2019年07月11日

凪待ち/新しいきず

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オフィシャルサイト

冒頭でカメラが川崎競輪場の建物をとらえた瞬間、ショットが平衡を失したようにぐらっと傾いて何だこれ?と奇妙に思っていたら、その後で木野本郁男(香取慎吾)の胸の内にギャンブルの魔が差す瞬間になると、彼をとらえたショットがやはり同じようにぐらっと傾くわけで、その失した平衡が石巻の海の水平と対照して描かれることによって、かつて傾いていた者と今なお傾き続ける者がひとたびの水平=凪を求めて交錯していく姿の喪失と再生を、それを香取慎吾の置かれた実人生に重ねるなら重ねてみればいいという、開き直りと言うよりは一種瑞々しくすらあるふてぶてしさで監督は描いていく。どれだけ血と泥にまみれようと性根のところが汚れていない郁男を、日本の湿り気ではなかなか染まらないデカダンスの色で描く目論見を白石監督は香取慎吾から得たのではなかったか。罠にかかった野生動物が血を流しながら暴れる姿の倒錯した美しさに手が届く瞬間がいくつかあったようにも思えたし、美波(恒松祐里)が郁男を庇護者と選び続けるその理由が大きな子供としての郁男の感応にあったのは言うまでもないだろう。元SMAPの彼らを映画でさほど見かけているわけではないのだけれど、例えば『十三人の刺客』の稲垣吾郎や『中学生円山』の草なぎ剛など、ビジネスとして成熟とピュアネスの同居を矯正されてきた者が持つ彼岸の軽味はプロパーな俳優にはまとえない風情であって、正直に言ってしまえばこの映画は香取慎吾のそれだけをあてに撮られた気もしていて、やはりそれに近い武器を持つリリー・フランキーとのがっぷり四つがもたらす浮世離れの居心地の悪さとそのスリルは邦画の新しい風景であったようにも思えた。ところで、郁男の置き手紙なのだけれど、彼が書き出す時のクロースアップに見えるそれと書き終えた手紙の筆跡が異なっていて、やけに達者な筆跡の手紙に置き換えられてしまっているのが少しばかり興ざめに思えてしまった。書き出しの筆跡が香取慎吾本人のものかどうかはわからないにしろ、懸命にたどたどしいそれは郁男の書く文字としてとてもふさわしいように思えたのでなおさらそう思う。再生を謳ったその後で、傍目には凪いだ海の底にいつまでもある喪失の記憶を、それを忘れかけたワタシたちにいま一度焼き付けるエンドクレジットがこの映画の静かで毅然とした品格を告げている。
posted by orr_dg at 22:14 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする