2019年04月19日

荒野にて/僕らは廃馬を撃つ

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オフィシャルサイト

15歳のチャーリー(チャーリー・プラマー)が歩いていく苛烈なマージナルのラインと、人間の存在など意に介することなくひたすらそこに在り続ける原野の純粋な孤高と、彼が横断していくその聖と俗の出会う場所に湛えられた、生きることの責任としての孤独とその透明な哀しみこそが人間の本質であることをアンドリュー・ヘイは希望の色として染めようとこの映画を撮ったのだろう。勤勉を褒めるデル(スティーヴ・ブシェミ)に、しかし食事のマナーを豚のようだとたしなめられるシーンで、それを言われても腹を立てるでもなく小さく笑うだけのチャーリーには、卑ではないが粗にして野のまま育たざるを得なかった小さな闇の気配がうかがえて、細くて脆い綱の上を本人だけがそれに気づかないままうつむきがちに歩いていく姿は、アメリカが灯す最後のイノセンスがゆらめいているようにも見えたのだ。それがアメリカの流儀だとばかり、そんなものは早いところ吹き消して闇の中を歩く術を覚えろと彼なりの誠実で忠告するデルや、孫娘の体型をジョークのネタに笑い飛ばし、お前も軍隊に入って国に仕えたらどうだと初対面のチャーリーをつつくケンドール氏、それが規則であれ父を喪ったチャーリーを即座に養護施設につなげようと働きかける医師、チャーリーが稼いだ金を奪おうとするシルバー(スティーヴ・ザーン)、といったチャーリーを路上に追い立てるのがみな白人の男たちであったことを思い出してみれば、もちろんそこに父レイ(トラヴィス・フィメル)が含まれるのは言うまでもなく、そうした白人の男たちの社会で生きる彼女なりの諦めや苦渋を経て「チャーリー、ピートはペットじゃないの、ただの馬なのよ」とチャーリーを諭すボニー(クロエ・セヴィニー)や、アイスクリームをそっとおまけしてくれるダイナーのウェイトレスや食い逃げを見逃してくれたレストランのウェイトレス、よくやってくれたからフルで働いてくれないかと笑顔で話すメキシコ人の塗装屋、といった分断された境界の向こうで生きる人々こそがチャーリーを気にかけていたことを忘れるはずもなく、ワタシたちはどれだけ汚されたとしても自分で自分を汚すことはしないのだという真のアメリカの矜持がチャーリーを目的地へと繋いだに違いないと思っている。冒頭で、どこかへ向かうわけでもなく、もちろん自身に課したトレーニングとしてですらなく、ただとにかくここが現在地になってしまうことへの不安や恐れを振り払うかのように走っていたチャーリーは、たどり着いた目的地でもなお走り続けている。冒頭ではチャーリーを励ますように並走していたカメラは、チャーリーをそっと見守るように後ろから追い続けるのだけれど、そこを目指したわけでもない道の真中でふと立ち止まりこちらを振り返ったチャーリーの表情にあったのは、かつて海辺のアントワーヌ・ドワネルが浮かべた淋しさ(loneliness)から孤独(solitude)に向かう流転の徴にも思えたのだ。それは、自分が失ったもの、失わせたもの、失わさせられたもの、それらすべてへの悔恨と怒りとに訣別しなければ自分はどこにも行けないことを知った少年の精一杯で虚ろな懺悔ではなかったか。
posted by orr_dg at 16:55 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする