2019年06月05日

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ/私は如何にして心配するのを止めてゴジラを愛するようになったか

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ついにピアノ線のくびきから自由になった怪獣たちが空を狭しと翔びまわる中、人間たちは前作にも増してはりぼてのドラマを繰り広げ、しかしそのことに関しては、ギャレスですらが怪獣と人間のW主演を処理しきれなかった反省というか開き直りの上で行われたことなのは言うまでもなく、人類が滅亡するわけでありません、私たちはもう一度怪獣たちと一緒に出直すのですとサノスのごとくまくしたてるエマ(ヴェラ・ファーミガ)に対し、字幕では「狂ってるわ」ながらあきらかに”That Bitch”か”Damn Bitch”、要するに「くそ女」と吐き棄てたチェン博士(チャン・ツィイー)の冷たい横顔にゾクッとさせられただけでワタシは十分な気もしたのである。前作でも顕著だった平成ガメラが取り込んだガイア理論の援用は言うに及ばず、G3でガメラを追い詰めたコラテラル・ダメージを暴走するエマのエンジンにしつらえたあたり、平成ガメラシリーズの世界観が怪獣の物質化という命題においていかに有効かつ魅力的であったか今更ながら実証された気がして、誰に対してかは知らぬまま何だかざまあみろという気分すらが蘇ってしまっている。人間サイドのストーリーとしてはエマと芹沢博士(渡辺謙)のマッドサイエンティスト一騎打ちが望ましかったところが、補助線としての真人間を書き入れておかなければ不安でしかたなかったのか、マーク・ラッセル(カイル・チャンドラー)を同じことを二度言わせるための存在として投入したことで、ほとんどの停滞は彼が引き起こしてしまっているという損な役回りを背負わされてしまったのは同情の余地があるにしろ、前回のブライアン・クランストンのように彼を退場させることでエマの変節を促してもよかったのではないかと思うくらいには彼の重心は最後まで希薄なままだし、中心にそうした人間が一人いると感情の移動が軽く安く思えてしまうのも当然で、その点についてはやはりエラーというしかないだろう。怪獣たちがこの世をひたすら破壊しまくる総進撃の時間において監督の妄想と幻視が縦横無尽に炸裂している様を目撃することで、それら吹けば飛ぶような人間ドラマも含めた上での昭和ゴジラへの妄執と憧憬であったのだろうと考えてみれば、それはそれで見事であったとしか言いようがないにしろである。ワタシたちは「怪獣」と呼んでいるけれど、劇中での呼称が”Titan”であることを考えればある程度の擬人化はやむを得ないにしろ、最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える。ラドンはまるで『仁義なき戦い』の田中邦衛のようであったよ。
posted by orr_dg at 00:15 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする