2019年05月30日

レプリカズ/これより他に生きるを知らぬ

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いくつか面白くなりそうなターンがあったのだけれど、いずれもこちらが身を乗り出しかけた方向とはことごとく逆に舵を切ることで、何とも冗談の通じない、言ってみればキアヌ・リーヴスという人の抱える危うさを世に晒してしまったという点で非常に危険な映画であったように思うのだ。明らかに骨子としてはフランケンシュタインの怪物というマッドサイエンティストの悲劇を頼っておきながら、それを全面的なハッピーエンドへと着地させようとドクター・ストレンジ的に言えばおよそ1400万分の1ともいえる勝利ルートを107分間のうちにノーエラーで走り抜けてしまうため、陰影のざわめきや機微の震えといった感情の深彫りには目もくれないまま、ただそこにはひたすらキアヌ・リーヴスがキアヌ・リーヴズのまま立ち尽くすばかりだったのである。妻と3人の子供たちの不在をとりつくろうためキアヌがそれぞれの家族になり代わって日常を維持するシーンなど、研究にかまけて自分がいかに家族のことを知らずにいたのかという内省につなげるのかと思いきや、キアヌが真顔で繰り広げるスラップスティック気味の悪戦苦闘をほんの一瞬苦笑いさせるだけで通り過ぎてしまうし、再生した妻や子供たちが迎える最初の朝に見せるある描写に、やはり『ペット・セマタリー』的な禁忌の代償がキアヌを襲うのかと思いきや、何のことはない見たままそのままで一安心!といった事あるごとの“思いきや”に、ああこの“思いきや”はケイジ・ムーヴィーでおなじみの“思いきや”だ、予算も人員もそれがもたらすクリエイティヴィティも足りていない場合、見て見ぬふりをしてしまう“思いきや”だ、と合点がいったことで、ことさら腹も立たず悲しくもならずに済んだ点について、そんな引き出しを作っておいてくれてありがとうと、あらためてニコラス・ケイジに感謝などしてみたのである。俳優という他人の人生を創り上げる技能に生きる者において、役者本人の生きざまや人となりがスパイスとして投影されることが果たしてどう評価されるべきなのか、キアヌ・リーヴスの場合、いささか度を超えた生真面目と誠実の茫洋がある局面においては緊張と緩和の得も言われぬバランスとなっていることは言うまでもなく、キアヌが静止し続けることで周囲の回転がより緊張をはらんだ高速に映るというその効果を知覚した演出家においてその効果は絶大なのだけれど、今作のようにキアヌ自身でスピンさせるべく働きかけた場合、真顔のままやってきては去っていくだけの朴念仁に映画が終始してしまい、真ん中にいて懸命なキアヌの笑えない痛々しさだけがチェシャー猫の笑いのようにはりついてしまう気がしてならないのだ。したがって、今作において静止するキアヌに煙幕をはるには “別のなにか”として帰ってきた家族がその予期せぬ特性によってキアヌを呪うのか、あるいは救ってみせるのか、そうすることによってようやくキアヌは、かつがれた神輿の上で所在なさげに立ち尽くすことが許されたように思うのである。キアヌ・リーヴスが愛すべき俳優であり映画人であることは言うまでもないのだけれど、愛し方をまちがってしまうと本人にとっても観客にとっても幸せとはいえない事態に陥りやすい厄介さも備えた俳優であることもまた確かなわけで、静止したキアヌを愛でるという野心作『おとなの恋は、まわり道』をご覧になった人なら奥歯にモノがはさまったようなワタシの愛憎が理解していただけるかもしれない。あれとてウィノナが最強の担ぎ手なればこそであったのは言うまでもないけれど。
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2019年05月27日

ガルヴェストン/嵐に呼ばれた男

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日の沈んだ世界しか知らぬ男が、ガルヴェストンの浜辺で目を閉じ陽のぬくもりを感じながら人生のあしらいに想いをめぐらし、傍らではいまや彼の守護天使となった娘がありがとうと微笑みかけて、俺は幸福に嫌われていたのではない、俺が幸福を遠ざけていただけなのだとそれを知る。ならば手遅れな俺にできるのはこの幸福をこの娘に繋げてやることだと決めた瞬間、寄せては返す波のようにそれは彼の手を離れ、果たしてそれは良い夢だったのか悪い夢だったのか、答えを知るために彼はひとり20年を過ぎてガルヴェストンで待ち続けている。40歳のヤクザなロイ(ベン・フォスター)と19歳の娼婦ロッキー(エル・ファニング)が出会い、しかしそこには愛も恋もセックスもないただ互いを思いやる感情のつながりだけがあるという絵空事のような物語を、だから私はその絵空事が正解になる世界を撮ることにしたのだというメラニー・ロランの強くて柔らかいしなやかさが、すでに血を流しすぎたノワールを子守唄のように寝かしつけていく。ロイのそれはある決定的な誤解によってはいるものの、自分に残された生を凝縮することでそれを俯瞰する視点を持ち始める主人公の孤絶は『25時』を想い起こさせると同時に、ロードサイドの逃亡者となった彼らが漂泊するアメリカの原風景を辿ってみれば、まず最初に出くわすのは『セインツ ‐約束の果て‐』であった気もして、そこでもベン・フォスターはあらかじめどこへも行くことを許されないまま誰をも抱きしめずにいたことを想い出さずにはいられないのだ。それら引用するタイトルからも明らかなように、メラニー・ロランが描くのはアメリカン・ノワールの自滅して下降するセンチメントというよりはフレンチ・ノワールが放つ自己愛による甘い腐臭により近いように感じられて、ならば94分というタイトに刈り込まれた時間にあと10分ほど追加してみることで、いったいこれがどのような物語の途中であったのか見失うくらいに、モーテルで過ごす無為で倦怠したそれゆえに自由な日々を描いてみせるべきではなかったかと思ってしまうのだ。若いチンピラとの絡みなど距離の詰め方と不穏の醸造がいささか性急すぎて展開のための手続きといった感がぬぐえない気もしてしまったし、せっかく魅力的な陰影をつけたモーテルの管理人が特にロッキーとの関係性において生かされていないのはいささかもったいなく感じてしまった。それにしてもエル・ファニングである。自分がとても優雅で美しいことに気づかないまま、どうしていつも私は撃ち落とされてしまうのだろうと首をかしげる一羽の鳥の哀しみが年を増すごとに彼女の艶となっているようで、うかつにキャスティングすると映画が奪われてしまう危険な女優になりつつある気すらしてしまう。どうにも忘れがたいラスト、俺には正直でいろ、そうすれば俺もおまえに正直でいる、とロッキーに約束したロイは、夢の答えを確かめた後で、ハリケーンの上陸を待っていたかのようにひとりあの浜辺へと歩を進めていくのだ。虐げられた者たちへの祈りにも似た、血を吐くようなロマンスをあなたに。
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2019年05月22日

アメリカン・アニマルズ/いつも同じ時間に退屈になる

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「彼らは楽をしようとしたのでしょう。成長のために経験を積もうという考えが彼らにはなかった」とベティ“BJ”ジーン・グーチ(アン・ダウド)が語る言葉こそが、この無様で滑稽な4人を断罪するにふさわしいのは重々承知の上で、どうしていつもいつもこの世界は世界のままなのか、何をすればその顔がほんの少しでも歪むのかと言いがかりのように苛ついた身の覚えのせいなのか、彼らを笑うことなどできるはずがないどころか同族嫌悪とも言える吐き気すら覚える始末だったのだ。バイト先の倉庫から肉の塊を盗み出し警備員を振り切った程度の逃げ足で「アイム・アライヴ(今おれは生きてる!)」と満面の笑みを浮かべるスペンサー(バリー・コーガン)とウォーレン(エヴァン・ピータース)にとって、1200万ドルの稀覯書はせいぜいがより高級な肉の塊に過ぎないわけで、美大生であるスペンサーがオーデュボンの版画に対する芸術的なアプローチの一切を見せないあたりに彼の死にっぷりが否でも窺えて、君は作品で何を表現したい?君は芸術家としてどうありたい?と質問されて答える言葉を持つことのないスペンサーの死んだ目こそがこの映画のトーンを決定したといってもいいだろう。そのあたり、運動部の奨学金で入学しておきながらスポーツ馬鹿ばかりだと毒づいてチームの一切にケツを向けるウォーレンもまた同様で、このすべては死人を自覚する彼らが自らに施した電気ショックにすぎないことを思えば、BJの言葉と彼らが100万光年を隔ててすれ違うのはやむなしとすら思ってしまう。そのうち当の本人たちがカメラの前に現れてかつての自分たちを自ら断罪するに至り、すべてを否定された2004年の彼らはまるで集団リンチを受けるように追い詰められていくこととなるわけで、どこかしらオフビートなピカレスク風に語られるこの映画を苦笑いとしてすら笑えなかったのは、その善悪や正誤に関わらず彼らなりに切実であった世界との接続がすべては身から出た有害な錆でしかなかったというその逃げ場のない痛々しさによっていて、「老人はこの社会では視えない存在なんだ」としたり顔でうそぶきつつ徒党を組んだ4人の老人が学生たちの只中に現れて浮きまくる笑えないコント、アムステルダムのバイヤー(よりによってウド・キアー)やクリスティーズの鑑定人といった楽をしてこなかった大人たちの前に現れた時の彼らがまとう圧倒的な借り物感と未熟さの惨めさ、などといった彼らが真顔でいればいるほど傷口に塩をすり込んでいく残酷な回想はいつしか2018年の本人たちへの不信すら呼び覚ました気がして、好むと好まざるに関わらず2004年の自分とそれ以外の自分との二役を永遠に演じていかねばならない彼らにいつしか憐れみや蔑みを抱かされている自分に嫌気がさしてしまう。NYの車中でチャズ(ブレイク・ジェンナー)に万死に値する致命的なミスをなじられて、どうして自分は今このまま消えてしまうことができないのか、むしろそのことの方がおかしいじゃないかとでもいう風に顔をゆがめ身体を捩らすスペンサーに憑依したバリー・コーガンが言葉を失うほどに凄まじい。揃いも揃っていなたいチェック柄のシャツを着た集団のバカ騒ぎに苛立って、彼らに殴りかかるエリック(ジャレッド・アブラハムソン)もまたチェックのシャツを着ているという底の抜けた哀しみにも引き裂かれる。レナード・コーエンの“Who by Fire(火に焼かれるのは誰だ)”が流れる中、踏みこんだFBIに次々と逮捕されていく彼らをスローモーションで捉えるシーン、頭に浮かんだのは「3年B組金八先生」で中島みゆきの“世情”が流れる中、機動隊に連行される加藤優の姿なのだった。なんというか加藤くんには申し訳ないのだけれど。
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2019年05月19日

オーヴァーロード/気分はまだ戦争

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ことさら冷えたわけでもない何なら水道の水を心ゆくまで飲み干したようなこの満足感は、おそらくこれがMCUの構造的欠陥ともいえる助ける者と助けられる者が交わす熱視線が縦横にめぐらされた英雄譚であったからだろう。ノルマンディー上陸作戦の先兵となったある空挺部隊が戦場におけるアマチュアとプロフェッショナルの危ういバランスの上でぐらぐらと揺れつつそのスイングを利用して、キャプテン・ナチスを誕生させんとするヒドラを壊滅させるこの物語において、アマチュアであるエドワード・ボイス二等兵(ジョヴァン・アデポ)とプロフェッショナルとしてのルイス・フォード伍長(ワイアット・ラッセル)がそれぞれに抱く「良心」のぶつかり合いが物語の推進力となって目的に向かい収束していくその構造をスティーヴ・ロジャースとトニー・スタークの黄金比に重ねてみれば、MCUでは語りきれない小さな大義がもたらす自己犠牲を心ゆくまで描くことで湧き出す浄化こそが、冒頭で述べた望外の満足感に繋がったのだろうと考える。そしてそれをなお可能にしていたのは、「良心」が容易に戦争を断罪してしまうことのないよう戦争映画としての装甲を徹底して強化していたことにもよっていて、敵地へ降下するまでのオープニングシークエンスでいきなり観客を阿鼻叫喚の地獄絵図に放り込み、生き残るためには手段を選んでなどいられない戦場の論理を全身になすりつけることでサスペンスの発火装置としての「良心」を弄び始める手口は非常にスマートだし、それを維持する(という建前もあって)ための暴力およびゴア描写をてらいなく加速させていくアイディアとそのサービス精神には胸が熱くなるばかりだったのだ。「良心」の命ずるままに迷走するボイスが、自分が蘇らせてしまったチェイス(イアン・デ・カーステッカー)の頭部をスイカでも潰すように粉砕して錯乱するシーンを合図に、「良心」の十字軍となった彼らとクロエ(マティルド・オリヴィエ)がナチスを虫けらのように血祭りにあげる怒涛の終盤と、ついには秘めた「良心」を全開にして「悪意」と一騎打ちするフォード伍長の侠気が打ち上げる花火の豪気、わたしは自分がわからないと眼を伏せたクロエが火炎放射器でぶちまけた焔に見つけた自分、そして止むことのない爆風を追い風に暗闇を走り抜けるボイスは光の中に飛び出していき、計画通り連合国はノルマンディー上陸を果たすこととなる。といった風に「良心」と「悪意」を消費する戦争エクスプロイテーション映画がなぜこれほど痛快で爽快なのか、MCUが様々に厄介な手続きをふみつつそれを食い止めてきた理由があらためてわかる気がしたようにも思うのである。暴力も戦争も初めから我々と共に在ったものだ、言うなればお前らの神がお造りになったものだ、崇拝しないでいいものか、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」の中で吐かせたあれは、やはりとても厄介だということなんだろう。
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2019年05月17日

ラ・ヨローナ 〜泣く女〜/水でも飲んで落ち着け

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『グリーンブック』では豚に真珠、もしくは掃きだめに鶴と崇められて映画の良心となったリンダ・カーデリーニが、ここでは主にサスペンスの発生装置としてやらかしては転げまわっている。ラ・ヨーロ誕生の哀しい経緯を現代(といっても舞台は1973年だけど)のネグレクトに関わる問題に絡める着想はタイムリーだし、主人公アンナ(リンダ・カーデリーニ)をそうしたケースを扱うソーシャル・ワーカーにしたことで、彼女を渦中に放り込む手筈も整っていたように思うのである。冒頭で彼女が担当する家庭の子供が不審死を遂げることでその母親がネグレクトを疑われ、その究明を進めるアンナも次第にその母親と同じ状況に追い込まれていく、というのがこの映画の神経戦としての構造となるのだけれど、ラ・ヨローナの脅威から子供たちを守る行為の特異性とその消耗が周囲には彼女によるネグレクトに映ってしまうという逆転があまりうまくいっていないことで、神経症的に苛まれる側面が霧散してしまっていて、たとえば修羅場の中で食事をつくるどころではなくなりTVディナーのような夕食となる場面があるのだけれど、アンナの息子を診察した医師が子供の腕に残るラ・ヨローナの徴を見てネグレクトを疑い、通報を受けたアンナの同僚とその刑事がアンナの家を訪ねることになるのだけれど、そのタイミングをなぜ子供たちがTVディナーを食べている場面にしなかったのか、それが育児放棄と映る格好の場面だったのにとその意図を疑うわけである。それともう一つ、アンナが巻き込まれるきっかけとなる母親が子供をラ・ヨローナから隠した部屋の扉の一面に描いた護符のような「目」の意匠は、その母親と同じ立場に追い込まれるアンナもまたそれを描くことになるとばかり思っていたものだから、それは『CURE』のうじきつよしの部屋を例にあげるまでもなく、恐怖の実体が自分に向かってくることを厚塗りする常套手段をなぜ手放してしまうのか、せっかくの伏線をなぜ活かさないのかもったいなく思ってしまう。とは言え、この神経戦の構造を維持するのが難しいのは、ラ・ヨローナのアタックが憑依型のそれではなく完全に肉弾戦を挑んでくるからで、ブヴァァァァという出囃子と共に現れてはただひたすら追い回して物理攻撃を仕掛ける猪突猛進はここのところのポスト/ポストモダンホラーの潮流からは完全に道を外れたモンスターのビックリ箱であって、そのドシャメシャが舞いあげる風が一瞬心地よかったのも確かではあるにしろ、本来はメランコリーに食い尽くされた化け物であるはずのラ・ヨローナさんが、いつしかキャシー塚本のように爆裂し暴走するその姿は彼女の本意であったのかといらぬ心配などもしてしまうわけで、死霊館シリーズ(The Conjuring Universe)において、前述したポスト/ポストモダンホラーの潮流とは異なる「見れば分かる」“ニューライン・シネマ”ホラーを新たな手口で研ぎ澄まし続けるジェームズ・ワンにとって、このスピンオフシリーズはある意味で実験的なアプローチの場であり、この直截性はあくまで一周回ってきた結果によっていると思うのだけれど、「見たまんま」と「見れば分かる」のカミソリ一枚ほどの違いをスリリングに感じるにはラ・ヨローナさんが少しはしゃぎ過ぎであったと、相応の呪いを覚悟で苦言を呈しておきたいと思う。
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2019年05月13日

ある少年の告白/ある少年の告発

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ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)の父親マーシャルにラッセル・クロウを据えたあたりで、『ビューティフル・ボーイ』的な人生の更新を受け入れていく父親といった構造なのだろうとそんなふうな予見でいたところが、ジャレッドを罪悪感で沈めつつ矯正/強制収容所送りにした人権搾取者たちの手からわが子を救い出す母ナンシー(ニコール・キッドマン)が、自身もまた搾取される側の人生であったことに中指を立てるレベル・ムーヴィーのムチに横っ面を張られると同時に、無垢の者ジャレッドが魂の監獄とすら言える施設からはたして脱出できるのかという『ミッドナイト・エクスプレス』のような心胆を寒からしめるサスペンスに段々と身じろぎができなくなっていく。マーシャルはバプテストの牧師であると同時にフォードのカーディーラーの経営者でもあり、彼が隠さない宗教的強圧からすればピューリタンの労働倫理的なお務めによって従業員を煽りつつ「ビジネス」を成り立たせているのは想像に難くないわけで、説教壇から会衆に向かって「この中で完璧でない人は手を上げて」「では完璧な人は手を上げて」と“不完全な我々”(自分はその中にいない)の共感を抑圧にすり替える口調が、施設のセラピストであるジョン・サイクス(ジョエル・エドガートン)が入所者を前に“治療”について語る時の、1ドル札を使った目眩ましの口上と似通うことはもちろん偶然ではないだろう。ジャレッドは、大学や施設でヘンリー(ジョー・アルウィン)、グザヴィエ(セオドア・ペルラン)、ジョン(グザヴィエ・ドラン)、ゲイリー(トロン・シヴァン)と言った彼と同様に悩み困惑し傷ついた人たちと出会うことで(彼に大きな傷を残したヘンリーですら)、自分達は教会や施設の人間が言う悪しきものではなく、不完全な善であるという一点においてすべての人たちと平等であるはずだという認識を確かにすることで、あなたが変わらない限りこの距離が縮まることはないのだと正面から父親につきつけてみせるのである。このラストにおいて、それでも父マーシャルが捨てきれずすがるのがマチズモの系譜としての父殺しで、せめておれを殺してから行ってくれと途方に暮れるその姿は悲しくも哀れですらあり、一人の母としてジャレッドと向き合うことで自分を囚えていた抑圧をも知ってそこから自由になることを選んだ母ナンシーの飛び立つような軽やかさとは光と影の対照をなしている。医学を信仰で、信仰を医学で量ることはできないし、それをできるかのように語る人間のそれは騙りであることを、劇中半ばで真摯かつ正直な言葉にしていた医師も女性だったことを想い出してみればいい。男たちの他はみなとっくに気づいて知っているのだ。
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2019年05月10日

ザ・フォーリナー 復讐者/爆弾銃弾肉弾糾弾

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リーアム・ヘネシー(ピアース・ブロスナン)に揺さぶりをかけたクァン(ジャッキー・チェン)が、その後ヘネシー配下のチームにベルファストでの宿を急襲されるシーン、ヘネシーの事務所に仕掛けた挨拶代わりの手製爆弾の手際にクァンが何らかの殺傷スキルを持った者であることが観客には暗示されていて、となれば先を読んだクァンは既に宿をもぬけの殻にしているか、もしくは何らかのトラップで彼らを返り討ちにするのか、いずれにしろ完全にクァンが狩る側にまわったことを告げて次のシークエンスに移るものだと思っていたのである。ところが、居場所を探知されることなど想像もしていなかったクァンは襲撃に慌てふためき、熟練した近接戦闘の動きを見せつつも相応のダメージを受けて命からがら脱出することとなる。考えてみれば、ベトナム戦争での特殊部隊兵士としての往時から数十年の時を経ることで身体も神経も錆びついているのは当たり前だし、染みついた本能の残滓があるとしても命のやり取りをして生き残る最前線の感覚からはもはや程遠いのは言うまでもなく、そうしたクァンの背景をジャッキー・チェンという稀代のアクション・スターの夕暮れに重ねてみせることこそがこのキャスティングの狙いだったことがわかった瞬間、ジャッキー・チェンではないクァン・ノク・ミンという男の哀しい目や丸みを帯びた背中がスクリーンをみなぎるように支配し始めて、お仕着せとしてのジャッキー映画どころではない元IRAメンバーとベトナム戦争の元特殊部隊兵士が暴力に彩られた互いの過去に喰われていく様を、締め上げた緊張と寄る辺のない彩りで描いた身を切るようなアクション映画として成立させている。ヘネシーと1対1で対峙したクァンが、お前らが使った爆弾はセムッテクスか?と尋ね、そうだと返されると、あれは戦争の時にチェコ人がベトコンのために作った爆弾で、アメリカ人をたくさん殺したあの爆弾でIRAがおれの娘を殺すことになるなんてとんだ皮肉じゃないか、と問わず語りに独白するシーンは、アクションがまるで介在しないながら今作におけるジャッキー・チェンのハイライトといってもいいだろう。あくまで復讐するのはテロの実行犯であって、たとえ自分の生命を奪いに来る者であってもそれ以外の人間を殺すことはしないという枷に加えて、リタイアして錆びついた肉体と神経というハンディを背負うことでクァンのアクションには切迫したサスペンスが生じ、元英国特殊部隊兵士にしてヘネシーの甥ショーン・モリソン(ロリー・フレック・バーンズ)と森の中で人知れず繰り広げる近接格闘戦には、『ハンテッド』のトミー・リー・ジョーンズvsベニシオ・デル・トロ戦を想い出したりもした。さすがに「特捜班CI-5」の昔からイギリスの狭い室内で繰り広げられるアクションをハイスピードで立体的に組み立ててきたマーティン・キャンベルだけあって今作の流れるような手さばきは見事というしかないし、アクションにこめられたドラマの意図に対するジャッキー・チェンの嗅覚と、大義に喰われたヘネシーという男の野卑なメランコリーを燃やし尽くすピアース・ブロスナンの精密と、特にジャッキー・チェンという俳優の解釈については、どうして今まで誰もここに手を付けなかったのかという驚きもあって徹頭徹尾腑に落ち続け、そしてそれは静謐なうちに暗転したエンドクレジットでさらに決定的となるのである。お前が歌うんかい!
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2019年05月09日

アガサ・クリスティー ねじれた家/馬鹿が名車でやって来る

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※鑑賞予定の方スルー推奨

原作未読。観ていながら、?と思った某有名ミステリとの類似はとっくの昔から指摘されてきたのだろうし、それを今さらあげつらうのも無粋だろう。結末の寄る辺のなさということで言えば某有名作品の方が圧倒的に好みだけれど、グレン・クローズを役不足とすることだけは回避したい、いや回避せねばならぬ!という並々ならぬ熱意と強い意志が込められたこの結末の突然発火するようなスペクタクルが何より映画としての勝利であったのは間違いない。原作を読んでいないためどのような脚色がなされたのかわからないけれど、何しろチャールズ・ヘイワード(マックス・アイアンズ)がいかなる推理能力を持つ探偵なのかが明らかにされないまま平坦なプロットが順送りにされていくだけで、それをヘイワードが何らかのアイディアによって撹乱してみせることをしないものだから、容疑者となる他のすべての家族はそれなりに癖のある役者がそれなりに癖のある造型をしていたにも関わらず、誰が真犯人でもおかしくないというミスリードに至らないこともあり、真犯人が浮かび上がるプロットの組み立てにまったく立体的な陰影がつかないまま、なおさらグレン・クローズの力技が際立って見えたように思うのである。すべてはこれがバッドシードものであることの煙幕ではあったにしろ、そこに至る複層が某有名作品に比べると薄くてヤワすぎるし、原作を読まずして判断するのはフェアでないにしろ、これを自身の最高傑作と言ってしまうクリスティとワタシの相性が良くないのはやはり仕方のないことなのかとさして必要のない再認識をした次第。チャールズが駆るBristol405もグレン・クローズが駆る Triumph TR3Aを筆頭に、屋敷や衣装もふくめた美術デザインは腰の座った成果を発揮しているのがなおさら空疎をあおる。空虚じゃなくて。
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2019年05月08日

ハンターキラー 潜航せよ/信じる者は浮かばれる

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プロフェッショナルの矜持とそれを認め合った者同士の熱い義侠心が、彼らを取り巻く者たちの忠誠心をスパークさせて上昇気流を生んでいくという、肉体というよりは感情のハードアクションがほとんど東映エクスプロイテーションのようである。しかし、それらを渾然と際立たせるには何らかの異化が必要となるわけで、それらグルーヴの外側に居てなおかつノイジーな通奏低音を鳴らす者としてのゲイリー・オールドマンこそがその責を果たしていたように思うわけで、ジョー・グラス(ジェラルド・バトラー)、セルゲイ・アンドロポフ(ミカエル・ニクヴィスト)、ビル・ビーマン(トビー・スティーヴンス)といった面々と対峙するだけの矜持は持たされず、かといって彼らを向こう岸から脅かしつづけねばならない上に、ほとんどセルフパロディとすら言えるゲイリー・オールドマン的狂犬演技を装いつつ『男はつらいよ』のタコ社長のごとく腰の軽いお騒がせ屋でもあらねばならないというそれなりに厄介な役どころを、ちょっと目盛りを合わせただけであっさり演じてしまうような喰えなさ加減が、この不意打ちと舌打ちのような映画の下支えとなっていたのは間違いがないところだろう。それにしても、いつからかそれが当り前とでもいうような口ぶりで語られる理詰めで可能性を拡げたり潰したりする映画の所作に中指でも立てるように、俺はあんたを信じてる、あんたはあいつらを信じてる、だから俺はあいつらを信じてるという三段論法だかなんだかよくわからない確信だけを手持ちの札としつつ米ソ開戦の回避に賭けるグラスが浮かべるのはほとんど狂人の笑みにも映り、そういえばこんな風なシネパトスもしくはシネマミラノ案件は久しぶりだなあと、実家にでも帰ったようなだらしのないくつろぎを覚えた理由に思い至ったりもしたのだった。ルッソ兄弟は2人だけでいい。
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2019年05月06日

芳華-Youth-/わたしたちが軍人だったころ

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青春を知らされぬ者を青春が庇護する者たちの楽園に放り込む酷薄な仕打ちは、ホー・シャオピン(ミャオ・ミャオ)とリウ・フォン(ホアン・シュエン)の2人を観客がわが身へと焼き付けることの、ほとんど脅迫にも似た念押しにも思える。模範兵の憂鬱と政治に踏みつけられた者の薄倖が特権階級のノンシャランにとってかわる因果応報的な逆転は最後までないまま、祝福された過去を今に繋げる術などない者は漂泊し続けるしかないことをシャオピンとリウ・フォンが互いの中に認めるラストの哀切こそが監督の視点であり、この物語を現代に語ることの意志であったのは間違いがないだろう。それにしても、なぜリウ・フォンのように清濁の曇りない眼を持つ者が、持って生まれた幸運に無自覚なまま微笑むリン・ディンディン(ヤン・ツァイユー)に惹かれてしまうのか、それはシャオピンが彼の恋愛対象にはなり得ないことの裏返しにも思え、政治的なマスコットとして英雄を生きねばならないリウ・フォンにとって、リン・ディンディンが生きる時の人生の霞を食うような無邪気は彼の屈託に差しこむやわらかな光にも思えたのだろうし、シャオピンの思いつめたような清廉はそれが強くて善い生き方によるのだとしても、リウ・フォンにとっては自家中毒をおこしかねない感情だったのではなかろうか。シャオピンの重ねての不幸は彼女が自身のために踊る術を持たなかったことで、父を失いリウ・フォンが去った後ではもはや彼女にとって踊ることは意味を失い、その後で暴走するかのように突き進む献身のふるまいが彼女を破壊してしまうその運命はどうにも不可避だったようにも思うのだ。何も持たぬゆえただただ善く生きようとした者、と言ってみればそれこそが人民の美徳であったはずが、それゆえに背負ってしまう苦難と果てのない流転を容赦なく叩きつけるこの作品はそうした人々への鎮魂であるのか自己批判であるのか、前半で描かれるきらめくような青春の楽園と、楽園を追われたものが地獄へと堕ちていく後半の、ほとんど別の映画とすら言える変転が観る者の退路を絶っていく監督の鬼気迫る筆さばきは寄る辺ないまでに容赦がない。シャオピンとリウ・フォンの地獄巡りで描かれる戦場や野戦病院におけるあけすけな人体損壊描写を目にして、どこか儚げに描かれてきた白血病のイメージに冷水を浴びせるがごとく死斑の浮いた土気色の徹底的にリアルな描写で臨終を描いた『サンザシの樹の下で』を思い出し、これが大陸の気風なのかはともかく、ショッカーとしてのゴア描写ではない物質としての肉体に対するプラグマティックな対峙が素晴らしく映画的に奏功することを再認識したのだった。そして一つ、高原地帯での慰問でシャオピンが代役として急遽ステージに上がるシーンがあるのだけれど、そこでシャオピンがいったいどのような踊りをしてみせたのかが描かれていないのである。実はこのシーンを含め146分版からいくつかのシーンがカットされた134分版をワタシたちは観ているのだけれど、ここで彼女が圧倒的なパフォーマンスを示すことで、このステージを最後に踊ることをやめてしまうシャオピンがどれだけかけがえのないものを棄ててしまうことになるのか、そもそもシャオピンとは誰だったのかを映画が叫ぶ抜き差しならないシーンになり得たに違いないと思うものだから、この点において画竜点睛を欠いたとしか言いようがなく思ってしまっている。
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2019年05月03日

アベンジャーズ :エンドゲーム/史上最大の侵略 後編

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※もちろんネタバレしています

『エイジ・オブ・ウルトロン』を観た時に記した“いつの日か戦うことになるあの敵について考えてみた時、この先に綴られるのは獲得や奪還ではなく喪失の物語となることを覚悟せよと告げていたようにも思えて、例えばウルトラシリーズの最終回にあった仄暗い愉悦をこれからはあてにせざるを得ないのだろうかと、トニー・スタークの体現するロック魂、すなわち疲れた体に宿る昂揚した精神に依存してきたワタシとしては少々気が重いのも確かなのである”という文章そのままの着地だったことや、すべてのクレジットロールが過ぎた後でかすかに響く11年前のあの音が遊び続ける子供たちを家路につかせる5時の鐘にも聴こえたこともあって、悲しいとかいうよりは優しく鎮められた気もしたのである。かつて「自分は非常に無責任なシステムの一部だった」と自己批判したあげく、過去はなかったことにしよう、これからはオレがオレの責任においてコントロールする!と飛び立ったトニー・スタークの苦味に満ちたノンシャランが現実でも地獄巡りをしてきたロバート・ダウニーJrに重なった瞬間にこそ、『アイアンマン』が虚実の壁を破って誕生したことを思い出してみれば、この大団円でトニー・スタークが「私はアイアンマンだ」とあらためて宣言してみせて西の空に明けの明星が輝く頃に宇宙へ飛んでいく一つの光となったことで、トニー・スターク=ロバート・ダウニーJrのビルドゥングスロマンとしてのMCUが永遠に円環する神話になったのだろうと考えている。ワタシとしては、誰も彼もが『ダークナイト』のように責任をとるわけにもいかないのは当たり前だと『アイアンマン』が11年前にその呪いを解いてくれた時点でもう充分だったものだから、思えばずいぶんと遠くまで来てしまったものだなあという感慨もあって、鳴らされた5時の鐘を素直に聴くことができたのだろう。映画のラストシークエンスはキャプテン・アメリカのターンで終わったように見えるのだけれど、ベンチに座った老スティーヴのセリフに「トニー」と聞こえた気がしたので調べてみたところが、オリジナルのセリフ"After I put the stones back, I thought...Maybe I'll try some of that life Tony was telling me to get."(石を返した後で、トニーが言ってたみたいな人生を送ってみるのもいいんじゃないかと思ったんだ)から字幕では「トニーが言ってたみたいな」の部分がまったく抜け落ちていたことで、ワタシのように字幕(と多分吹替も)で観た場合スティーヴとトニーだけにつながる絆がふっと浮かび上がる瞬間を失ってしまうことになったのが、なんとも残念に思えてならなかったのだ。今後このシーンを観る時、とりわけトニーのビートニクを愛した観客は字幕を脳内で補完するのが必須となるだろう。今作で一番美しかったのはIMAXのスクリーンに大写しになったエンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)の超クロースアップで、その神々しさはほとんどスターチャイルドのようであったよ。
posted by orr_dg at 19:37 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月01日

幸福なラザロ/ただしくてかなしい

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無垢と善性の象徴として立つラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)であるけれど、若きタンクレディ(ルカ・チコヴァーニ)の目には、母であるマルケッサ・アルフォンシーナ・デ・ルーナ公爵夫人(ニコレッタ・ブラスキ)は村人を搾取し、その村人たちはラザロを搾取するという構造の最下層にいるように映るのである。インヴィオラータ(=汚れなき村)の名で語られるその村自体はそうした搾取の構造の中にあるものの、ある酷薄な理由で世俗から隔絶され続けたことにより、経済や政治のシステムがもたらす格差とそれが培養する悪意から結果的に身をかわすこととなっていて、それゆえ誰に対してもノーと言うことをしないラザロが剥き身のままそこに在ることが可能なわけで、そうやってラザロは村にとっての炭鉱のカナリアと守護天使を兼務していたように思うのである。しかしラザロはタンクレディという清濁を泳ぐ者と出会うことで世界の思惑に感染してしまい、そうやって守護天使を失ったインヴィオラータの村も公爵夫人のシステムが崩壊することで新たな搾取のシステムへと地すべりすることとなる。劇場内で少なくとも2人の「あっ」という声が聞こえたあのシーンを経て、狼に乗って時間と距離を超えたラザロは渓谷の寒村から大都市の只中へと歩を進めていき、都市の片隅へと追いやられたインヴィオラータの村民たちが身を寄せ合うコミュニティは、ラザロという守護天使を再び押しいただくことで、アントニア(アルバ・ロルヴァケル)は再会したラザロにひざまずきさえする、かつての親密さと活気をつかの間取り戻していくのだけれど、年を重ねてより倦んだタンクレディ(トンマーゾ・ラーニョ)との再会がラザロの歩みを止めてしまうかつての構図が再び繰り返されることで、ノーと言わない人であるラザロはノーと言うことで維持される無慈悲なシステムに打ち倒されてしまうこととなる。ここに現れる狼は知恵と力の象徴で、人間と世界の間を行き来しバランスを発生させる存在でもあるのだけれど、その狼が斃れたラザロに他の人間にはない「善人の匂い」を嗅いだことで、この人間を維持することで保たれるバランスがあることを識った狼はラザロを立たせ目的地までを導くのだけれど、そこでラザロの身に起きたことを見届けた狼は、今度は斃れたラザロの匂いを嗅ぐこともないまま、この善人をお前たち自らが失ったことだけは忘れないでおけよと言い残すような一瞥をくれた後で行き交う車の間を「ラザロの匂い」だけをまとって走り抜け消えていってしまう。映画が始まり、最初にラザロを目にしてからずっとつきまとう落ち着かなさは、いつか彼が手ひどく傷つけられることの予感に他ならず、それがこの寄る辺のない世界で善を貫いたまま無傷でいられるはずがないというしたり顔によっていることを承知すると同時に、自分が彼を傷つける側の人間であることに気づいているからこそうろたえてしまうのだろうことも告白してしまいたい。しかしそうしたワタシのような人間が途方にくれてしまうことなど百も承知であるからこそ、監督はラザロの道行きにああした結末を用意したのではなかろうか。ラザロになれない者はラザロが斃れることのない世界の一部として生きようと決めればよいのだと、狼であるアリーチェ・ロルバケル監督は言ってくれている。
posted by orr_dg at 23:47 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする