2019年07月25日

FUJI ROCK FESTIVAL '19 展望

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7.26 Fri
RED HOT CHILLI PIPERS
LUCKY TAPES
SHAME
KING GIZZARD & THE LIZARD
ORIGINAL LOVE
GARY CLARK JR.
JANELLE MONAE
SOUL FLOWER UNION
TORO Y MOI
THE WATERBOYS
TYCHO
THE LUMINEERS
THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES
BIGYUKI

7.27 Sat
蓮沼執太フィル
突然段ボール
キセル
JAY SOM
CAKE
CharxChabo
DYGL
MATADOR! SOUL SOUNDS
GEORGE PORTER JR & FRIENDS
AMERICAN FOOTBALL
SIA
DEATH CAB FOR CUTIE
GLEN MATLOCK AND THE TOUGH COOKIES featuring EARL SLICK

7.28 Sun
渋さ知らズオーケストラ
STELLA DONNELLY
BANDA BASSOTTI
勝井祐二 × U-zhaan
HIATUS KAIYOTE
INTERACTIVO
PHONY PPL
VAUDOU GAME
CHON
toe
VINCE STAPLES
THE CURE
JAMES BLAKE

今年のタイムテーブルはあからさまなステージかぶりがない分、往生際悪くあちこち走り回ることになりそうで痛し痒し。
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2019年07月23日

チャイルド・プレイ&ポラロイド/ラース・クレヴバーグはイイ男

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人形にチャッキーが宿る経緯を知らせるオープニングのシークエンスで、あれ今回はオカルトじゃないやと少し不思議に思ったのだけれど、このリブートでは弱者の立てた中指から始まった話がアンディ(ガブリエル・ベイトマン)の屈託に結びつくことで、イドの怪物としてのチャッキーが思いのほかダークサイド・オブ・トイ・ストーリーの語り口に説得力を与えることとなっている。オリジナルでのヴードゥーを最新のAIテクノロジーに置き換えるアイディアもスマートだし、リブートされたチャッキー(マーク・ハミル)のファーストショットにコレジャナイと一瞬たじろぐも、その後アンディの指示であれこれ行われる百面相を眺めるうちにコレジャナイフェイスにも半ば強引に馴染まされていくこととなるわけで、そうした気の利いた過不足のなさは、かつて80年代にはその過不足さゆえのささくれが刺さったりカーヴで滑ったりすることで忘れがたい時間を過ごしていたことを思うと、そうした浮世離れがスポイルされてしまうように思えたりもするのだけれど、それよりはそれらささくれやカーヴですらを自明としてデザインする洗練を愉しむポスト/ポストモダンホラーの現在にあってはその過不足のなさこそが愉悦となり得たりもするわけで、嫌味でもなんでもなくこちらもそれを欲する体になってしまっていることにあらためて思い至るような、期待に応え期待をを超えるリブートとなっていたのは間違いのないように思う。シェーン(デヴィッド・ルイス)殺害時の、子供の悪戯のような仕掛けとアタックをあえて過不足上等のチープで粗いカットのままつなぐことによって人形の片言なリズムが弾け出すシーンには、このジャンルへの監督の健やかな偏愛がみてとれてクラシカルな香りすら漂った気もしたのである。劇中のTV映画フッテージが『悪魔のいけにえ2』であったのも、趣味の良さに加えて自分が撮っている作品への正確で冷静な理解がうかがえてワタシは握手をしたくなった。といった風にことさら実存めいたトリッキーなショットや長回しには興味がなさそうに見えたラース・クレヴバーグ監督なのだけれど、高いところから落ちたり吊ったりが4回ほどありそれぞれに死んでしまったり重篤なダメージを負ったりして見せ場を作っていて、人形のサイズや動きにさほどダイナミズムが生まれないその分のバランスなのかなあと思っていたところが、


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続けて鑑賞した『ポラロイド』でもやはり天井裏からの宙吊りやら階段落ちやら首吊りやらが端々にしのばされていて、この監督には垂直性へのフェティシズムがあることなどうかがえてさらに信用が増した気もしたのである。出世作となったこちらでもやはりこの監督の過不足のなさがツイストの強度をじわじわと上げていて、どんでん返しと言うよりは気がついたら背後に回られていたような感覚を見抜いてフックアップしたプロデューサーの慧眼はさすがであったとしかいいようがない。疎外された者がそれゆえに邪を引き寄せてしまい、因果応報など踏みにじるように善人も悪人も等しく屠られていく腰の座った筆使いは、飛び道具に頼らないストーリーテラーとしての地肩の強さもうかがわせ、アンドレ・ウーヴレダルとはまた声音の異なるノルウェーのホラーマスターとの邂逅に、ラース・クレヴバーグという名前を即座に頭へと叩き込んだのだった。
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2019年07月21日

GIRL/ガール〜飛ぶのが重い

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映画が始まるとすでにヴィクトルはいなくなっていて、かつてヴィクトルだったララがいかにして自分の真の姿と向き合い、バレエを生き方と発見し、それらのすべてについて周囲の理解を勝ち取ってきたのかは一切描かれておらず、この家族における母親の不在についてすら知らされることもないまま、バレリーナへの夢と性別適合手術に向けて足どりも確かに歩き出したララの揺るぎのない眼差しに彼女がまだ15歳の少女であることを忘れてしまいそうになる。とはいえララを見守る人たちはその眼差しを信じるしかないのだけれど、父親マティアス(アリエ・ワルトアルテ)も担当医師もカウンセラーもバレエ学校のクラスメートも知ることのないララ(ヴィクトール・ポルスター)の姿を、ワタシたち観客だけは誰もいないバスルームや彼女の部屋でひとり在るララの時間を共有することを許され、というよりは求められ、そこでは彼女の男の子として裸身はともかく、前貼りで真っ赤にかぶれた下腹や寝起きの朝立ちまでも知らされることとなる。そうやって準備された監督の視点によって、みんなは私を外から見て今でも充分に素敵な女の子だ、ゴージャスだとほめそやすけれど、まっ平らな胸や朝立ちだってしてしまうペニスを見てもそう言えるのか、あなたは思春期を楽しみなさいと言うけれど、私がどうやってその入口に立てると思うのか、心の底では内面は外面が連れてくることをあなた方は疑いもしないくせになぜ私には内面を先に求めるのか、とララが誰にも告げることのない不安と苦悩と苛立ちをほとんど暴力的といっていい圧力で共に体感していくことを求められるのだ。それらララの混乱は、すべての感情を肉体のフォルムで表現するバレエの修羅へと本格的に足を踏み入れることで、肉体の変容というオブセッションをさらに加速していくこととなる。とは言え、もしもターンしていてバランスを崩したら肩を前に入れなさい、そうすれば止まるから、という教師のアドバイスにうかがえるバレエの即物的なメカニックからすれば、あんな風に下腹部をテープで固めていたら繊細なコントロールのノイズにならないわけがないことくらいワタシのような素人にも瞭然だし、バレエが求めてくる肉体の書き換えに応えねばならないという焦燥が底なしに焚きつけるトランスジェンダーとしての彷徨によって彼女はあの選択へと追い込まれていったことを思えば、向かいのアパートの一室で行われる男女の交情を、今の私は実際のところあのどちらなのだろうと物憂げに眺めるララが、自分にとってペニスがどれだけ「他人」であるかを確認するため同じアパートの少年に行うオーラルセックスのシーンは15歳の聡明が行き先知らずに暴走する切なさが窒息しそうなほどに溢れて、ここまでずっとララの秘密を逃げ場なくぶちまけられてきたワタシたちにしてみれば、ララのたどり着いた結論にしたところで、来るべきものが来たという覚悟をそっと引っ張り出すだけでよかったことにさほど驚きもしなかったのではなかろうか。それは冒頭のピアスとの円環という容易さすらも可能であったのだから。それよりもワタシは、(髪を)切ったララがワタシたちを正面から見据え颯爽と歩いてくるラストショットの、もうこれからはあなたたちに用はないと言わんばかりの笑顔が、それをにわかには受け入れがたい気がしてしまったのも確かなのである。ところでバレエはあなたの捧げ物に満足してくれたのかなと。15歳のトランスジェンダーの絶望など知ったことではなかったあのバレエが。それくらいこの物語はバレエに借りがあるように思うものだから。
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2019年07月17日

さらば愛しきアウトロー/サンダンス・キッドの冒険

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いつものようにひと仕事を終えて首尾は上々といった足どりで銀行を出てきたフォレスト・タッカー(ロバート・レッドフォード)の顔が、その次の瞬間にはどこかしら焦点の合わない昏さをその目に湛えてみせて、それはおそらく、追わせるために逃げ、逃げるために追わせる、その終わりのない繰り返しの中でしか安寧を得られない人が染まったオブセッションの色であることがだんだんと描かれていくことになる。仕事仲間とは言えテディ(ダニー・グローヴァー)やウォーラー(トム・ウェイツ)とタッカーが根本で異なるのは、タッカーには彼らのように人生のセンチメンタルにペシミスティックが沁みていない点で、永遠の繰り返しの中に生きるタッカーは囚われる過去をもたないことで失くしたものや捨て去ったものへの執着から自由でいられるのだけれど、それはすなわち様々な選択が生む責任とそれが促す成長を拒否することでもあるわけで、ジュエル(シシー・スペイセク)がタッカーに訝しげでありながら惹かれてしまうのは片っ端から枷を捨て去ったがゆえの彼の軽みが、どこかしら人生の浮力をつかんだ人の身のこなしにも映ったからなのだろう。してみるとそれは、ポール・ニューマンとの邂逅によってまるで自分の役割を定めたかのようにサニーサイドのリベラルを演じ続けてきたロバート・レッドフォードという役者がまとい続けたた善性の香りそのものだったようにも思えるわけで、同じ脱獄ものでも『暴力脱獄』と今作では依って立つところが天と地ほども違っていることにもそれは明らかだし、過去においてパトカーに追われるタッカーが駆っていたのが、そのラストで永遠へと溶けていった『断絶』でジェームズ・テイラーとデニス・ウィルソンが駆っていたシボレー150(タッカーのはセダンだったけれど)であった点で、どこへも行かないことを選んだタッカー=レッドフォードの微笑むような諦念があのシボレー150によってそよぐように晒されていたのではなかろうか。孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえてきたデヴィッド・ロウリーの描くアメリカは、サバービアからさらに遠くその日なたと草の匂いにはワイエスの光と影が宿りつつ、しかしそこに透けて見えるのは血の気の失せたエドワード・ホッパーのアメリカでもあるわけで、そうした両極が互いを憧憬することで生まれるメランコリーがこの映画の隅から隅までを埋め尽くすことで、何を撮っても撮るそばから「アメリカ映画」になってしまうその感情のデザインはまるで彼の敬愛するロバート・アルトマンのそれにも思えて、その「アメリカ」と「映画」を全問正解し続けた多幸感に酩酊しっぱなしだったのだ。このアメリカをワタシはずっと知ってきた。
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2019年07月14日

ゴールデン・リバー/明日に向かって磨け

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人殺しも夢想家も人殺しの走狗も横並びになって互いを見やる、あの一時あそこにあったのはウォーム(リズ・アーメッド)の唱えたユートピアの萌芽であったようにも思えたし、となればそれを台無しにしたチャーリー(ホアキン・フェニックス)の暴走は、ウォームがダラスに夢見たユートピアがいずれ塗れたにちがいない崩壊の予兆であったということになるのだろう。ラストでイーライを包む至福の満足感は、提督(ルトガー・ハウアー)が勝手に死んでくれたこと、チャーリーがもう銃を持つことがなくなったこと、メイフィールド(レベッカ・ルート)から奪ったあれやこれやで仕事を引退できそうなこと、そしてなにより母親だけがいる家に帰ってこられたこととこれからは毎日好きなだけ歯を磨いて暮らせること、それはすなわち、他人がよく言う自由という言葉の意味が生まれて初めてわかったということなのだろう。チャーリーが人殺しを嫌がるのは道徳とか倫理とかいうよりも、誰かを殺すとそいつの親父や兄弟や友達につけまわされてこんどはそいつを殺さなきゃならなくなってきりがないんだよ、という単純に自由が阻害されるからに過ぎないのだけれど、社会的な生き物としての成長は、実は思索の教育よりも実用性の解決によって促されるのかもしれないなと、白人と非白人、暴力と非暴力のクラスが交錯して生まれる真空に漂う彼らを見て思ったりもしたのである。即席のメンターとなるウォーム以外のモリス(ジェイク・ジレンホール)とシスターズ兄弟は、間接的/直接的な父殺しを果たしてきたつもりがいまだ父親の亡霊に苛まれ続ける子供たちで、アメリカ映画『マッドフィンガー』をリメイクした『真夜中のピアニスト』や『預言者』でそれぞれに父殺しを描いたオーディアールにとって、アメリカを外から覗いて見た時、父殺しの病的なオブセッションとそれが育てるマチズモこそがアメリカの呪いであり約束であることをあらためて発見せずにはいられなかったのだろう。ここでは提督の死が父親の完全で正式な死を象徴していたのは、棺の中の提督にイーライがせずにはいられなかったある行為に明らかであったように思うのである。新しい人としてオーディアールが最後に選んだのがウォームではなくイーライであったのが、まるでアメリカに対して非アメリカ人がしのばせるすべての愛憎を代弁したかのようでもあって、こんな風にそっと抱きしめたくなるような柔らかくて傷みやすい西部劇がいまだ出番を待っていたことに何だか呆気にとられてしまった。世界を更新するのは銃弾ではなく歯磨きや水洗トイレなのだ。
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2019年07月11日

凪待ち/新しいきず

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冒頭でカメラが川崎競輪場の建物をとらえた瞬間、ショットが平衡を失したようにぐらっと傾いて何だこれ?と奇妙に思っていたら、その後で木野本郁男(香取慎吾)の胸の内にギャンブルの魔が差す瞬間になると、彼をとらえたショットがやはり同じようにぐらっと傾くわけで、その失した平衡が石巻の海の水平と対照して描かれることによって、かつて傾いていた者と今なお傾き続ける者がひとたびの水平=凪を求めて交錯していく姿の喪失と再生を、それを香取慎吾の置かれた実人生に重ねるなら重ねてみればいいという、開き直りと言うよりは一種瑞々しくすらあるふてぶてしさで監督は描いていく。どれだけ血と泥にまみれようと性根のところが汚れていない郁男を、日本の湿り気ではなかなか染まらないデカダンスの色で描く目論見を白石監督は香取慎吾から得たのではなかったか。罠にかかった野生動物が血を流しながら暴れる姿の倒錯した美しさに手が届く瞬間がいくつかあったようにも思えたし、美波(恒松祐里)が郁男を庇護者と選び続けるその理由が大きな子供としての郁男の感応にあったのは言うまでもないだろう。元SMAPの彼らを映画でさほど見かけているわけではないのだけれど、例えば『十三人の刺客』の稲垣吾郎や『中学生円山』の草なぎ剛など、ビジネスとして成熟とピュアネスの同居を矯正されてきた者が持つ彼岸の軽味はプロパーな俳優にはまとえない風情であって、正直に言ってしまえばこの映画は香取慎吾のそれだけをあてに撮られた気もしていて、やはりそれに近い武器を持つリリー・フランキーとのがっぷり四つがもたらす浮世離れの居心地の悪さとそのスリルは邦画の新しい風景であったようにも思えた。ところで、郁男の置き手紙なのだけれど、彼が書き出す時のクロースアップに見えるそれと書き終えた手紙の筆跡が異なっていて、やけに達者な筆跡の手紙に置き換えられてしまっているのが少しばかり興ざめに思えてしまった。書き出しの筆跡が香取慎吾本人のものかどうかはわからないにしろ、懸命にたどたどしいそれは郁男の書く文字としてとてもふさわしいように思えたのでなおさらそう思う。再生を謳ったその後で、傍目には凪いだ海の底にいつまでもある喪失の記憶を、それを忘れかけたワタシたちにいま一度焼き付けるエンドクレジットがこの映画の静かで毅然とした品格を告げている。
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2019年07月10日

COLD WAR あの歌、2つの心/向こう側からずっと

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国を棄てる約束をしたあの日あの時、なぜ君は現れなかったのかとヴィクトル(トマシュ・コット)に問われたズーラ(ヨアンナ・クーリグ)が、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」と答えた瞬間、COLD WARという言葉の予めが一度そこで散り散りとなり、これが前作『イーダ』のラストにおいて、世界が自分を騙し打ちしていたこと、しかしそれは自分の無知がそうさせたこと、そしてその無知を安寧とする世界に身をゆだねていたことへの自分と世界に対する怒りを胸に、かつて自分の家であった修道院へと荒ぶる歩を進めるイーダの修羅を受け継いで転生した女性の物語であることに気づかされたのである。政治と体制の中、屈託を飼い馴らす男ヴィクトルが屈託と怒りを隠そうとするどころかそれを燃やして生きるズーラから目を離せなくなるのは必定ともいえたし、それと同時にズーラにとってヴィクトルは個人性の敵が何かを知る本能の理解者にも思えたのだろう。そうやって互いの心臓に食い込ませた爪によって2人はだらだらと血を流し続け、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」というズーラの言葉は、今の私が流す血はあなたの流す血の量に追いついていないから、今その血をあてにしてしまうわけにはいかないのだという孤高の決意の向こうから発せられていたように思うのだ。その後、ポーランドとパリに別れた2人の生活は主にヴィクトルのそれを通して描かれて、時折の逢瀬が終るたび例えば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の暗転のように目を伏せた映画は次の逢瀬までの数年を一気に跳躍してしまうのだけれど、ヴィクトルに描かれる最低限の連続性に比べ、暗転を経て現れる時のズーラの変貌というか変容は次第に殺気すらをおびていく。しかし、舞踏団のスターであったかと思えば偽装結婚によってポーランドを脱出し、果ては目的の達成のために他人の妻となり母となりさえする暗転の間にズーラが過ごした変転が一切描かれることがないだけに、彼女が新たなズーラとしてヴィクトルの前に現れるためにいったい何を引き換えにしなければならなかったのか、そこに漂う痛切なメランコリーが2人を寄る辺のない時間の奥底へ閉じ込めていくのは確かながら、ワタシたちの知る幸福の形とは相容れるはずもない、絶望と背中合わせに絡み合う生の確認こそがヴィクトルとズーラにとっての愛の形であったように思うのだ。強制収容所に囚われたヴィクトルを救い出すため、官僚システム上位へのコネクションを持つ舞踏団の管理部長にして小役人カチマレク(ボリス・シィツ)と結婚し子供すらもうけたズーラが、ついに解放されたヴィクトルと会うシーンでは、子供を抱いたカチマレクの目もかまわず「好きよ」と声に出しながらヴィクトルに駆け寄って抱きしめてみせて、やがて迷いなくわが子すらを棄てることになるズーラとそれを気にもとめないヴィクトルは既にこの時点で人であることの存在を手放していたのだろう。その後ほとんど幽鬼と化した2人の道行きとその終着は、世界を相手に共闘したCOLD WARの、わけても世界から蹴り出されたズーラがその個人性を全うしたことの証であったようにも思えたのだ。『イーダ』では終始抑制されたカメラがついに昂ぶるイーダを追って歩を乱したのとは対照的に、ここではヴィクトルとズーラの間で揺れ続けたカメラがラストではまるで2人を鎮めるかのように凝視して、それまでずっと溢れていた音楽を静かにそよぐ風の中へとミュートしていく。『イーダ』と『ズーラ』はパヴリコフスキにとっての『大理石の男』および『鉄の男』であったようにも思えた。
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2019年07月05日

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム/青春の光と糸

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『ホームカミング』で揃いのTシャツを着たクラブの面々の中、ひとり白けた顔つきでMJ(ゼンデイヤ)が読んでいたのがモームのビルドゥングスロマン「人間の絆」であったことを思い出してみれば、今作の終着点がロンドンであったことはすでに予告されていたような気もするのである。モームは人生の意味を問う主人公に、ペルシャ絨毯にその答えがあると告げてみせていて、言ってみればこれはピーター・パーカー(トム・ホランド)がその答えを手にするまでの物語ということになるのだけれど、自分は何者なのか、ヒーローなのか、ヒーローになりたいだけの少年なのか、そもそもヒーローとはなんなのか、という青い魂の彷徨を、かつて『コップ・カー』で泣きべそでは解決しない世界のことわりを時速100マイルで超えていく少年の意地と涙を燃やしたジョン・ワッツが、『ホームカミング』ですらが前奏であったかのようなパワーコードでぶち抜いていく。『スパイダーバース』におけるディケンズの「大いなる遺産」やMCUスパイダーマンにおけるモームの参照が、互いに計算されたデザインであったのかシンクロニシティであったのか、いずれにせよ語り手たちはこれらユニヴァースが現代の長編小説として、観客、特にティーンエージャーのピーター・パーカー世代の人生とその世界を照らす灯りとして機能することを望み、その責任を正面から引き受けていたように思うのである。今作においてスパイダーマン=ピーター・パーカーは、大人にならなければ正しい道を知ることはできないという、大人たちがかけた呪いを解くためにヒーローであることを受け入れるわけで、そうやって父殺しという通過儀礼をもはや必要としない水平な世代の風通しと見晴らしを新たなMCUのフェーズとして宣言してみせたのではなかろうか。いまだトニー・スタークに囚われた日々のアイアンスパイダー・スーツから、闇の中でさまよう漆黒のナイトモンキー・スーツを経て、泣きながら目を醒ましたピーターが最後に選んだスーツの鮮やかな赤と青のコントラストこそが、アイアンマンとキャプテン・アメリカの遺志を受け継いだそのサインであったことは言うまでもないだろう。そしてそのご褒美はと言えばまるでジョン・ヒューズなスパークリング・キスなのだった。シュワッ!てね。
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2019年07月01日

X-MEN : ダーク・フェニックス/気ままな神の作りし子ら

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これまで幾度となく目にしてきた、話が口ごもった時のジーン・グレイ頼みを思い出してみさえすれば、その彼女を主役に据えた時点でとっくに口ごもってしまっていることがうかがえたし、ではいったい何をそんなに口ごもってしまっているのかと思えば、それはおそらくチャールズの鬱陶しさって金八先生に通じるところがあるよねといううんざりと投げやりだった気もするわけで、劇中で8歳のジーン・グレイと出会った時のチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)に被せられた中途半端なロン毛カツラといなたいジャケットがかつての武田鉄矢のようであったのはただの偶然というわけでもないだろう。そしてこのチャールズこそがブライアン・シンガーその人であったことを忘れずにいてみれば、倦怠と猥雑とタナトスゆえの生命力を発揮することで一瞬息を吹き返した『ファースト・ジェネレーション』でそれを牽引した不埒なセックスマシーンとしてのエリック(マイケル・ファスベンダー)を『フューチャー&パスト』『アポカリプス』と徹底して追い込むことで、非現実の王国版「3年B組金八先生」(以前は「ビバリーヒルズ青春白書」かと思っていたけれど)に心血を注いだブライアン・シンガーの功“罪”が浮かび上がってくるわけで、今作で目にする去勢されたエリックの無様はその最たるものであった気もするのである。スケバン(ジェシカ・チャスティン)にそそのかされる問題児ジーンに捨て身で向き合うチャールズの人生訓話にコロッと改心するクライマックスの昭和感は、丸腰で火中の栗を拾わざるをえなかったサイモン・キンバーグがどのみち溺れてしまうとはいえ溺れる寸前につかんだ藁であったのだろうし、歴史と併走するコンセプトなどという難題を背負わされたことで、X-ジェットで宇宙に行けるテクノロジーを所有しながらスペースシャトル計画を生温かく見守るチャールズたちのいけすかなさを回避することもかなわなかった不幸も推して知るべしということになる。結局はX-MEN迫害と内ゲバの歴史をブライアン・シンガーのルサンチマンがのっとってしまったことで、ブライアン・シンガーのコンディションがそのまま映画のクオリティを左右してしまう不幸が最後までこのサーガにまとわりついて離れなかったように思うのである。まるで、ハリウッドから葬られ消えていくブライアン・シンガーの怨念がX-MENを道連れにしたかのようで、彼にとっては有終の美であったと言えるにしろである。
posted by orr_dg at 12:23 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする