2019年07月10日

COLD WAR あの歌、2つの心/向こう側からずっと

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オフィシャルサイト

国を棄てる約束をしたあの日あの時、なぜ君は現れなかったのかとヴィクトル(トマシュ・コット)に問われたズーラ(ヨアンナ・クーリグ)が、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」と答えた瞬間、COLD WARという言葉の予めが一度そこで散り散りとなり、これが前作『イーダ』のラストにおいて、世界が自分を騙し打ちしていたこと、しかしそれは自分の無知がそうさせたこと、そしてその無知を安寧とする世界に身をゆだねていたことへの自分と世界に対する怒りを胸に、かつて自分の家であった修道院へと荒ぶる歩を進めるイーダの修羅を受け継いで転生した女性の物語であることに気づかされたのである。政治と体制の中、屈託を飼い馴らす男ヴィクトルが屈託と怒りを隠そうとするどころかそれを燃やして生きるズーラから目を離せなくなるのは必定ともいえたし、それと同時にズーラにとってヴィクトルは個人性の敵が何かを知る本能の理解者にも思えたのだろう。そうやって互いの心臓に食い込ませた爪によって2人はだらだらと血を流し続け、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」というズーラの言葉は、今の私が流す血はあなたの流す血の量に追いついていないから、今その血をあてにしてしまうわけにはいかないのだという孤高の決意の向こうから発せられていたように思うのだ。その後、ポーランドとパリに別れた2人の生活は主にヴィクトルのそれを通して描かれて、時折の逢瀬が終るたび例えば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の暗転のように目を伏せた映画は次の逢瀬までの数年を一気に跳躍してしまうのだけれど、ヴィクトルに描かれる最低限の連続性に比べ、暗転を経て現れる時のズーラの変貌というか変容は次第に殺気すらをおびていく。しかし、舞踏団のスターであったかと思えば偽装結婚によってポーランドを脱出し、果ては目的の達成のために他人の妻となり母となりさえする暗転の間にズーラが過ごした変転が一切描かれることがないだけに、彼女が新たなズーラとしてヴィクトルの前に現れるためにいったい何を引き換えにしなければならなかったのか、そこに漂う痛切なメランコリーが2人を寄る辺のない時間の奥底へ閉じ込めていくのは確かながら、ワタシたちの知る幸福の形とは相容れるはずもない、絶望と背中合わせに絡み合う生の確認こそがヴィクトルとズーラにとっての愛の形であったように思うのだ。強制収容所に囚われたヴィクトルを救い出すため、官僚システム上位へのコネクションを持つ舞踏団の管理部長にして小役人カチマレク(ボリス・シィツ)と結婚し子供すらもうけたズーラが、ついに解放されたヴィクトルと会うシーンでは、子供を抱いたカチマレクの目もかまわず「好きよ」と声に出しながらヴィクトルに駆け寄って抱きしめてみせて、やがて迷いなくわが子すらを棄てることになるズーラとそれを気にもとめないヴィクトルは既にこの時点で人であることの存在を手放していたのだろう。その後ほとんど幽鬼と化した2人の道行きとその終着は、世界を相手に共闘したCOLD WARの、わけても世界から蹴り出されたズーラがその個人性を全うしたことの証であったようにも思えたのだ。『イーダ』では終始抑制されたカメラがついに昂ぶるイーダを追って歩を乱したのとは対照的に、ここではヴィクトルとズーラの間で揺れ続けたカメラがラストではまるで2人を鎮めるかのように凝視して、それまでずっと溢れていた音楽を静かにそよぐ風の中へとミュートしていく。『イーダ』と『ズーラ』はパヴリコフスキにとっての『大理石の男』および『鉄の男』であったようにも思えた。
posted by orr_dg at 17:45 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする