで青い死と訣別の物語が感傷と郷愁の物語へと書き換えられたことを想い出してみれば、この映画こそが真の『スタンド・バイ・ミー』を名乗るにふさわしいように思うのである。スティーヴン・キングはかつて、“想像力豊かな人間は、自分が脆いという事実をしっかり見据えている。想像力豊かな人間は、物事がなんでも、いつでも、どうしようもなく悪い方向へ進むという可能性に気づいている。想像力豊かな人間は、シリアルキラーの犠牲になるのが自分以外のだれかだとは思わない。ヘンリー・リー・ルーカスのようなやつはこの世に現実にいて、そいつに出くわす確率はパワーボールくじで3億5000万ドル当たる確率よりも高いと思っている。”と書いたけれど、まさにこの映画を撮っているのがキングの言う“想像力豊かな人間”であるならば、それが“電子レンジは扉を開けたままでは作動しないことすら気にとめないそこいらのホラー映画”であろうはずがないのである。キングを信じよ。
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2019年08月06日

よこがお/わたしはそれがひまわりに見えない

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夜の公園で基子(市川実日子)の顔が闇に喰われていたように、喫茶店で茫洋と立つ辰男(須藤蓮)の顔もまた暗がりに喰われている。市子(筒井真理子)とある種の感情を交わした人がやがて自失してしまうのは単なる偶然なのか、市子と妹である道子との関係は参考書のくだりでうっすらと昏いものとして暗示され、やがて自死してしまうその道筋は既に敷かれていたようにも思われる。かつて市子が世話をしていた大石塔子は、余命2ヶ月と宣告された後で2年以上生きながらえながらも、市子が離れた途端ほどなくしてこの世を去ってしまう。娘である洋子(川隅奈保子)の呼びかけには答えず市子には言葉を返すショットの隅でフォーカスから漏れた洋子の姿や、「結婚ってそういうもんでしょ」とつぶやく戸塚(吹越満)を覆う昏いメランコリーは既に市子の暗がりに喰われ始めているようにも映る。「過去」と「現在」という時間軸が交錯する構成は、一見したところ復讐というゴールに向かうサスペンスをフラッシュバックで絞り上げていくように思えるのだけれど、それよりは白川市子という1人の女性が持ち得た「あちら」と「こちら」のよこがおの、それは二面性などという都合と聞こえの良いだけの解釈ではない、1人の人間の全体性として世界の法則に基づいた再構築は、不遜で禍々しくしかし真摯とすらいえる直接性によってそれは行われ、生きているだけで手繰り寄せてしまう罪と罰があるのだとしたら、その救済もまた生の中に見出すことができるのか、その両者が平行世界の物語としてむき出しの絶望と希望を縫い合わせるようにクロスカッティングされていくのである。そしてそれらは互いの存在を確かめるかのように侵食を始め、動物園からの帰り途、基子を追って走る市子のクロースアップは、その先の交差点で決定的に起きることを既に知っているかのような諦念をその貌に貼りつかせて真空を呼び出し、それは押入れから向こう側の光を見て恍惚とする市子を経て、広場で基子の幻影を見て卒倒する市子においてついに貫通してしまう。突き抜けた市子は、おそらく和道との関係も断ったのであろう白髪交じりの髪のまま辰男と贖罪の日々を過ごすことで自分を鎮めようとしたその時、お前はまだ転落と救済の最終試験を受けていないではないかという、人間の理(ことわり)などはなから考慮するつもりなどない世界の道理のひと触れによって究極の残酷に直面することとなり、たとえあの場で彼女がどちらを選んだとしても世界は素知らぬ顔を通したに違いないにしろ、しかし彼女はプライマル・スクリームとしてのクラクションを鳴らし続けることで再生を選んだことを知らせつつ、走り去った市子にはさらにもう一つの選択が待ち受けてたわけで、車はサイドミラーに市子のよこがおを映したまま街の喧騒の中を走り続け、そのノイズがミュートされたと思った瞬間カメラは左前方に駐車された白い車の後部をぼんやりとフォーカスするのである。無音のままその白の中へとホワイトアウトしたスクリーンに、ああ『淵に立つ』のようにここで止めるのかと思った瞬間、暗転したクレジットロールの中、ミュートされていた通りの喧騒が何事もなかったかのようにふっと再び浮かび上がってくるのだ。ともかく車は走り続けていて、市子はついにこちらとあちらを突き抜けることで世界への復讐としてふたつのよこがおを棄ててみせたのだろう。深田監督は市子を見てあなたの闘い方を知れと言っていた。
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2019年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.28 Sun

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昨晩の敗走中に見た、漆黒の濁流と化したところ天国のせせらぎや地獄の一丁目への橋渡しとなっていたオアシス脇の川に尋常ならざる事態を嗅ぎ取ってはいたものの、真夜中のタイムテーブルがキャンセルされたのはともかく、国道17号が一部通行不可になるなどそれなりに紙一重の状況であったことが明らかになったことで、DEATH CAB FOR CUTIEを見棄ててホテルに逃げ帰り、ゴアテクスのメンテナンスに努めたワタシは正しかったのだと立ち直りも早かったのである。この日のグリーンには、後背の山々が抱えきれずに漏れ出した雨水が小川となってのどかにさらさらと流れていたよ。

渋さ知らズオーケストラ@FIELDS OF HEAVEN
かつてはフジの祝祭サイドの顔としてグリーンすらを制圧していた渋さ知らズの7年ぶりのステージがヘヴンの一発目であったというそれだけで、オレンジコートの消滅を含めフジロックが精算してきたものたちの泣き笑いが浮かんでくる気もしたのである。とは言え、そんな邪推にはおかまいなしにすべての曲が最終曲であるかのような行き先知らずの情緒過多は相変わらずで、かつて苗場で見たいろいろな光景があれこれ押し寄せてきたりもしたのだった。変わるものも変わらないものもどちらもこの世にはある。

BANDA BASSOTTI@WHITE
音楽に政治を持ち込むなとか言う人がいるけれど、自由になりたいと歌った時、自由でありたいあなたと自由でないあなたの間にあるものをたどっていけばそこには政治がもたらした理由があるのは間違いないはずで、ワタシたちが社会性を帯びた/帯びさせられた社会的な動物である以上、政治から逃げ切れるはずはないことを、まずはあきらめと共に知るべきだろうと考えながら踊っていた。でも失敗した闘いへの感傷は要らないとも思ったよ。

THE PARADISE BANGKOK MOLAM INTERNATIONAL BAND@FIELDS OF HEAVEN
モーラムっていうタイの民族音楽もピンていう三弦の楽器もケンていう管楽器も申し訳ないくらいに知らなかったけど、まったくのゼロから得点と言う意味でこのバンドが今年のハイスコアを叩き出したのは間違いない。相当に強力なベースとドラムのタイトでモダンなリズムとアクロバットに浮遊するピンのリフレインとケンの切り込みは、アラン・ビショップあたりが泣いて喜ぶ東西折衷のモダンミュージックだろう。なんだかわけがわからないうちに圧倒的な多幸感に包まれて、ただひたすらにステージを崇めていたよ。

HIATUS KAIYOTE@GREEN
混雑に押し流された金曜日と土砂降りで押し流された土曜日の埋め合わせをするかのように、薄曇りの空はふんばりをきかせて人の波も退いた日曜日、苗場らしい祝祭の空間に跳ね回るこのバンドにようやく人心地がついた気がしたのだった。自由で軽やかに独立していて、しかしそれを手に入れるための強靭さこそが奏でられる音そのものであって、それをことさら何かに例えたりするような野暮はしなさんなとでもいうネイのにこやかな凄みに自然とこちらの丸まった背筋も伸びていたし、緊張を保つためにリラックスする音楽の極上として、野暮を承知で頭に浮かんだのはトーキング・ヘッズだったりもしたのだ。そういえば今年はあちこちで「リメイン・イン・ライト」の曲がよく流れていた。

VAUDOU GAME@FIELDS OF HEAVEN
ヴードゥーとかいうと人形に針ぶっ刺したりそういうもんだと思ってるかもしれんけど、実際はなんつうかカウンセリングのシステムみたいなもんなんだよ(適当過ぎる意訳)みたいなヴードゥーに関する説教をいきなり始めたりしつつ、しかし期待を裏切らないヴードゥー的なルックに心奪われるピーター・ソロさんの、JB’sみたいなバンドをJBのごとくビシッとコントロールしてクールでモダンなアフロファンクショーを指揮する一挙手一投足に目と耳は釘づけ。誰が昨日のお詫びをしてくれてるのかわからないけど、朝からずっと楽しいままで、左足の親指の爪が内出血してるのなんか気がつくはずもない。

その後はtoeを見て、ああやっぱり54-71をできたらWHITEで砂埃舞う中見たかったなあと思ってみたり、思いのほかアブストラクトだったVINCE STAPLESを見て、ああやっぱりクール・キースをDR. OCTAGONで見たかったなあと、おっさんらしくめそめそと無いモノねだりをしたりしてCUREに備えていたのだった。

CURE@GREEN
6年前に比べるとお客さんがいっぱいいるのが何だかうれしくて、気がつけばすぐ右で浅野忠信がGFと踊ってたりして、ほぼ完璧なロバート・スミス・ショウにあははと笑いながらたくさんの歌を歌ったのだった。前回は日付も変わって人もまばらになったGREENでBoys Don't Cry〜10:15 Saturday Night〜Killing An Arabのつるべ打ちに狂乱したのだけど、今のロバート・スミスはBoys Don't Cryで去っていくことでヴィヴィッドな一夜の想い出としたかったのだろう。ヘアスタイルのボリュームはそろそろかなあとは思うもののどの曲もキーを下げたりすることなく艶々と歌いあげるのは6年前のままだし、いいよと言われればあと1時間は喜々として続けただろう笑顔で名残惜しそうに去っていく姿に、信じる者は今度も確かに救われたと思ったのだった。この世代はアーティストもファンも本当にしぶとい。

というわけで、来年は例の国民的行事のため8/21、22、23の開催と相成ることに。梅雨の心配はないものの、土用波の時期ともなれば台風襲来が絵空事ではなくなるわけで、この土曜のことを思えば、おっさんは冗談抜きで生き抜くことを目指さねばならぬかと。

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2019年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.27 Sat

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午前中は例年のごとくドラゴンドラで天上に向かい、レストハウスでチキンカレーなんぞを食していたところがポツリポツリさあっと驟雨がやってきて、まあそりゃ雨くらい降るよね降らないわけがないよねなどとしたり顔をしてみせたこの時は、どうしてワタシの両手はこんなにふやけているんだろう、プールに浸かっていたわけでもないのに、と首をかしげることになろうなどとは知る由もなかったのである。

CAKE@GREEN
こういう天気はこのギターにはよくないんだよねえと冗談交じりに愚痴るジョンに、そうだねえギターにもワタシらにもみんなに良くないねえと胸の内でつぶやくくらいには雨が悪さをし始めていたのである。まあそりゃ雨くらい降るよね降らないわけがないよねなどとしたり顔をしてみせたこの時は、どうしてワタシの両手はこんなにふやけているんだろう、プールに浸かっていたわけもないのに、と首をかしげることになろうなどとはまだまだ知る由もなく、みんなカッコいいTシャツ着てるな、やっぱりTシャツは着丈が肝心だなあなどと能天気をかましていたのであった。バンドは愉しかったけど雨が降ってなければもっと愉しかったかな。こっちもTシャツで見たかったよ。

MATADOR! SOUL SOUNDS@FIELDS OF HEAVEN
この頃にはもう、加減を知らない幼子にキャッキャと帽子を叩かれているくらいの雨につきまとわれて、人間の子供ならやめさせることができるところがいつ終わるともしれないそれに気持ちは段々と下降線をたどりはじめ、ザ・ニューマスターサウンズmeetsソウライヴなどという極上のジャズファンクサウンドすらを雨を蹴散らすヤケクソのバックトラックにあてがう不埒に申し訳のなさでいっぱいなのだった。ギタリストとドラマーのみならず、クリス・スパイズというキーボーディストの切り裂くようなフレーズがまるで水切りのように跳ねまくっていてヤケクソを煽りまくっていたよ。

知らない大勢に頭や肩をバタバタと叩かれているような雨が、もう豪雨と言ってしまっていいだろう、そんな雨が降っている時は家の中に居ておとなしくしているよう現代の人間は出来上がっているわけで、ではそうしていないワタシに相応の目的があったとは言え、あとどれだけの時間この状態をやり過ごせばワタシは乾いた室内に寝転がって雨でぐずったソックスを脱ぎ捨てることができるのか、そんなことばかりを考えながら帽子のひさしから途切れなくおちる雫を捨てられた子供のニヒルで見つめるのであった。

GEORGE PORTER JR & FRIENDS@FIELDS OF HEAVEN
期せずしてアート・ネヴィルに捧げるステージになってしまったとはいえ、ああセカンドラインというのは本来こういうことかと、哀しみにつけ入るすきを与えないよう小刻みに踏み続ける笑顔のステップが途切れることのないまま永遠に上昇するスパイラルのようなビートに、ほんの一時だけ豪雨も音の粒と化したかのようであった。それにしても雨は降る。激しい雨である。ボブ・ディランやモッズがそんな風に歌うから雨もその気になってしまうのだ。溺れそうである。

AMERICAN FOOTBALL@FIELDS OF HEAVEN
この雨は、お前の気持ちがどれほどのものか試してやろうじゃないかという高いところの人の試練だったのだろう。そしてワタシは耐え抜いて、豪雨の雨音が喝采のように鳴り響く中、"Let’s just forget"と歌い出すマイク・キンセラの声を確かに聴いたに違いなかったのである。気がつけば水遊びをしすぎた子供のように両手はふやけ、手のひらにはちりめんのようなしわが浮かび上がり、思わず両の手のひらを合わせては「しわとしわをあわせて、しあわせ。なぁむぅ」とつぶやいてみたのだった。そしてこの日のワタシがどれほどギリギリのところに居たのかというとトリのDEATH CAB FOR CUTIEをあきらめて敗走したことに明らかで、そしてそのことをさほど悔いてもいないことに自分でも少しだけ驚いている。歳を取るとはこういうことだ。
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2019年08月01日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.26 Fri

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THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES@WHITE

つい2〜3日前まで台風のタの字も言ってなかったのに、台風来るから各自の責任において現場処理よろしく的ないきなりの状況であったとは言え、苗場皆勤の身としてはそれなりに酸いも甘いも噛み分けてきたこともあり、まあ死ぬわけじゃないしと(とは言え死ぬ可能性は若干あがっている)高をくくりつつも出発前に東京で少しバタついたこともあって、おっとり刀で越後湯沢にかけつけた次第。

今年も苗場プリンスの部屋が取れず越後湯沢組。それにしても金曜で行きの道路がこれだけ混雑していた記憶もなくて、ひとつのバンドがこれだけ集客するもんなのかともはや自分にはどこにも見つからない忠誠心に恐れ入る。それは皮肉でもなんでもなく。

RED HOT CHILLI PIPERS@GREEN
どんな曲でも力技のバグパイプアレンジで踊らすのかと思ってたもんだから、前夜祭でその実態を見ていささか肩透かしをくらったところもあるので、あくまで客入れの音楽として箱バンのいなたさとにぎやかしを生暖かく半笑いで愛でる。

SHAME@RED MARQUEE
2周くらい回ったポストパンクの風情がツボだったアルバムの感じからもう少し斜に構えたバンドなのかと思っていたら、むちゃくちゃIQ高いのに進学しなかったやつらが組んだバンドみたいな確信犯的サボタージュの馬鹿ノリが針を振り切ってて、思わず顔がほころぶ。とりわけウィル・サージェント直系のギタリストは大変に好み。パジャマを着たヴォーカルはカート・コバーンていうよりはジョニー・フィンガース直系の英国男子の心意気か。

KING GIZZARD & THE LIZARD WIZARD@WHITE
大真面目なメタルのフレーズとアレンジをツインドラムのマシナリーなビートで担いで反復することで垂れ流すトランシーはこのバンドのサイケデリックな性根にちがいなく、そのうちなんだかバットホール・サーファーズのステージを思い出したりもしてた。ギビーがオイルかけて火を点けたシンバルを叩きまくるもんだからステージのあちこちに火が飛び散って、客は大喜びスタッフ大慌てで消しまくったホワイトももう17年前。そりゃワタシも歳を取るわけだ。

JANELLE MONÁE@GREEN
プリンス、マイケル、JBまで全部ぶち込んで、見失うな、あの道はここにある!っていう宣言を、健やかな茶目っ気とカラフルな気合と共にワンインチパンチで打ち込み続けるステージ。そして時折の裸足。この後のすべてが見劣りしてしまいやしないかといういくばくかの危惧。

THE WATERBOYS@FIELDS OF HEAVEN
前回(2014)のステージでそれなりに決着は付けたので、今回はほとんど通りすがり程度。本音を言えば”THIS IS THE SEA”のマイク・スコットを見られなかった時点でもう間に合っていないのは確か。

TYCHO@WHITE
ヴォーカルが入った途端、何を聴いても何かに聴こえてしまうモードで今回はコクトー・ツインズが発動。これやるならもう少し氷結したシンガーが必要な気がしないでもない。ステージの端に腰掛けて歌ったりの浮遊する自然体とかそういうのはもういいかと。それ以外はライトタイムライトプレイスな逸品のステージだっただけに。

THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES@WHITE
個人として何をやったところで付帯事項付きの称賛と批判からは逃れられないトム・ヨークが、そんなあれこれから煙幕を張るかのように実体を晒すことを拒否するその姿こそを表現の輪郭としてきた歪が、ここにきてようやく正されたような気がしたステージだったのである。そこに見えたのは、かつてブロンドに染めた髪でデヴューしたヴォーカリストが30年近くを経て成熟した姿であったように思えたし、もはや倦怠もわが友としたというその笑顔の意外な晴れやかさこそが彼の復興にも映った。ダブルアンコールで奏でた『サスペリア』の職能仕事が予期せぬセラピーとなったのか。いずれにしろ霧はさぁっと晴れていた。
posted by orr_dg at 01:43 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする