2019年04月26日

魂のゆくえ/神は騙されている

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※展開に触れています

メアリー(アマンダ・サイフリッド)の呼び出しに応えて2度目に彼女の家を訪れたトラー(イーサン・ホーク)が停めた車を、最初の時に比べればぞんざいと言っていいはみ出し方で捉えたカメラは既にトラーの転調を告げている。よりよく闘うこと、すなわちよりよく殺すためのコンディションを御心にて維持すべく神と国に仕える従軍牧師の家に生まれそれを継いだトラーは、アメリカ兵の死を神の言葉でなだめる一方、従軍牧師を“継がせた”息子の死に際してはそれを恩寵とする言葉を持つ術もないままあっけなく瓦解してしまい、果たして従軍しない従軍牧師に神の声は聞こえるのか、聞く資格はあるのか、ならば自分が仕えているのは誰なのか、おそらくは人生で初めてトラーは無垢の人として在ることで神をとりまく世界の悪意を目の当たりにし、もはやプロテスタントもカソリックもなく宗派のくびきから解き放たれたトラーは、メアリーを懐胎したマリアに見立てでもしたかのように一人十字軍の途をひた走り始める。メアリーにとって牧師は神の代理人として全能であって、そうした無邪気と無辜がさまよえるトラーを強迫することで彼を覚醒させることとなり、実際のところ終始彼女の手のひらで七転八倒するばかりのトラーは、というかイーサン・ホークという人は、ファム・ファタルのリードするダンスでボロ雑巾のごとく振り回され息も絶え絶えに身悶えする瞬間にこそ後光を放つ稀有な俳優であり、このシナリオがアテ書きであったことを明かしたポール・シュレイダーの酷薄なまでの慧眼には恐れ入るしかない。うっすらと目を閉じ歯をくしばりながら白く緩んだ肉体に有刺鉄線を巻きつける姿は、恩寵のもたらす快感に抗う行為それ自体を官能として待ち構えていたようでもあり、もしもメアリー=マリアによる救済(「エルンスト!」)がなければ光年の彼方まで逝ってしまっていたに違いない。夫がライフルで自分の頭を吹き飛ばしたばかりの寡婦と笑顔でサイクリングに興じ、最後の晩餐をきどって刺身で晩酌をするトラーの羽の生えたような卑俗もまたイーサン・ホークの為せる技で、堕ちながら翔びそして激突する人の面目躍如というしかなかったのだ。サイクリングのシーンでの、自動車ならたやすいが自転車のスピードをどうやって掴まえようかと考えたあげくのファーストカットに『はなればなれに』の自転車とかそういった風な可愛らしさが飛び乗っていて思わず2度見する気分であった。つっかえ棒を全部外したとして映画は立ち続けるのかという試みに挑み、立ち続けるどころかありえないダンスをさせた前作『ドッグ・イート・ドッグ』がワタシは大好きでその年のベスト10に選んだりもしたのだけれど、今作ではそのつっかえ棒が映画を腹から背まで、脳天から肛門まで串刺しにしてしまっていてしかもそれを、この打ち棄てられた世界をなお愛し続ける証とすることで新たな信仰の礎へと再生してしまっていたのである。ある側面におけるイーサン・ホークの到達点にしてポール・シュレイダーの最終覚醒を告げる傑作であり、スコセッシにとっての『沈黙』、塚本晋也にとっての『野火』となる弩級のメルクマールであったし、何より40数年の時を経てあの映画を脚本家自らが更新するスリルへと、悪魔のような笑みが誘っていたのは間違いようがないのだ。
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2019年04月23日

ビューティフル・ボーイ/ローリング・ダッド

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彼ら(ジャンキー)は、泣きごとを言っても身動きをしても無意味だということを知っていた。もともと人間はだれも他人を助けられるものではないということを知っていた。他人から教えてもらえるような秘密の解決法などありはしないのだ。
― ウィリアム・S・バロウズ

両親の離婚、スタイルの英才教育、ブルジョアジーの憂鬱、などなどニック(ティモシー・シャラメ)が堕ちた中毒の理由などいくらでもドラマタイズできそうなところだけれど、それらを救済の口実として自身を慰めることなく、最愛の息子がジャンキーになったという寄る辺のない現実を理解し受け入れるために自身を更新し続けた点において、この映画とデヴィッド(スティーヴ・カレル)は極めて誠実だったように思うのだ。ジャンキーは病質ではなく、退化でもなく進化でもなく、ここからどこかへ変質した存在であること、そしてその変質は永遠であって帰還は一時的なものに過ぎないことを、ジャンキーへの偏見ではなく認識として持つに至るまでの道行きは、ドラッグとは切り離せないカウンターカルチャーの只中を生きてきたデヴィッドにとって季節外れの通過儀礼でもあったのではなかろうか。これがティモシー・シャラメであればこそ、どう転んだとしても画は維持されるにしろ、ニックの言動やパターンはこれまで見知ってきたジャンキーのそれと違わぬステレオタイプとしか映ることがないまま、ゾンビがみなゾンビとしてふるまうようにジャンキーはみなジャンキーとしてふるまうようになってしまう張りぼての哀しみを知らされることになる。継母カレン(カレン・バーバー)がニックとローレン(ケイトリン・デヴァー)の車を追いかけながら流す涙は愛情の通じない相手に対する怒りと悔しさのそれで、逃げ足のニックが見せる、罪の意識など光年の彼方にあって自分の不都合と不利から逃げ切ること以外何の意識も感情も持つことのない動物のような自我の残りカスに背筋がざわついて、これほど哀しくてどこへも行けないカーチェイスを今までに見たことはないと思った。劇中とクレジットロールで2度ニックによって朗読されるブコウスキーは、ニックが求めた人生の均衡を代弁すると共に、そのアディクトはバロウズ的なビートニクのダイヴが連れてきたことを匂わせてニックの物語としては理解と収まりを可能にする一方で、デヴィッドにとってはその実験精神を肯定せざるを得ないというジレンマに囚われるに違いなく、それはジョン・ゾーンをネタにスクウェアを笑うヒップな息子に育てた父親が受けてしかるべき報いであったといったら少しばかり意地が悪すぎか。
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2019年04月21日

マローボーン家の掟/想像する力を失ってはならない

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※ネタバレはしていませんが、観るならまっさらな状態でのぞむことを薦めます

語らないし語れないまま、思わせぶりというにはジャック(ジョージ・マッケイ)に顕れる傷や昏睡は彼をむしばむ一方で、本来であればそれを近くにいて見届けるはずのアリー(アニャ・テイラー=ジョイ)を差し置いて知らされ続けるワタシは、ジャックの苦痛に加えて彼女の分のそれまでも味わってしまっているものだから、ジャックをむしばみ続けるものの正体をついに知った時には、それが連れてきた考えうる最悪の絶望にも関わらず、ああこれでようやくジャックは(そしてワタシも)その苦痛から解放されるのだと、心かき乱されつつも安堵したのだ。それだけに、すべてを知ったアリーが彼女の苦痛を知る間もなく自身を立て直して事態を掌握し、勇猛果敢にアレを撃退する一連からの救済されたエピローグには、アニャ・テイラー=ジョイという女優の目と声と身のこなしに少しばかり縋り過ぎたのではないかという気もしてしまうわけで、その無償の愛が結びつけてしまう母性のジョーカー的な切り札がアリー自身の未来を閉じてしまうことはないのか、彼女の背景がいささか不足していることもあり(構造上アリーは蚊帳の外におかれ続けるとはいえ、彼女の場合の「親」と「家」が描かれることもない)、ある意味でジャックの役目をアリーが引き継ぐことを危惧してしまわないこともないのだ。このあたり、『永遠のこどもたち』におけるラウラの役割をジャックに背負わせたことにより、アリーの役割がクライマックスに向けて血が沸騰し逆流する展開の仕掛けにとどまった点で彼女の曖昧を誘ってしまったようにも思う。とはいえ、ワタシに関する限り『デビルズ・バックボーン』から始まった、失われた子どもたちによる闘争の物語としてその系譜を正面から受け継ぎつつ洗練された更新を果たした点で、すでにジャンルを超えて行ってしまったバヨナの、生を祝福するならば同じだけ死を想うことを忘れてはならない、という間(あわい)のヴィジョンをこのセルヒオ・G・サンチェスに継いでもらえればと思っている。
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2019年04月19日

荒野にて/僕らは廃馬を撃つ

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15歳のチャーリー(チャーリー・プラマー)が歩いていく苛烈なマージナルのラインと、人間の存在など意に介することなくひたすらそこに在り続ける原野の純粋な孤高と、彼が横断していくその聖と俗の出会う場所に湛えられた、生きることの責任としての孤独とその透明な哀しみこそが人間の本質であることをアンドリュー・ヘイは希望の色として染めようとこの映画を撮ったのだろう。勤勉を褒めるデル(スティーヴ・ブシェミ)に、しかし食事のマナーを豚のようだとたしなめられるシーンで、それを言われても腹を立てるでもなく小さく笑うだけのチャーリーには、卑ではないが粗にして野のまま育たざるを得なかった小さな闇の気配がうかがえて、細くて脆い綱の上を本人だけがそれに気づかないままうつむきがちに歩いていく姿は、アメリカが灯す最後のイノセンスがゆらめいているようにも見えたのだ。それがアメリカの流儀だとばかり、そんなものは早いところ吹き消して闇の中を歩く術を覚えろと彼なりの誠実で忠告するデルや、孫娘の体型をジョークのネタに笑い飛ばし、お前も軍隊に入って国に仕えたらどうだと初対面のチャーリーをつつくケンドール氏、それが規則であれ父を喪ったチャーリーを即座に養護施設につなげようと働きかける医師、チャーリーが稼いだ金を奪おうとするシルバー(スティーヴ・ザーン)、といったチャーリーを路上に追い立てるのがみな白人の男たちであったことを思い出してみれば、もちろんそこに父レイ(トラヴィス・フィメル)が含まれるのは言うまでもなく、そうした白人の男たちの社会で生きる彼女なりの諦めや苦渋を経て「チャーリー、ピートはペットじゃないの、ただの馬なのよ」とチャーリーを諭すボニー(クロエ・セヴィニー)や、アイスクリームをそっとおまけしてくれるダイナーのウェイトレスや食い逃げを見逃してくれたレストランのウェイトレス、よくやってくれたからフルで働いてくれないかと笑顔で話すメキシコ人の塗装屋、といった分断された境界の向こうで生きる人々こそがチャーリーを気にかけていたことを忘れるはずもなく、ワタシたちはどれだけ汚されたとしても自分で自分を汚すことはしないのだという真のアメリカの矜持がチャーリーを目的地へと繋いだに違いないと思っている。冒頭で、どこかへ向かうわけでもなく、もちろん自身に課したトレーニングとしてですらなく、ただとにかくここが現在地になってしまうことへの不安や恐れを振り払うかのように走っていたチャーリーは、たどり着いた目的地でもなお走り続けている。冒頭ではチャーリーを励ますように並走していたカメラは、チャーリーをそっと見守るように後ろから追い続けるのだけれど、そこを目指したわけでもない道の真中でふと立ち止まりこちらを振り返ったチャーリーの表情にあったのは、かつて海辺のアントワーヌ・ドワネルが浮かべた淋しさ(loneliness)から孤独(solitude)に向かう流転の徴にも思えたのだ。それは、自分が失ったもの、失わせたもの、失わさせられたもの、それらすべてへの悔恨と怒りとに訣別しなければ自分はどこにも行けないことを知った少年の精一杯で虚ろな懺悔ではなかったか。
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2019年04月17日

ハロウィン/これいただくわ

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※誰が死ぬとか死なないとかいったことに触れています

ローリー(ジェイミー・リー・カーティス)のファーストショットで一気に重心が沈み込み、40年の間ラストガールの呪縛から逃れられなかったベビーシッターが自身を鋼鉄化して待ち構える頂上決戦の予感に、あとはマイケル・マイヤーズ(ニック・キャッスル)の仕上がりを待つばかりということになる。やけにスタイリッシュでミニマルな精神病棟の中庭に若干の不安を覚えつつ、スノビッシュでいけすかないこの報道記者を早いところ屠ってくれないかな、まさかこいつらが狂言回しとかじゃないだろうなと気をもんでいたところが、わりとギリギリな少年殺しすらを肩慣らしにマスクを餌のようにちらつかせたお仕置きを男女等しく食らわせて、このガソリンスタンドの虐殺(最低でも4人殺ってる)では、誰かを滅多打ちするマイケルをガラス越しの遠景で捉えたショットがなかなかに美味しい。おそらくは護送中のマイケルを逃がす手助けをしたのであろう医師サルテイン(ハルク・ビルギナー)が魅入られたようにマスクを被るあたりで『ハロウィンV』的な悪の伝播に色気を出して薄味になるのは嫌だなあと思った瞬間の、あっけないまでのしかし完膚無きまでの粉砕は、お前はルーミス(ドナルド・プレザンス)の足元にも及ばないクソだと虚無の人マイケルですら苛つくこともあるのかといささか微笑ましかったりもする。本来マイケルはストロード家の血縁、もしくはそこに至る障害物を屠るわけで、してみると孫娘アリソン(アンディ・マティチャック)にまとわりつくキャメロン(ディラン・アーノルド)は当然排除されるかと思いきや、定型であれば死ぬことはない冴えないけれど気のいいお邪魔虫オスカー(ドリュー・シャイド)が顔面串刺しの刑で息絶えることになるのだけれど、これは彼のしでかした身勝手なあるいは意図的なコードの読み違いによるアリソンへのキス強要が今日的なタチの悪さとして書き換えられた結果でもあるのだろう。『サプライズ』での窮鼠が猫を噛むわけではないラストガールの暴走は痛快過ぎてなかなかフォロワーも生まれなかったのだけれど、土壇場でカレン(ジュディ・グリア)が見せる不敵はまさにソルジャーのそれで、2人の血走った目に自分の正統な血を嗅ぎ取ったアリソンの一撃によってもぎ取った勝利は、幾多のラストガールたちが囚われたトラウマまでも切り裂いたように思えたのだ。オープニングのジャック・オー・ランタンとオレンジ色のクレジットは78年版のほぼ完コピだし、意味ありげにそよぐ洗濯物のシーツや切り返しのショットによる逆いないいないばあ、窓ごしに見やる仁王立ちショット、などなど78年版へのリスペクトというよりは、またアレが起きているのだという不穏の醸成が冷静な手続きで行われていたことに感嘆するし、何よりマイケル・マイヤーズの中身に余計な詰め物をしなかったことをありがたく思っている。いかにも物欲しげな終わり方が気にならないではないけれど、あの包丁の意味深なカットがラストガールズのさらなる相克も予感させて、どうせやるならとことんやればいいと思ってはいる。
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2019年04月16日

ザ・バニシング -消失- /たらふく飲んで、堕ちていけ

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売店に向かうサスキア(ヨハンナ・テア・ステーゲ)がその途中で転ぶのだけれど、つまずくというよりは操り人形の糸が突然断ち切られたかのように、転んだ本人もその理由がわからないといった風に崩れ落ちる瞬間の、世界の組成が一変してしまうような感覚は、ワタシたちが存在する大前提としての法則を覗いてしまったかのような禁忌の畏れにも近く、それこそがキューブリックのいう恐ろしさの源泉だったように思うのである。レイモン(ベルナール・ピエール・ドナデュー)は、劇中において反社会性パーソナリティ障害という病名を与えられてはいるものの自らそれを隠れみのとするかのように、この世界は善悪の絶対値が完璧に等価だからこそそのバランスが保たれるのだとしたら、善悪のくびきを持たない自分のような人間が世界の法則に近づくためには、英雄的な善なる行動と、考えうる最悪の行為とで、それぞれが自分に働きかける感情にいったいどのような違いがあるのか、違いがあるとしたらどちらがどれくらい勝るものなのかを識らねばならぬというオブセッションへと沈んでいく。こうしたレイモンのなぜなに坊やのように邪気のない純粋な漆黒のオブセッションは、いつしかレックス(ジーン・ベルヴォーツ)を捉えることとなり、犯人を名乗り現れたレイモンの車に同乗しサスキアの運命をめぐるドライヴの最中、レックスはレイモンの常軌を逸した身の上話に笑顔を浮かべさえするわけで、まさかレイモンは実体化したレックスのオルターエゴなのではあるまいかと疑心暗鬼にすら陥る始末であったし、事ここに至ってワタシもレイモンのオブセッションに完全に憑かれてしまうこととなる。してみると、夢に現れる金の卵がここのところ2つになったと話すサスキアはその夢ゆえにレイモンと共鳴したのか、あるいはレイモンの接近がサスキアに予知夢を見させたのか、立ち往生したトンネルの闇の中でリアウィンドウに浮かぶ後続車のヘッドライトはまさに2つの金の卵に他ならず、サスキアを透過したそれは2枚のコインに形を変えて、彼女がそれを木の根元に埋めるよう仕向けたのだと思わざるを得ない。そのコインが財布の中にあったままなら彼女はレイモンに声をかけることはしなかったし、数年を経てそれを木の根元に見つけたレックスが、彼女の絶対的な不在に心を吹きとばされたあげくコーヒーを飲んでしまうこともなかったに違いないのだ。その後でレックスを待ち構えるバッドテイストな結末については、あまりにも鮮やかな伏線の回収に感嘆の嘆息が漏れたほどで、全体のバランスを崩しかねないほどに針を振り切ったところでブラックアウトしたまま終わる選択もあったように思うのだけれど、映画は家族と共に別荘にいるレイモンを捉えて終わろうとカメラはその表情を映し出すわけで、そこに浮かぶ彼岸のごとき静謐は昂ぶりの後の虚脱なのか、いまだ居座るオブセッションへの困惑なのか、それがいかなる道を往くにしろレイモン・ルモンの真の人生がここから始まることを告げていたように思うのだ。オープニングのナナフシからラストのカマキリへ。
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2019年04月14日

レゴⓇムービー2/わたしをバラさないで

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前作で果たした父殺しを経ての、思春期前にしておくべき脱マチズモのすすめをさっそうと展開する、さすが世界最強の知育玩具、のプロダクトプレイスメント・ムーヴィー。バットマン(ウィル・アーネット)はわがまま女王(ティファニー・ハディッシュ)に陥落し、その正体はと言えばエメット(クリス・プラット)のマッチョなオルターエゴだったレックス・デンジャーヴェスト(クリス・プラット)は、アルジャーノンのように消えていく。そんな風にして、すべては最高だぜ!といっぱしを気取って荒ぶる若気の至りに、いやいや世の中すべてが最高ってわけにはいかないけど、だからこそ一緒に最高にしていけるんだよ。スクラップ&ビルドを繰り返してね!と(末長くレゴで遊ぶための)水平性への意識改革がなされていくことになる。現実世界のプレイヤーがレゴ世界に投影されるというこのシリーズのルールというか縛りというか大前提についてはいささか苦労の跡がしのばれて、中盤あたりまではその投影がいったいどこへ転がっていく話なのか見当がつかないことが逆に奏功することで浮力のついた原色のサイケデリアが微熱の夢のように錯乱したこともあり、至極真っ当な収束に向かっていくにつれそれらが失われていくのが惜しまれたのも正直なところだし、アルママゲドンを経て生まれた兄フィン(ジェイドン・サンド)のボロボロシティと妹ビアンカのシスター星のハイブリッドシティが正直言ってさほど魅力的に映らなかった点で哀しいかな映画としては尻すぼんでしまったような気がするのである。それはおそらくレックス言うところの、子供が死のイメージを遊びに投影している(It's all just the expression of the death of imagination in the subconscious of an adolescent!)その作業にワタシがいまだとらわれていることの顕れであるに違いなく、三つ子の魂百までもとはよく言ったものだと、間に合わなかった大人の言い訳などしてみるのである。そしてこれは現状でのエンドクレジット・オブ・ザ・イヤー。ほとんどもうひとつのレゴムービー。
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2019年04月10日

バイス/おまえはなにをして来たのだ

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リン(エイミー・アダムス)に説教をくらっている間、顔にたかったハエを払うこともしないまま身じろぎ一つせずにいるディック・チェイニー(クリスチャン・ベール)の、リンに対する絶対的な忠誠心がそのハートへと打ち込まれた1963年の朝がすべての始まりで、トランプもブレグジットも元をたどればここに行き着くことになる。このシークエンスでリンの野心については出どころが明かされるものの、これが彼の伝記映画であるにしては、1963年のディック・チェイニーを育んだものはなんだったのか、何が多すぎて何が足りなかったのか、といった背景が描かれることはないまま、リンの最後通牒によって覚醒したこの日をアダム・マッケイはチェイニーの生まれた日としたのだろう。そしてチェイニーはラムズフェルド(スティーヴ・カレル)のタガが外れたスピーチを聴いて、ああ、これが許されるならこの世界は俺にも可能だと顔を小さくほころばすこととなり、自分が得意なのは相手が食いつくに違いない疑似餌を選んでおびき寄せては釣り上げる言うなればだまし討ちで、そんなことを繰り返していれば当然嫌われて敵も増えるに違いないにしろ、ここがその釣果だけが問われる世界ならば俺はかなり上手くやっていけるだろうと確信し実践した結果、リンに応え愛されれば愛されるほど世界からは忌み嫌われていくというその図式が鉄面皮で沈思黙考する怪物を生み出して行くこととなる。してみるとラスト近くで唐突に第四の壁を壊したチェイニーが「私は喜んであなたたちに仕えてきた。あなたたちが私を選び、私はそれに応えたのだ。」と語りかけてくる、らしくない言い逃れにも響くそれは、これこそが民主主義という終わりなき実験の証なのだ、というアダム・マッケイの注意書きであって、チェイニーをラスボスにして公開処刑したところで世界は後戻りするわけではないことをその後で真のラストとして付け加えたことに明らかなそれは「いっそう混乱するばかりの世界の中で、わたしたちの生活を一変させてしまう強大な力のことなど気にもとめず目の前ことしか気にしなくなっている。」という冒頭のナレーションへと再び引きもどすことになるのである。とはいえある時期におけるチェイニーの全能感はおそらく想像を超えていたに違いなく、自分たちにたてついた外交官の妻がCIAの秘密工作員であることを「リークしろ」と吐き棄てるたったそれだけのシーンが1本の映画(『フェア・ゲーム』)として成立するほどの事件(プレイム事件)をやすやすと引き起こしてみせるわけで、瞬間的にはほとんどサノスであったとすら言えるのではなかろうか。ここから派生する映画としてはマット・デイモンがイラクに大量破壊兵器(WMD)を探す『グリーン・ゾーン』があって、今作でジェシー・プレモンスを歩兵としてイラクに送り込んだのは計算ずくだろうと思っている。
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2019年04月07日

記者たち 衝撃と畏怖の真実/脇を締め内を狙いえぐりこむように書くべし

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この一連のアメリカに関しては、『グリーン・ゾーン』や『フェア・ゲーム』がそうであったように敗者の申し開きや繰り言をどれだけ誠実に自己検証してみせるかという負け戦が前提とならざるをえないこともあって、不発の響きが通奏低音となってきたわけだけれども、その意味で今作は数少ない真実の勝者の物語ではあるとはいえ、冒頭のシークエンスが湛える静かで正当な怒りのトーンによって、これもまた、開戦を防げなかったという事実において私達は負けたのだという悔恨と懺悔の物語であることを告げていたように思う。政治家やメディアの嘘や欺瞞に顔を上げて立ち向かってきたジョナサン・ランディ(ウディ・ハレルソン)やウォーレン・ストローベル(ジェームズ・マースデン)といったナイト・リッダーの記者たちではあるけれど、そのストローベルが劇中でたった一度だけ自らの無力に対する行き場のない怒りに心を折ってしまうのは、自分やリサ(ジェシカ・ビール)の父親といった市井の人々に自分たちが身を粉にして伝えようとしてきた真実が欠片ほども伝わっていないことを突きつけられた時に他ならず、それは「私たちは他人の子供を戦争に送り出す人たちにではなく、自分の子供を戦争に送り出す人たちのために書くのだ」という社主ジョン・ウォルコット(ロブ・ライナー)の言葉を矜持に真実を伝える覚悟を抱いた者にとっては、死刑宣告にも等しい絶望であったのだろう。しかし、後世においてその報道の正しさが評価されたところで時すでに遅し、というそのジレンマこそが記者たちを真実の追及と事実の解明へと駆り立てるわけで、そうしてみた時、前述した2作品のベースとなった事件および、今作でも政権の走狗として名前のとりざたされるニューヨーク・タイムズの記者ジュディス・ミラーこそが、凡庸な悪として闇も罪も深いように思うわけで、彼女の署名記事の掲載を知って怒髪天を衝いたウォルコットがインクワイアラー紙に自ら乗り込んだのは、それが彼にとって最大の侮辱であっただろうことがうかがえてうなずけもするのである。とはいえ、ランディとストローベルは悲嘆や憤りのメランコリーに沈むでもなく、まったくさ、記者になんかならなきゃよかったよ、ウッドワードとバーンスタインなんかのせいでさ。あつらは大統領を引きずり下ろしたけど、こっちの大統領は歴代の最悪をやらかしといて多分再選すらされるんだぜ、民主主義的の実験てやつに乾杯!とかいった感じの自嘲と自虐で自分にムチを入れるあたりはいかにもロブ・ライナーらしいし、そもそもが責任をとらないやつにはいつまでも指をさし続けていやがらせをしてやるぜという気概が撮らせた映画であるからこそ、自分のクロースアップをあれほどぶち込んできたに違いないのである。それにつけても思うのは、シドニー・ルメットの不在であることよ。
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2019年04月02日

岬の兄妹/岬で待つわ

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邦画インディーズならではの半径5メートルの映画にはちがいない。しかし、その這いずる底を踏み抜いて、あとは底なしの底を手に入れることさえすれば落下の距離はどこまでも果てしなく自由だ。そしてこの映画は自由になっている。さすがに良夫(松浦祐也)は二の足を踏むだろう。踏まない。とはいえさすがに今度こそ良夫は二の足を踏むだろう。踏まない。踏まないのでは踏めない。踏んだら底に激突してしまうからだ。真理子(和田光沙)はそんな良夫の脇で笑いながら落下していく。それまで人生が停まってばかりだった真理子はそのスピードに笑いっぱなしだ。と、真理子以外の誰もが最後までそう思ってこの映画を観続けることになる。身体障害者と自閉症と小人症とヤクザと高齢者といじめられっ子が周縁で出会う話であるけれど、そうした字面ほどには特殊な出し入れを必要とするわけでもないのは、それらの人たちが仮託されたメタファーではなく、良夫と同じように二の足を踏まない人として描かれ2人と同じ速度で落下し続けることでずっと等距離を保ち続けるからなのだろう。したがって、肇(北山雅康)や社長(中村祐太郎)といった踏み抜かない人たちは置いてきぼりの異物として描かれることになり、この清濁の逆転はなかなか痛快に思える。したがって、ことさらフリーキーを煽るようなカメラワークに頼ることなく観たいものと観せたいことをきちんと捉えてくれる点においてカメラはとても誠実で、とくにストーリー上避けては通れないセックスにまつわるあれこれをカット割りやフレームの操作でごまかすことをはなからする気がないこともあり、メインストリームの邦画が避けて通ることしかしない人間の営為を不自然にずらすことのストレスは、清々しいまでに感じられない。それどころか、真理子が次々と身体を躱していくシーンを叙述する変形のオーヴァーラップや、曇りガラス越しに一瞬わきあがる真理子の肢体など、むしろクリエイティヴィティはこちらに注力されているようにすら思う。夜でも朝でも昼でもない空を背に良夫が地獄のふたを開けていいかと真理子に尋ねる震えるようなシーンと、他人のカップ焼きそばを目の玉ひんむいてすすり上げるシーンをぐうの音も出ないポエジーで地続きに描く地肩の強さにも恐れ入る。あのカップ焼きそばの切実は『万引き家族』の比ではなかった。そうやって果てしなく続くかと思われた良夫と真理子の地獄めぐりは、ある変遷を経てふりだしに戻ったかのような円環を“真理子以外の誰もが最後までそう思って”うかがわせるのだけれど、ラストで振り返った真理子がたずさえるその目つきが、したり顔の円環を一瞬で血祭りにあげることになる。良夫はもちろんお前たちも、わたしが何も知らない人間、お前たちのように知ることのできない人間だと思っていただろう、良夫が夢の中で果たされぬ幸福を思い描いたように、わたしが夢の中で何を思い描いたかなど考えたこともないだろう、わたしが鎖でつながれるのは仕方のないことだと思っただろう、わたしには堕胎が切り裂くような心がないと思っただろう、わたしにはお前たちとは違う種類の幸せをあてがっておけばいいと思っただろう、わたしをひとりの人間として見たことなどなかっただろう。だからわたしは、わたしを取り巻くすべての世界を断罪する。覚悟しておくように。
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