2019年06月18日

旅のおわり世界のはじまり/前田敦子は白い山羊の夢を見るか?

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オフィシャルサイト

バイクの後部シートから降りた葉子(前田敦子)が脱兎のごとく走り出すその後ろ姿に、『岸辺の旅』で車道を斜めに横断し猛然と走り去っていく深津絵里の背中が一瞬重なり、深津絵里のそれが生者のなしうる運動そのものであったのに対し、この葉子は道路を横断するたびにようやく少しずつ“人間めいて”くることになるわけで、したがって彼女のそれは渡って往くのではなく渡って来つづけていると考えるべきなのだろう。それくらい葉子の情動からは“情”が隠されたまま、いかなる場所でいかなる時であってもその輪郭が1ミリたりとも世界に滲んでいくことはなく、その相容れなさの異質はまるで違う星から迷い込んできたエイリアンのようで、異郷の地にさすらうその足取りにはどこかしら『地球に落ちて来た男』の漂泊が浮かんでくる気もしたのである。ワタシは前田敦子と言う人の出自と名前を知っているだけで、数本の映画で観た以外は何をどんな風に活動してきた人なのかまったく知らないのだけれど、『もらとりあむタマ子』を成立させていた“主演女優が力学の中心力を放棄してしまうことで生まれる終始の凪”がここでは鬱屈する真空を掴まえ始めていて、今回の黒沢清はその移動する真空のフォルムをいかに乱すことなく追い続けるか、その一点に注力するためには他の運動の一切を手放してもかまわないと腹をくくっていたようにすら思えたのだ。人前ではかろうじて人間のように動いていたエイリアンとしての葉子が、誰もいないホテルの部屋に戻るなり擬態を解いたかのようにぐんにゃりと崩れ落ち、劇中でただひとり葉子だけが持つことを許されたスマホを叩きまくってはLINEと繋がる姿は遠く離れた故郷の星の同胞と通信するExtra-Terrestrialとしか映らないわけで、こんにちは、ありがとう、という最低限のウズベク語を覚える素振りもなく、にもかかわらずまるで覚えたてのようなヒューマニズムで山羊の生命を測る皮相や、警察官の至極まっとうな説諭にもただ叱られたという感情のスイッチで流す子供の涙などなど終始ヒトガタとしての葉子であったからこそ、ラストでたどり着いたワタシたちは最終的に独りなのだ、愛はそれを知った者にのみ許されるのだという地上の人間のコアを認識することで葉子はついにニンゲンになったようにワタシには見えた。人間ではないものが限りなく人間のように動きながらそこに感情の湿度はない、黒沢監督が前田敦子に見ているのはそうした叙事の極北なのではなかろうか。拷問のような遊具で葉子をなぶり続けるシーンに隠さない監督の絶対零度の欲望が痛快でワタシは声を出して笑ってしまった
posted by orr_dg at 22:09 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする