2019年04月02日

岬の兄妹/岬で待つわ

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オフィシャルサイト

邦画インディーズならではの半径5メートルの映画にはちがいない。しかし、その這いずる底を踏み抜いて、あとは底なしの底を手に入れることさえすれば落下の距離はどこまでも果てしなく自由だ。そしてこの映画は自由になっている。さすがに良夫(松浦祐也)は二の足を踏むだろう。踏まない。とはいえさすがに今度こそ良夫は二の足を踏むだろう。踏まない。踏まないのでは踏めない。踏んだら底に激突してしまうからだ。真理子(和田光沙)はそんな良夫の脇で笑いながら落下していく。それまで人生が停まってばかりだった真理子はそのスピードに笑いっぱなしだ。と、真理子以外の誰もが最後までそう思ってこの映画を観続けることになる。身体障害者と自閉症と小人症とヤクザと高齢者といじめられっ子が周縁で出会う話であるけれど、そうした字面ほどには特殊な出し入れを必要とするわけでもないのは、それらの人たちが仮託されたメタファーではなく、良夫と同じように二の足を踏まない人として描かれ2人と同じ速度で落下し続けることでずっと等距離を保ち続けるからなのだろう。したがって、肇(北山雅康)や社長(中村祐太郎)といった踏み抜かない人たちは置いてきぼりの異物として描かれることになり、この清濁の逆転はなかなか痛快に思える。したがって、ことさらフリーキーを煽るようなカメラワークに頼ることなく観たいものと観せたいことをきちんと捉えてくれる点においてカメラはとても誠実で、とくにストーリー上避けては通れないセックスにまつわるあれこれをカット割りやフレームの操作でごまかすことをはなからする気がないこともあり、メインストリームの邦画が避けて通ることしかしない人間の営為を不自然にずらすことのストレスは、清々しいまでに感じられない。それどころか、真理子が次々と身体を躱していくシーンを叙述する変形のオーヴァーラップや、曇りガラス越しに一瞬わきあがる真理子の肢体など、むしろクリエイティヴィティはこちらに注力されているようにすら思う。夜でも朝でも昼でもない空を背に良夫が地獄のふたを開けていいかと真理子に尋ねる震えるようなシーンと、他人のカップ焼きそばを目の玉ひんむいてすすり上げるシーンをぐうの音も出ないポエジーで地続きに描く地肩の強さにも恐れ入る。あのカップ焼きそばの切実は『万引き家族』の比ではなかった。そうやって果てしなく続くかと思われた良夫と真理子の地獄めぐりは、ある変遷を経てふりだしに戻ったかのような円環を“真理子以外の誰もが最後までそう思って”うかがわせるのだけれど、ラストで振り返った真理子がたずさえるその目つきが、したり顔の円環を一瞬で血祭りにあげることになる。良夫はもちろんお前たちも、わたしが何も知らない人間、お前たちのように知ることのできない人間だと思っていただろう、良夫が夢の中で果たされぬ幸福を思い描いたように、わたしが夢の中で何を思い描いたかなど考えたこともないだろう、わたしが鎖でつながれるのは仕方のないことだと思っただろう、わたしには堕胎が切り裂くような心がないと思っただろう、わたしにはお前たちとは違う種類の幸せをあてがっておけばいいと思っただろう、わたしをひとりの人間として見たことなどなかっただろう。だからわたしは、わたしを取り巻くすべての世界を断罪する。覚悟しておくように。
posted by orr_dg at 18:26 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする