2019年06月28日

海獣の子供/血も涙も水

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動かないものが動き出す、目の前のこれがワタシがそう願うアニメーションだなあと、五十嵐大介の画が、境界のあわいで揺らぐ線のふるえもそのままに、そして初めて見るはずのその色が、ああ確かにこんな色だった、でもこんなに見たことのない色だったとは今の今まで知らなかったとばかり、無いはずの記憶を片っ端から塗りつぶしていくわけで、ああ日本でもアレが解禁されていればソレを胸いっぱいに吸いこみながらいったいどんな風に翔んで潜っていけたのかと、まだ見ぬサイケデリアに想いを馳せては眼前のトリップに身も心も委ねてみたのだ。元々、画が自らを解き放つために物語を必要としたのが五十嵐大介であるから、この映画にメッセージを探すこと自体が没入(黒丸尚風にルビはジャック・イン)のノイズになることはあらかじめ承知しておくべきで、そうした意味で琉花をナヴィゲーターに据えたのは精神の合理化を目指した脚色だったように思うし、彼女に忠誠を誓うことでワタシたちは物語の奴隷になることなく、個人的で替えの効かないワンオフの体験を手に入れて持ち帰ることが許されたように思うのだ。狂騒の後、原作では「夏休みの始めに出会った人たちは、秋風の吹く頃にはみんないなくなっていた」という琉花の虚無がモノローグで記されるのだけれど、映画では13番との邂逅による円環が琉花の損なわれなかった帰還を描くことで、うっすらとあった喪失と再生、死と誕生の外枠が琉花の成長譚に置き換えられていて、それから後の加奈子の出産シーンとの繋がりがいささか希薄になった気がしないでもないにしろ、壮絶なインナートリップの酩酊を醒まして少しは人心地をつかせて観客を帰すことを配慮したのだろう。何はともあれ、原作ではたった1カット、光と思しき筋だけが描かれた空の「離陸」シーンにあの速度を決定した勇気と想像力をワタシは尊敬する。
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2019年06月26日

ジョナサン−ふたつの顔の男−/おれに関するおまえの噂

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※展開にふれています。
あらすじだけ読むと最近のアンドリュー・二コルのようなチャラさが香るけれど、同じアンドリュー・二コルでも『ガタカ』に近い抑制の効いた好篇。

脳内に埋め込んだタイマーによって12時間ごとに人格を切り替えることで多重人格をコントロールする、という一歩間違えば着地で激突する設定のアクロバットを、そのテクノロジーの背景をSFとすることで自明とする語り口のミニマルで静謐なトーンも含め、いつしか沁み始めるその透明なメランコリーに『アナザー・プラネット』を思い浮かべたりもした。ジョナサン(アンセル・エルゴート)とジョン(アンセル・エルゴート)という2つの人格のそれぞれが過ごした12時間の出来事をビデオメッセージにして毎日互いに伝え合うことにより、自分の別人格と12時間越しの会話を行うアイディアが秀逸で、自分の人格が眠りにつく12時間の間は肉体すなわち生命を相手に委ねざるを得ない緊張と不穏が無言の抑止力となり、擬似的な一卵性双生児ともいえる関係が生み出す血の気の失せたサスペンスはエレナ(スキ・ウォーターハウス)という一人の女性の登場によってそのバランスが崩れ始め、どこかしら『戦慄の絆』めいた奇形のトライアングルをうかがわせるのだけれど、最終的にジョナサンとジョンが選択するのはこの物語のこの設定であればこその決断で、光と闇の出会う場所に灯される黎明と薄暮の明かりが同時に照らしたようなラストは、闇しか知らずに生きてきた者が初めて光の中に足を踏み出すというその一点において彼らの考えた最良のハッピーエンドであったということになるのだろう。ラストのシークエンスは、たとえばアルジャーノン的なメロウの情動も概ね可能ではあったにしろ、監督はそれまで狂わせることのなかった正確な歩幅と息継ぎを最期まで貫いていて、非常にケレンの効いた、というか効かせすぎた設定でありながらそのケレンに身を任せることをしないストイックな語り口を維持することで非現実のリアルの強度を高めていて、その辺りを文体のダンディズムとして内部に蓄えての長篇デビューなのだとしたらこのビル・オリヴァーという監督の幻視はかなり信頼できるように思うのだ。髪型ひとつで光と影を演じ分けるアンセル・エルゴートのヴィヴィッドで神経症的なまなざしを見るにつけ、彼はどちらかというと引き出されると繰り出すタイプであることを感じて、その点に無自覚なままタイプキャスト的なフィルモグラフィーに埋没してしまう一抹の不安を感じたりもした。
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2019年06月23日

ハウス・ジャック・ビルト/ジャックはジャッキを持っていない

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自身のミソジニー的な振る舞いが、底知れぬ未知を抱える存在としての女性に対する恐怖心に因っていることを分析し、『アンチクライスト』からこちら、自らをシャルロット・ゲンズブールに仮託することでそうしたオブセッションを鎮めるべく画策し、彼女に「人間の特性なんてたったの一言で言い切れるわ、それは“偽善”よ」と叫ばせたことで憑きものでも落ちたのか、「なんでいつだって男が悪いんだ?女はいつも犠牲者で男はいつだって犯罪者なんだ」とぼやくジャック(マット・ディロン)に「でも君の話からすると君に殺される女性たちはみな馬鹿に思えて仕方ないんだが、そうやって彼女たちに優位に振る舞うことで君は昂奮してるんだろう?」とヴァージ(ブルーノ・ガンツ)がまぜっ返せば「いやいや女性たちの方が概して殺されることに協力的なんだよ」と真顔ですっとぼけさえしてみせるのである。それもこれもすべては神聖なる芸術に殉じるためで、その証として俺は完璧な一軒の家を建てねばならないのだとうそぶきつつ、次第に家のことなど忘れていくジャックは俺が現れ殺す処すなわち芸術なりとマニフェストを書き換え始め、そのスラップスティックで引き攣った道行きは今さら言うまでもないにしろコメディに相違ないわけである。そしてそれは計算されたコメディというよりは現在のトリアーが抱える躁病的な病質そのものといった方がふさわしいようには思うのだけれど、ジャックの語る物語に書き込まれる赤いヴァン、赤いジャッキ、赤いキャリーケース、赤い電話、赤いキャップ、赤いローブを血の徴にメメント・モリとするのはあまりにも楽をし過ぎではないかと躁病の目の粗さをいぶかしんでいたところが、その赤が意味するところは果たして何だったのか、それが明かされるラストの、諸君、安心したまえ、言うまでもなく俺は地獄に堕ちる人間で俺もそれをよく分かっているよというトリアーの最後っ屁とも言える開き直りがほんの一瞬とはいえ清々しくさえあったし、それについては、確かに不埒な殺人と死体にあふれた懺悔であったとはいえ、トリアーに通低するセックスも死も肉体のある状態にすぎないというフェティシズムの無縁も手伝っていたように思うわけで、その特殊な乾き方もあってか露悪が沁み込んでくる嫌悪感は巷間ささやかれるほどではなかったようにワタシは感じたのだ。それは第3の件での例のあれこれにも同様で、そこに至る道程からすれば彼らが赤いキャップをかぶった時点でそれは予期されたし、彼らにしたところがジャックにとってはワンオブゼムに過ぎないというある種の公平さがワタシにとっては生理的な嫌悪感を抑え込んでいたわけで、では先だっての『ハロウィン』のように直截的な描写さえなければ行為そのものの禁忌は免れるのかといささか口を尖らせてみたりもするのである。ちなみに母親へのとどめの一撃は弾着のタイミングがほんの微細ながら早すぎはしなかったかと、ワタシはそんな風に観ている観客ではある。かと思えば第2の件では絞殺された死体に添えられるのが失禁(『アメリカン・アニマルズ』のような)ではなく目尻から流れる一筋の涙であったりもするわけで、狂人には狂人なりのわきまえがそこにはあることを描いてはいたように思うのだ。おそらくは自他が認知する病質を抱えたままトリアーは可能な限りの社会性を総動員して映画を仕上げているのだろうことを思ってみた時、ある側からしてみればどの口がそれを言う?とでもいう「愛もまた芸術なのだ」「愛がなければそれを芸術とは言わない」などの言葉をトリアーが心の底から信じていることがうかがえたりもするし、トリアーが自身を生かしている理由がグレン・グールドのピアノでありリチャード・ククリンスキーの人生であり、デヴィッド・ボウイのプラスティックソウルであるとするならば、何のことはないワタシも彼と変わりがない人間ではないか。観ていると何だか笑えて仕方がないのは、鏡に映った自分への照れ隠しであったに違いない。
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2019年06月18日

旅のおわり世界のはじまり/前田敦子は白い山羊の夢を見るか?

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バイクの後部シートから降りた葉子(前田敦子)が脱兎のごとく走り出すその後ろ姿に、『岸辺の旅』で車道を斜めに横断し猛然と走り去っていく深津絵里の背中が一瞬重なり、深津絵里のそれが生者のなしうる運動そのものであったのに対し、この葉子は道路を横断するたびにようやく少しずつ“人間めいて”くることになるわけで、したがって彼女のそれは渡って往くのではなく渡って来つづけていると考えるべきなのだろう。それくらい葉子の情動からは“情”が隠されたまま、いかなる場所でいかなる時であってもその輪郭が1ミリたりとも世界に滲んでいくことはなく、その相容れなさの異質はまるで違う星から迷い込んできたエイリアンのようで、異郷の地にさすらうその足取りにはどこかしら『地球に落ちて来た男』の漂泊が浮かんでくる気もしたのである。ワタシは前田敦子と言う人の出自と名前を知っているだけで、数本の映画で観た以外は何をどんな風に活動してきた人なのかまったく知らないのだけれど、『もらとりあむタマ子』を成立させていた“主演女優が力学の中心力を放棄してしまうことで生まれる終始の凪”がここでは鬱屈する真空を掴まえ始めていて、今回の黒沢清はその移動する真空のフォルムをいかに乱すことなく追い続けるか、その一点に注力するためには他の運動の一切を手放してもかまわないと腹をくくっていたようにすら思えたのだ。人前ではかろうじて人間のように動いていたエイリアンとしての葉子が、誰もいないホテルの部屋に戻るなり擬態を解いたかのようにぐんにゃりと崩れ落ち、劇中でただひとり葉子だけが持つことを許されたスマホを叩きまくってはLINEと繋がる姿は遠く離れた故郷の星の同胞と通信するExtra-Terrestrialとしか映らないわけで、こんにちは、ありがとう、という最低限のウズベク語を覚える素振りもなく、にもかかわらずまるで覚えたてのようなヒューマニズムで山羊の生命を測る皮相や、警察官の至極まっとうな説諭にもただ叱られたという感情のスイッチで流す子供の涙などなど終始ヒトガタとしての葉子であったからこそ、ラストでたどり着いたワタシたちは最終的に独りなのだ、愛はそれを知った者にのみ許されるのだという地上の人間のコアを認識することで葉子はついにニンゲンになったようにワタシには見えた。人間ではないものが限りなく人間のように動きながらそこに感情の湿度はない、黒沢監督が前田敦子に見ているのはそうした叙事の極北なのではなかろうか。拷問のような遊具で葉子をなぶり続けるシーンに隠さない監督の絶対零度の欲望が痛快でワタシは声を出して笑ってしまった
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2019年06月14日

スノー・ロワイヤル/その血で俺を温めろ

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沈痛な面持ちで死体安置所に立ち尽くすネルソン・コックスマン(リーアム・ニーソン)や刑事たちの前で、いちばん下のチェンバーに収容されていた息子の遺体は、おそらくは検死官がペダルか何かを踏んでいるのであろうキコキコキコキコという素っ頓狂な音を響かせながら、葬式でクスクス笑いをこらえきれない子供のいたずらのようにゆっくりゆっくりとカメラのフレームの中へせりあがってくるのである。普通に考えれば、カメラがとらえやすい真ん中のチェンバーから引き出された遺体の顔に息子を確認してネルソンが悄然とするただそれだけのシーンを、これから始まるネルソン・コックスマンの物語は澄ました諧謔とうすら笑いの悪意、あふれる緊張と垂れ流される緩和をスパイスで味付けしてお出ししますという粋な能書きに仕立て上げた監督のセンスに、ああもう今日はおまかせでお願いしますという気分だったのである。雪の中、真顔で走り回る悪党たちが家に帰るかのように淡々としかし奇天烈に死んでいく白昼夢はどこかしら『ファーゴ』の痙攣するオフビートに通じる気もしたし、死がジョークでしかない世界にあってはもはや駄話以外する気はないねというある種のダンディズムを遂行するために、ならば駄話の通じないキャラクターは邪魔ものでしかないとばかり妻グレース(ローラ・ダーン)ですらをあっさり途中退場させては、ネルソンにしたところでそれをことさら気に病む素ぶりも見せることもなく、そうやって良心の呵責や不謹慎とかいった浮世のくびきから解き放たれた男たちは鉛玉を使った雪合戦に真顔で興じ始め、ネルソンの復讐劇もまたその風景の一部でしかない、いい大人たちのよくない生態が慈しむようなペーソスで描かれていくわけで、それらのすべてがくだらないとばかり出ていったグレースだけが真人間だったということになるのだろう。それはすなわち、真人間の中の真人間として表彰すらされたネルソンの反乱であったともいえるわけで、これを一人の男が自身のミッドライフクライシスを打破する物語として捉えてみた時、ラストに吹く風の優しさが少しだけ身に沁みるようにも思ったのだ。監督の提示する抑制された含み笑いの意味を理解した役者たちはみなそれを心地よさそうに演じてさわやかですらあるのだけれど、なかでもネルソンの兄ブロックを演じたウィリアム・フォーサイスのアメリカン・ノワールそのものとしかいいようのないまなざしや佇まいが相変わらず絶品で、まるで、結局は割に合わない死に方をするエルロイ作品の準主役がページから転がり出てきたようだし、そんな風にして彼がいつの日かマイケル・マドセンの手にかかって惨殺される瞬間をワタシは夢見て止まないのである。
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2019年06月11日

誰もがそれを知っている/血は争える

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戸口に立った聡明で美しい妻ベア(バルバラ・レニー)と、彼女の向こうに広がって見える緑の農園を見やるパコ(ハビエル・バルデム)を捉えたショットは、やがて彼が失うことになるそれらへの予感めいた郷愁であったのか、彼もまたファルハーディ作品の主人公が引き裂かれてきた“永遠の最悪”と“最悪の最後”の選択を迫られることになるのだけれど、その選択の果てにベッドにひとり横たわったパコがうっすらと浮かべる笑みは、それによってすべてを失い周囲を不幸にしたとしても彼の中には小さく光る幸せが灯ったことを告げていて、そんな風に世界と刺し違えながらも救いを手に入れた人間がこれまでファルハーディの作品に見当たらなかったことを思って見る時、犯人の正体を知ったあの2人がその秘密にどう向き合うのか、“永遠の最悪”として胸の内にとどめるか“最悪の最後”として断罪してみせるのかファルハーディとしかいいようのないラストへとやや強引に舵は切られ、それが新たな“Everybody Knows(原題)”という呪いとなってあの一族を苛むだろうことを予感させるて幕は閉じられる。『別離』以降、実存の不安を夫婦という血の繋がらない「家族」の闘争と決壊で描いてきたファルハーディが、ここでは夫婦という縦糸に血族という横糸を織り込むことで「家族」というさらなる地獄を彫り込むことに挑んでいて、完全な非イラン圏の物語としてスペインのある田舎の一族を舞台にしたのもいっそうの普遍性を求めてのことだったのだろう。群像劇のアンサンブルを紡ぐ手さばきは既に『彼女が消えた浜辺』でその手管を見せつけてはいたものの、これまで測ってきた孤島のような都市生活者の距離感を手放して懐にもぐりこむ土着のステップを、しかも異国の風土で獲得するのはさすがにファルハーディと言えどもいささか荷が重かったのではなかろうか。ラウラ(ペネロペ・クルス)の義兄の知人で事件が起きるまでは家族と縁もゆかりもなかった元警官ホルヘ(ホセ・アンヘル・エヒド)の突然の介入によって絞り出すサスペンスには正直言って苦戦の跡がうかがえたし、血縁の外部で行われる地主と小作人の階級闘争的な斬りつけも縦糸と横糸に絡まったまま不発に終わってしまっていたように思うのだ。そしてこれは言っても詮無いことなのだけれど、これまでは普段知ることのないイランの俳優たちが演じることで成立していた匿名性ゆえのいつ誰からどんな刃(やいば)が飛び出すかわからない緊張感に比べると、ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムというよく知った俳優たちが備える刃の切れ味や美しさが良くも悪くも調和の内にあることで、こちらが感情のありかを先回りしてしまうのも、本来ならば精緻で微細に描かれていく波紋が意図通りに広がっていかない一因となっていたようにも思ってしまう。しかし、人間の孤独と絆が絡まり合う「家族」という天国と地獄の間を、まるで山田太一の志を継ぐかのように描き続けるファルハーディにとって今作はあくまで習作にすぎず、その歪さはあらかじめ織り込み済みであったようにも映るわけで、なかでも救済の底に触れて戻ってくるパコの姿は今後の新基軸となるようにも思っている。劇中ではある仕掛けとして公然と用いられはするものの、ドローン撮影によって手に入れた鳥の目の誘惑からはファルハーディですら逃れられなかったのだなあと、らしくない浮力を感じたりもした。
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2019年06月05日

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ/私は如何にして心配するのを止めてゴジラを愛するようになったか

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ついにピアノ線のくびきから自由になった怪獣たちが空を狭しと翔びまわる中、人間たちは前作にも増してはりぼてのドラマを繰り広げ、しかしそのことに関しては、ギャレスですらが怪獣と人間のW主演を処理しきれなかった反省というか開き直りの上で行われたことなのは言うまでもなく、人類が滅亡するわけでありません、私たちはもう一度怪獣たちと一緒に出直すのですとサノスのごとくまくしたてるエマ(ヴェラ・ファーミガ)に対し、字幕では「狂ってるわ」ながらあきらかに”That Bitch”か”Damn Bitch”、要するに「くそ女」と吐き棄てたチェン博士(チャン・ツィイー)の冷たい横顔にゾクッとさせられただけでワタシは十分な気もしたのである。前作でも顕著だった平成ガメラが取り込んだガイア理論の援用は言うに及ばず、G3でガメラを追い詰めたコラテラル・ダメージを暴走するエマのエンジンにしつらえたあたり、平成ガメラシリーズの世界観が怪獣の物質化という命題においていかに有効かつ魅力的であったか今更ながら実証された気がして、誰に対してかは知らぬまま何だかざまあみろという気分すらが蘇ってしまっている。人間サイドのストーリーとしてはエマと芹沢博士(渡辺謙)のマッドサイエンティスト一騎打ちが望ましかったところが、補助線としての真人間を書き入れておかなければ不安でしかたなかったのか、マーク・ラッセル(カイル・チャンドラー)を同じことを二度言わせるための存在として投入したことで、ほとんどの停滞は彼が引き起こしてしまっているという損な役回りを背負わされてしまったのは同情の余地があるにしろ、前回のブライアン・クランストンのように彼を退場させることでエマの変節を促してもよかったのではないかと思うくらいには彼の重心は最後まで希薄なままだし、中心にそうした人間が一人いると感情の移動が軽く安く思えてしまうのも当然で、その点についてはやはりエラーというしかないだろう。怪獣たちがこの世をひたすら破壊しまくる総進撃の時間において監督の妄想と幻視が縦横無尽に炸裂している様を目撃することで、それら吹けば飛ぶような人間ドラマも含めた上での昭和ゴジラへの妄執と憧憬であったのだろうと考えてみれば、それはそれで見事であったとしか言いようがないにしろである。ワタシたちは「怪獣」と呼んでいるけれど、劇中での呼称が”Titan”であることを考えればある程度の擬人化はやむを得ないにしろ、最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える。ラドンはまるで『仁義なき戦い』の田中邦衛のようであったよ。
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