2019年05月30日

レプリカズ/これより他に生きるを知らぬ

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いくつか面白くなりそうなターンがあったのだけれど、いずれもこちらが身を乗り出しかけた方向とはことごとく逆に舵を切ることで、何とも冗談の通じない、言ってみればキアヌ・リーヴスという人の抱える危うさを世に晒してしまったという点で非常に危険な映画であったように思うのだ。明らかに骨子としてはフランケンシュタインの怪物というマッドサイエンティストの悲劇を頼っておきながら、それを全面的なハッピーエンドへと着地させようとドクター・ストレンジ的に言えばおよそ1400万分の1ともいえる勝利ルートを107分間のうちにノーエラーで走り抜けてしまうため、陰影のざわめきや機微の震えといった感情の深彫りには目もくれないまま、ただそこにはひたすらキアヌ・リーヴスがキアヌ・リーヴズのまま立ち尽くすばかりだったのである。妻と3人の子供たちの不在をとりつくろうためキアヌがそれぞれの家族になり代わって日常を維持するシーンなど、研究にかまけて自分がいかに家族のことを知らずにいたのかという内省につなげるのかと思いきや、キアヌが真顔で繰り広げるスラップスティック気味の悪戦苦闘をほんの一瞬苦笑いさせるだけで通り過ぎてしまうし、再生した妻や子供たちが迎える最初の朝に見せるある描写に、やはり『ペット・セマタリー』的な禁忌の代償がキアヌを襲うのかと思いきや、何のことはない見たままそのままで一安心!といった事あるごとの“思いきや”に、ああこの“思いきや”はケイジ・ムーヴィーでおなじみの“思いきや”だ、予算も人員もそれがもたらすクリエイティヴィティも足りていない場合、見て見ぬふりをしてしまう“思いきや”だ、と合点がいったことで、ことさら腹も立たず悲しくもならずに済んだ点について、そんな引き出しを作っておいてくれてありがとうと、あらためてニコラス・ケイジに感謝などしてみたのである。俳優という他人の人生を創り上げる技能に生きる者において、役者本人の生きざまや人となりがスパイスとして投影されることが果たしてどう評価されるべきなのか、キアヌ・リーヴスの場合、いささか度を超えた生真面目と誠実の茫洋がある局面においては緊張と緩和の得も言われぬバランスとなっていることは言うまでもなく、キアヌが静止し続けることで周囲の回転がより緊張をはらんだ高速に映るというその効果を知覚した演出家においてその効果は絶大なのだけれど、今作のようにキアヌ自身でスピンさせるべく働きかけた場合、真顔のままやってきては去っていくだけの朴念仁に映画が終始してしまい、真ん中にいて懸命なキアヌの笑えない痛々しさだけがチェシャー猫の笑いのようにはりついてしまう気がしてならないのだ。したがって、今作において静止するキアヌに煙幕をはるには “別のなにか”として帰ってきた家族がその予期せぬ特性によってキアヌを呪うのか、あるいは救ってみせるのか、そうすることによってようやくキアヌは、かつがれた神輿の上で所在なさげに立ち尽くすことが許されたように思うのである。キアヌ・リーヴスが愛すべき俳優であり映画人であることは言うまでもないのだけれど、愛し方をまちがってしまうと本人にとっても観客にとっても幸せとはいえない事態に陥りやすい厄介さも備えた俳優であることもまた確かなわけで、静止したキアヌを愛でるという野心作『おとなの恋は、まわり道』をご覧になった人なら奥歯にモノがはさまったようなワタシの愛憎が理解していただけるかもしれない。あれとてウィノナが最強の担ぎ手なればこそであったのは言うまでもないけれど。
posted by orr_dg at 12:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする