2019年03月31日

サンセット/私という名の謎に

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サウル・アウスランダーがそうであったようにワタシはレイター・イリス(ヤカブ・ユーリ)だけを見ていればいいのだと、ネメシュ・ラースロー作品専用の本能が察知する。すべてのシークエンスに居るイリスが目にするものを強迫的に伝えるカメラは、偏執的と言ってもいい身のこなしで彼女の体ごしにあちら側を覗こうとまとわりついていき、となれば前作がそうであったように状況を俯瞰し説明するショットなど望むべくもなく、彼女が知る由もないことはワタシも知る由がないまま、ただ一つオープニングで宣言されたように、これはイリスがヴェールを上げることで始まる物語であること、そしてそれを一度上げた後では後戻りすることなど命の限りにおいて叶わないことだけを確かに、歴史の濁流がまき散らす暴力と死のメランコリーに陥穽され翻弄され、混乱し困惑し、しかし私はそれらを傍観し受け入れてしまうわけにはいかないのだ、なぜならそれらの一部は私で私の一部はそれであるからだと、イリスはその道行きで知っていくのである。そしてついにはカメラの呪縛を振り切り追いすがるそれを正面から見据えるラストにおいて、彼女がどこで何をしている人間となったかを知る時、ウィーンから来た男を殺せという囁き、王宮へひた走るブラッドハーレーの馬車、そして避けられぬテロルの季節と帝国の終焉が告げる世界秩序の崩壊に呼応すべくイリスが獲得した彼女自身の秩序を映画は告げてみせるのだけれど、塹壕の彼女が身を置く大量破壊の奔流がやがて『サウルの息子』を産み落とす運命を既にワタシたちが知ってしまっていることを想う時、歴史と刺し違えるべく身を投げ出した記憶を持つ世界中のイリスに向けたしめやかなレクイエムのようにこの映画は響いたのだ。主人公の体験する世界の瞬間をその知覚した光と影であふれるように伝えつつ、しかしそこに内省を補助するセリフやカット、インサートをいっさい与えることをしないイデアとしてのショットに対する絶対的な崇拝に、まるで祈りのように終始止むことのない長回しが捧げられ、それはスクリーンが導くことの傲慢よりはいっそ誤解を受け入れようという観客への信頼を自らに課しているようでありつつ、そこにはうっすらとした絶望も透けて見える気がするからこそその野心の敬虔に共感するに違いなく、それは精緻を極めつつもそこに信頼や絶望を必要としないキュアロンの『ROMA/ローマ』とは対極にあるようにも思うわけで、強圧的な映画の成功体験を浴び続けることでいつしか被る不感症に処方された劇薬にして傑作と、この映画のことを考えたい。こういうのがないと少し困る。
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2019年03月27日

ブラック・クランズマン/非國民の創生

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ムーキー以来、スパイク・リーがこれほどてらいなく投影されたキャラクターもいなかったように思わせる、そしらぬ顔のトリックスターにしてシステムへの実行犯たるロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)の道行きだったのである。怒りに身をまかせるカウンターに自己陶酔するのではなく、システム(警察)の内部から自分の目で視て自分の言葉で話すことにより状況を導いていくロンの足取りは、ハリウッドシステムに罵声を浴びせつつその内部に居続けることで発言権を手放すことのないスパイク・リーそのものに思えたし、劇中で描かれるロンとパトリス(ローラ・ハリアー)の相容れなさは、スクリーンの外でのブーツ・ライリーによる今作への批判(「実際のロン・ストールワースは破壊目的で黒人急進的組織にも潜入している。これは結果的に警察=NYPDの広告キャンペーンを担っている」)によって現実的に補強すらされている。それに対してスパイク・リーは「確かに警察は批判を受けるけど、すべての警官が腐敗してすべての警官が黒人を憎悪しているとは思わないし、言いたいのはさ、警官は必要ってことなんだよ。そもそも黒人だって一枚岩だったためしなんかないだろ。あんなブルジョワがどうやってマルコムXやれるんだよ、とか言っていただいたのも黒人だし」とコメントしていて、KKKをコケにして高笑いする映画なんて誰にでも撮れるけど、笑った後の醒めて倦んだ気分がやって来るところから俺は始めたいんだというこの映画の気分にうなずけもするのである。かと言ってスパイク・リーが高みから俯瞰したままであったのかというと、劇中で誰か他人のために顔色変えて走り回り車をとばしたのはロンただ一人であった点で、それを厭うつもりなどあるはずがないことも告げていたように思うのだ。全体のトーンとしてはそれを装いつつもこの映画がオフビートな丁々発止で転がっていくリズムにまったく拘泥していないのは、クワメ・トゥーレ(コーリー・ホーキンズ)とジェローム・ターナー(ハリー・ベラフォンテ)の2人の演説を抜粋ではなく最初から最後までフルで収めている点にもうかがえて、ほとんどこのシーンのためだけに、ロン・ストールワースという男を利用したのではなかろうかという気すらした。撮ろうと思えば熟練したアルティザンの手つきでコメディだろうがドラマだろうがいくらでも撮れるスパイク・リーだけにこの歪が確信的であったのは言うまでもないし、ターナーの語りとKKK入会の儀式がカットバックでもつれあいながら怒りと昂揚をもつれさせていくシーンをこの映画のピークとデザインしたのは間違いのないところだろう。そして冒頭のインサートと呼応するエンディングは、確かにあれはあれで相当なクソには違いないが、言ってみれば作りもののクソだ、でもこれは正真正銘本物のクソであってその臭いは一生洗い落とせるはずなどないんだよ、なのに洗い落とした気になってるデオドラント野郎のためにこうやってまたそのクソの臭いをなすりつけてやるんだ、それで映画一本潰したとしてもな!という脱臼しそうなほどに立てられた中指であって、そういう人間が、ぼくらの尻はクソなんかしたことがない気がするくらいきれいさっぱりだよとでも言いたげな映画へ掴みかからんばかりにブチ切れるのはなんら不思議はないように思う。
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2019年03月25日

キャプテン・マーベル/ここは退屈迎えはいらない

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アクセル・ローズの音楽的な貪欲と渇望が他のメンバーのアメリカン・バンドな倦怠と退廃には噛み合わず、例えばナイン・インチ・ネイルズ的なインダストリアルへの接近(UYI ”My World”)をバンド分解のきっかけとするならば、かつてアクセル・ワナビーだったキャロル(ブリー・ラーソン)がNINのTシャツを着ることの意味は止められない野心の象徴としてうなずけるところも大きかったのだけれど、ではNINのTシャツを脱いでいまやキャプテン・マーベルとなったキャロルが着たTシャツが何だったのか、もうそんな風に心穏やかに落ち着いて聞き分けよく丸めてしまうのかと少しだけ落胆したのは確かで、結局のところすべては90年代の“いなたい”ノスタルジーをあるあるとしてあげつらうだけのブロックバスターやラジオシャック、AOLやWindows95、CRTディスプレイと同じように貼りつけられたステッカーに過ぎなかったのかと、ジャケットだけにとどまるPJ ハーヴェイにもなんだかモヤモヤしたのである。キャロルの発現をガラスの天井の破壊へとつなげるコンセプト自体は今語られるべき物語としてスマートにフィットしているだけに、そうした真顔を冗談めかしたオフビートでさらに反動をつけるそれなりの手練手管が求められる語り口としては、必ずしも諸手で成功を祝えるようには思えなかったのが正直なところ。手かせが外れた瞬間のウッシャア!と弾ける表情や、不機嫌と屈託をねじ伏せる目つきの鈍色に光る色つやなど、バストアップで捉えるブリー・ラーソンは文句なしにはまり役なのだけれど、近接の格闘アクションになると途端に顔の見えないカットが増えてしまうこと(しょっぱなのジュード・ロウ戦)や、ロングショットでのスタンドインによる動きとの明らかな落差など、MCUにモダンな説得力を与え続けてきたアクションの肉体性という点では前述した90年代的いなたさがキャロルを覆ってしまう気がするのも確かで、予告篇で流れたMIBの新作を格の違いで圧倒しない違和感と地続き感はその証左に感じてしまう。ブリー・ラーソンが新たな神として適役でチャーミングなのはまったく異論のないところなのだけれど、その彼女をおさめるのがハッピーデイズのランチボックスだったというハズし方に、これがそういうクスクス笑いの中和が要る話なのかどうか、何だかもったいなくて思えてしまって仕方がない。なんと言っても、PJ ハーヴェイのセカンドがリリースされたのが1993年だから、たった15年の間にニック・フューリーがああまで変貌してしまったことが一番の驚き。いったい何があった。猫の毒がまわったか。
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2019年03月23日

ちいさな独裁者/地獄に堕ちた愚者ども

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※モノクロ版で鑑賞

世が世なら、もしくは時と場合によっては、ヴィリー・ヘロルト(マックス・フーバッヒャー)をナチスの権威をあざ笑うピカレスクとしてもてはやすことも可能だし、実際のところ、ヘロルトがいかにして局面を切り抜けるのか彼の無事をサスペンスとするワタシであったりもしたわけで、彼らが実在したのかどうかは不明ながら、フライターク(ミラン・ペシェル)とキピンスキー(フレデリック・ラウ)という2人の兵士をそれぞれ性善と性悪の象徴としてヘロルトの両サイドで対照させることで、観客がヘロルトを見据える視点を失わないようデザインした監督の意図は明晰に思えた。将校(の制服を着てい)ながら腹は減っていないかと気さくに果物をくれたヘロルトに対するフライタークの階級を超えた感情と、会った瞬間にズボンの裾を見てすべてを察しながらそれを暴くよりはこの制服の嘘っぱちに乗ることを得策としたキピンスキーの、この2人に対するヘロルトのふるまいに制服の怪物が成長していくさまが投影されていくこととなり、とりわけヘロルトの変貌を間近で目の当たりにしているフライタークにヘロルトが施す通過儀礼は凡庸な悪を生産するシステムそのもので、当時のドイツであちこちに生まれうごめいていたであろう小さなヒトラーをヘロルトに追うことで、その卑俗な正体をミクロからマクロへと喝破してみせたように思うのである。収容所の爆撃後にインサートされる劇中でただ一度パートカラーとなるカットを境にヘロルトとその仲間たちは退廃と堕落の地獄めぐりを繰り広げ、その執拗な描写によって救済を与える余地の一切を監督は徹底的に潰していくわけで、このあたりはヒトラーが描かれる時の両義性のような手配に対する苛立ちや嫌悪によるものなのだろう気がしている。作劇上のカウンターとしての演出もあったのかもしれないけれど、敗戦を目前にした戦争末期の収容所ですら法の秩序は維持されようとしていたわけで、この映画に寓話性よりは直截的な警告のメッセージを見出さざるを得ないほど今ワタシたちがいる場所は底が抜けていることを伝えるヘロルトを、道化と指さして笑うことなどできるはずがなかったのだ。荒涼としたモノクロームに血の赤で浮かび上がるタイトルや前述したパートカーラーの効果はともかく、何より人間の「汚れ」を浮かび上がらせる白と黒のコントラストを犠牲にした点で、モノクロームをカラーにすることで観客を訴求するハードルが下がるという客観的なデータがあったとしても、映画のポテンシャルを味わい尽くすことの叶わないカラーで観ることの意味がワタシにはよくわからないなと思った。
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2019年03月20日

スパイダーマン:スパイダーバース/ある日、とっても大事でおかしなことがおきた

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2020年目前の最新型サイケデリアは、エアジョーダン1が解き放った重力とスプレー缶の蛍光色が織りなす解放宣言の打ち上げ花火にも思え、少しだけ大人にならなければならないぼくたちのお遊びはここまでにしようと言ったサム・ライミの目配せに、大人にならなければならないのは大人の方だよね、ぼくたちはぼくたちのやり方でやれるけど、と走り出し飛び出していく自由の証明に不意打ちを食らって、覚めてたつもりの目がさらに醒めた気がした。少年マガジンとか少年ジャンプを貪るように読んでいたころの画と吹きだしを映像として呑み込みんでは高速で斜め読みしつつページをめくっていく恍惚と、ブラウン管ににじむ三原色のゆらぎのような、躁病的にモダンでありながらどこか懐かしさすら感じさせる手ざわりはそれを漏れなく伝える言葉が見当たらないにおいて、何を見ても何かに見える昨今ではめったにお目にかかれないブレイクスルーであったと言うしかないのだろう。言うしかないのだろう、などど書くとなんだか悔し紛れに聞こえるかもしれないけれどそれはまったくの逆であって、まだこんな風に発見される新天地があることやそれに立ち会えたことへの幸運と光栄の響きと捉えてもらえれば幸いといったところである。劇中でキーワードとなるディケンズの「大いなる遺産」がやはり墓場から始まる物語であったことを思い出してみると、マイルス・モラレス(シャメイク・ムーア)が墓場で助けた(わけではないけれど)ピーター・B・パーカー(ジェイク・ジョンソン)との関係や、そのつながりにおいてマイルスが何者かになることに手を貸してくれた仲間を元いた場所に送り返すための奮闘、自分の唯一のバックアップだと思っていたアーロンおじさん(マハーシャラ・アリ)の予期せぬ正体、といったスパイダーマン版「大いなる遺産」を経たのち、ドア越しに語りかける父(ブライアン・タイリー・ヘンリー)の言葉によって、グラフィティで描いたNo ExpectationsからGreat Expectationsへ、Expectationのダブルミーニングが「大きすぎる期待」から「大いなる遺産」=父から子への無償の愛に書き換えられることで、マイルスはそれに応えるべき自分をついに見出すこととなり、それこそは「困っている人がいたら迷わず手を差し伸べるのがヒーローだ」というゆるぎのない命題であることに他ならないし、それを今までに知ったことのない現時点で最良かつ最上のやり方で伝えることをしたこの作品をどうすればすべての人々の目に逆ルドヴィコ療法のごとく焼き付けることができるのか、それが叶わないことがストレスになりつつあるのが悩ましい。
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2019年03月17日

ウトヤ島、7月22日/永遠まで72分

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殺し方や殺され方は描ける。なぜ殺されたかについて言えば形而下としては描けるけれど、なぜ殺したかについては現場の再現のうちに描くことは困難に近い。それを描こうとするには『エレファント』のように犠牲者側を背景とするしかないし、それとて結局は形而上を装った形而下的な処理に過ぎない。ヴィルヌーヴ『静かなる叫び』は両側から攻めようとした好例ではあるけれど、事件の細密な再現がポルノ化しないよう着せた服がややスタイリッシュに過ぎて余白ですらがコントロールされた気もしてしまう。犯行再現ものの根底にあるのは本音で言えばスリルとサスペンスの間借りであって、断罪や鎮魂を掲げるのがある種のアリバイのようなものだとすれば、無い袖を振って虻蜂取らずになるよりは被害者のメランコリーを叩き鍛えることでレクイエムの強度を増す手法を確立したのがピーター・バーグで、実録ものであるにも関わらず事実を再解釈/再構築する狂言回しとして架空のキャラクターすらを動き回らせる潔さ/あざとさは、俺が鎮めようとしているのは犠牲者やその家族はもちろんのことすべてのアメリカ国民なのだという確信をてらいなくぶち上げていて、好みの問題はともかくこのジャンルでの豪腕に現状で並ぶ者がいないのは確かだろう。してみると、カヤ(アンドレア・ベルンツェン)という架空のキャラクターをしつらえて自己犠牲と混乱と絶望をつづれ織りにすることで、あの日あの島で起きた悲劇の犠牲者とその家族や友人たちを第一義に鎮めてみせようとする手法にピーター・バーグ的なケレンを見たのは確かであるし、マグナス(アレクサンデル・ホルメン)がカヤとかわす「家に帰れたらケバブ食べに行こうぜ、うまい店知ってるんだ、約束な」あたりのいかにもな死亡フラグの脚色に張りつめた時間が緩んだこともあり、その後に訪れる死が不条理を手放してしまっていた気もしたのである。悲劇をもたらす側については、ほとんど発砲音のみの存在と化してただ一度だけそのシルエットがロングショットで映されるにとどまり、ピーター・バーグの上をいくさらに徹底的な記号化が推し進められている。カヤが森の中で出会った瀕死の少女の顔色が次第に土気色へと変わっていくあたりはデジタル処理の恩恵なのだろうけれど、そういったポスト・プロダクションの気配によって72分間ワンカットという現場処理の肉体性がもたらす熱気や血気が冷めてしまう気もしたし、実際のサプライズショットであったらしい一匹の蚊によるポエジーですらもどこかしら作り物めいてみえてしまう自分を窮屈に感じてしまうのも確かなのだった。予期せぬ撮れ高への昂奮は理解するけれどあのズームは余計だったと思う。ちなみに7月22日はワタシの誕生日でもある。
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2019年03月14日

ROMA/キュアロンのローマ

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犬の糞を洗い流す水に映る飛行機が、あれに乗る自分を思ってみる術すらないクレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)そのものであったとすれば、海辺の記憶が沁み込んだ洗濯物を抱えて屋上へと向った彼女がラストで見上げるであろう空を幾度となく横切っていく飛行機は、ここではないどこかへと気持ちをめぐらすことのできる今のクレオの広がりにも思えたのだ。自分がどこから来てどこへ行く存在なのか、生と死の間にいる自分を意識し理解する物語へメメント・モリがクレオを連れ出していくのは、ペペ(マルコ・グラフ)の遊びにつきあって屋上で死んだふりをした始まりに見てとれて、新生児室のクレオを襲う地震、山火事や白人たちの銃といった脅威の気配が彼女につかず離れずしつつ、通りで巻き起こった死が家具店の中になだれこんできた瞬間、ついにそれに捉えられたクレオは暴力的な喪失を余儀なくされることとなる。しかし、冒頭で流れ続ける水から始まり、身を清めるような朝のシャワー、フェルミン(ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ)を追ってバスを下りた地の水たまり、山火事にぶちまけられる水、白人たちが射撃に興じる時の水辺、砕けたカップに残る酒、破水してクレオの足を伝う羊水、といったように絶えずクレオから離れない水のイメージが最後にはどこでいかに収束するのか、それは自身を翻弄する運命に水のように流されるばかりであったクレオが、生と死の淵に砕ける破壊的な波に抗うことで手にする再生の瞬間であり喪失への贖罪へと導く流れであったように思うのだ。海からの帰り途、車中でみせるクレオの表情に浮かぶのは自身の人生に対する責任を識ったものの軽やかな不安と緊張の色にも見えて、既に彼女が新しい世界へと踏み出したことを密やかに宣言してみせている。してみれば、家の外のことしか頭にない男たちに見切りをつけた祖母、実母、乳母の3人の女性たちに守られる子どもたちと家の記憶を紡ぐ物語として読み込むことを求められはするものの、年齢も誕生日も知られることのない乳母クレオと“雇用主”ソフィア(マリーナ・デ・タビラ)を串刺しにすることで共闘の証とするには、その捧げる犠牲の重さも踏み出す一歩の距離も異なるように思うわけで(『グリーンブック』のことが頭に浮かぶ)、キュアロンはそのアンバランスを気がかりとしたからこそ、終始佇むばかりであったカメラは最後の最後でクレオだけを追って空を見上げることでいくばくかの祝福としたようにも思うのだ。人間の営為の息づかいをハイパーリアリズムの人工的な艶めかしさでいろどったモノクロームはいつしか聖性すら帯びて、クレオの所作の一つ一つが儀式の遂行のように映り始める。ならばその祭壇とも言えるあの家の開放と閉塞の絶妙はまるで一人の俳優のように脈打っていたし、これが少年キュアロンの記憶の物語であるならば、クレオに寄り添うような位置で静かに漂い続けるカメラはまさにその小さな神様の視点にほかならないということになるのだろう。まるで洗礼のようにクレオを試し問いただすあの波の、禍々しいまでに砕け踊る水の粒と轟音はほとんど催眠的ですらあるのだけれど、これを映画館のスクリーンとサウンドシステムで体験できないとなると果たしてワタシは何を持ち帰れたのか、何よりそれはこの「映画」にとって不幸である気がしてならないのだ。常により良い製作のシステムを追求する姿勢は言わずもがなにしろ、最終的にはスクリーンで出会うのが本意であり総意であって欲しいと思う。できることなら、確認ではなく体験をワタシは望みたい。
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2019年03月13日

運び屋/罪を憎んで俺を憎まず

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朝鮮戦争の復員兵が一日だけ咲く花にいかにして取り憑かれていったのか、などといったアール・ストーン(クリント・イーストウッド)のプロファイルも、さらさらと流れ続ける物語のたたえる水面の透明と静謐にあってはそれを乱す澱みでしかないのだろうし、『ハドソン川の奇跡』以降さらによどみの消えた語り口の最初から最後まで一糸乱れることのない歩幅と息継ぎもあって、まるで一筆書きのような116分にも思えたのである。ではそれがもたらすのが恬淡と枯れた味わいであったかというとそうたやすいものであるはずもなく、すべての登場人物が否応なくアールの後ろをそぞろ歩きしてついて回る羽目になることもあり、ブラッドリー・クーパー、マイケル・ペーニャ、ローレンス・フィッシュバーン、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシアといったそれなりに手練な面々のパートですらが、ハーモニーというよりはユニゾンで奏でられるせいなのかすべてが均等に無効化されていたかのようで、『15時17分、パリ行き』を経たことで役者と演技という命題について何かおそろしい極北にクリント・イーストウッドは到達してしまった気がしないでもなく、それもこれもすべては、パンクして道端で立ち往生する黒人の家族に気さくに手を貸しつつ彼らを軽やかに二グロと呼び、メキシコ人のお目付け役をタコス野郎と呼んで白人御用達の店に連れ込みつつここのポークサンドは中西部一だから食ってみろとふるまうアールの両義性をすりつぶして全体性へと均すための参照物でしかないという割り切りの要請であり、おかげでアール以外のほとんど誰もが木偶に映らざるを得ないおだやかに異様な演出となっている。せいぜいがダイナーでの捜査官(ブラッドリー・クーパー)との絡みが唯一立体的な交錯となったくらいで、黙ってにやにやしていた以外のローレンス・フィッシュバーンをワタシは覚えていないし、妻メアリー(ダイアン・ウィースト)との最期までドライな熱量に終止するシークエンスも、アールのニヒリズム寸前のノンシャランへと呑み込まれていたように思うのだ。それらすべてはアールという男の人生の道具立てでしかないことは、ラストで舞台の左袖へと退場していくアールをとらえ続けるカメラの長回しが物語っていたし、携帯電話やインターネットに毒づきゴージャスな娼婦を両脇にはべらせ、誰にも使われずにおまえ自身の人生を楽しめと悪党に説教し、すべての不義理を笑って許してもらうアールの漂白する軽みこそが、いつしかGo ahead, Make my dayの薄笑いにつながっていく気がしたのである。そういえば、北野武もメソッドを嫌う早撮りの人で埒外の俳優を好んで起用したことや、台詞と台詞の間で一瞬だけ間をあけてその場で足踏みをするよう演出したバストアップのショットが、フレーム内では見事に感情のゆらぎや溜めとなって映し出されていたという市川崑のエピソードなども思い出してみれば、演技は現象でしかないという透徹した認識の極北がここにある気がしたのであった。
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2019年03月10日

ノーザン・ソウル/その気になれば死ぬこともできた

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デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズであるとかヴィック・ゴダードであるとかオレンジ・ジュースであるとか、いちいちバンド名を挙げていたらきりがないにしろ、イギリスでパンクの蹴破ったドアから現れた若きミュージシャンたちが様々なグラデーションでまとっていた「黒さ」がその音楽に一面的ではない陰影を与えていたのは言うまでもなく、そのいくつか前の世代のブルースベースのロックとは明らかに異なるリズムの熱気とメロディへの憧憬はいかなるDNAによるものなのか、海のこちらで音源と二次情報にすがるしかない身には知るよしもなかったのだけれど、70年代のイギリスで彼や彼女たち若者が鈍色に倦んだ毎日へのキックとして摂取していたのがその「黒さ」に他ならなかったことをこの映画は一発回答で教えてくれたように思うのだ。ザ・ジャムでデビューしてイギリスを席巻したポール・ウェラーが手ぐすね引いた音楽メディアに貼りつけられた懐古主義者のレッテルに「いったい20の若者がどうして懐古主義者になんかなれるんだよ」と唾をとばしたことなども思い出してみても、後にカーティス・メイフィールドをカヴァーしつつザ・スタイル・カウンシルへと舵を切るそのスタイルの源泉もようやく瞭然になった気がしたのである。そんな風な個人的なミッシング・リンクとしての感銘はともかく、イギリスのユース・カルチャーの通奏低音とも言える、怒れる若者たち(Angry Young Men)の知られざるステイトメントをその土曜の夜と日曜の朝として描いたこの映画は、すべてがあるのに何もない泣きながら笑って踊るダンスフロアの刹那を暗闇の閃光のように燃やしつつ、しかし新たな土曜の夜を予感させて終わるラストが、その後のセカンド・サマー・オブ・ラブからマッドチェスターへと連なるノスタルジーではない血流の再確認を促したようにも思ったし、何より劇中でそれを先導するジョン(エリオット・ジェームズ・ラングリッジ)とマット(ジョシュ・ホワイトハウス)が身体ひとつでのたうちまわる青春の彷徨と失敗が夜明け前の匂うような漆黒を引きずり出して、なぜ自分はイギリスに生まれなかったのかという我が10代の呪詛が亡霊のように甦ったりもしたのだ。そしてここイギリスでも、持たざる者の守護神ブルース・リーがそのアイディアとスタイルを、君たちの好きなように使えとどんづまりのボンクラどもに貸し与えていたのであった。
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2019年03月05日

グリーンブック/世界はおれより複雑っぽい

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アーミッシュをおちょくり肥満女性をルッキズムで切り刻み、シャム双生児をシャム双生児ゆえに笑い飛ばしたりと、露悪な当たり屋として名をはせてきたファレリー兄弟がそれでもキャリアを永らえてきたのは、おちょくる側にもなんらかの欠落や欠損を持たせる被虐と自虐のバランス(シャム双生児は一人二役でそれをこなしさえする)によって水平かやや低目からの視点でわけへだてなくいじり倒してきたからで、今作は兄弟名義ではなくピーター・ファレリーのソロ作ではあるけれど、黒人差別という厄介で強大な相手を前にしても、黒人であるドクター・ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)をストリートに引きずりだして肩を組む役目を担う白人トニー・“リップ”・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)を白人は白人でもWASPではなくイタリア系移民とする巧妙かつ絶妙なずらしによって“ニガー”と“イタ公”のバディものという自家薬籠中の物に落とし込む手口は相変わらず手慣れたものだなあと思ったのだ。ただ、トニーにとってのゴールが「(ドンを)ニガーとか言うな」と親類をはねつけるシーンであった一方で、自身の人間性を奪い取った世界への屈託から人間性なるものを拒絶したドンがもう一度世界を信じてみようと一歩を踏み出すゴールに、トニーのそれに比べてかなりのドラスティックを強いたにしては、これがあくまでトニーの物語であり続けた点でその収支のバランスの悪さに少しばかりもやもやしたのも確かだったのだ。とはいえあれだけ際どいところをすりぬけてきた監督のコントロールを牧歌的な額面通りに受け取っていいものなのかどうか、さらに額面通りに受け取るならもう移民と棄民だけで手をつないで自称白い人たちはほったらかしにしとけば?ともとってしまえるわけで、大量のフライドチキンと茹でトウモロコシが晩餐会のテーブルに運び込まれるシーンなど、いささか記号的に過ぎるとはいえ自称白い人たちの下等な生き物としての扱いは、そもそもドンの南部ツアーそれ自体がミンストレルショーのグロテスクな再現であることを思い出してみれば、そこに集う着飾った自称白い人たちにまとめて唾を吐く魂胆にも透けて見えたのは確かにしろ、そうやって自明なことを再燃させたとしてそれが現在にどう接続されるのか、アメリカがもう少し若かった頃のやんちゃなノスタルジーとして消費されてしまうことはないのか、という殴られ続けてきた側からの異論や反論は至極当然なものにも思える。それでもこの題材を2018年に生き返らせたかったのであれば、やはりマハーシャラ・アリが主演男優賞にノミネートされる物語に再構築すべきだったのではなかろうか。はからずも『ROMA』の防波堤にされたことでステージの前面に押し出されてしまっただけで映画に罪はないのは言うまでもないのだけれど、罪はなくても映画が人質にされる時代なのは確かであって、そういう覚悟がない者にはこのステージに上がる資格がないことをスパイク・リーは怒っていたのだろうと思っている。大人気のあるスパイク・リーなどスパイク・リーではないとは言え、さすがにあれは大人気がなさ過ぎたけれども。
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2019年03月04日

THE GUILTY/ギルティ〜見えないおれを照らしてくれ

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予期せぬ叙述トリックによる奈落への反転によって、アスガー(ヤコブ・セーダーグレン)の枷が外れる。白と黒のあいだで灰色に塗れて清濁を併せのむことなど、たやすいどころかこれがおれの天職だとすら思ったこともある。ただ、ひとたびそこに足を踏み入れてみるとこの世界は想像が追いつかないくらい灰色で塗りつぶされていて、いったいどれが清くてどれが濁っているのか視界はほとんどゼロに近いままだし、白いところから灰色や黒いところに息をひそめて出かけて行っては窒息寸前で戻っていくことにもそのうち倦んでしまって、ならばもう帰ることなどやめてそこで灰色や黒い息の継ぎ方を覚えた方がよっぽど楽なことに気づいてしまう。それに気づくということは妻や友人たちのいる白いところでどんな風に息を継いでいたか忘れてしまうということだけれど、忘れたことが哀しいというよりは思い出すことが怖ろしくなっていくのはなぜなのか。それはその境目にあるものが居て、思い出そうとするたびに酷くつらい痛みを与えてくるからで、それをなだめてやるためにおれは狂ったような怒りを蓄えてはそいつに喰わせてやっている。すると痛くするのを一瞬やめてくれるのだ。ラシード(オマール・シャガウィー)が底なしに酔うのも、おそらくそうやってそれをなだめているにちがいない。だからイーベン(イェシカ・ディナウエ)が蛇のことを言い出した時には、ああ、あそこにいつもいておれを痛くするのは蛇だったのかと天啓にすら思えたし、明日は無理でもいつの日かノット・ギルティではないイノセンスを手に入れるには、もう誰もあの蛇に殺させてはならないことも分かったのだ、瞬時に。弾はあと一発だけある。今までこれくらい分が悪かったこともないはずだけれど、運が良ければ相討ちくらいにはなるだろう。そうすればラシードも解放してやれるにちがいない。だからおれは告白する。そして蛇を殺す。
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2019年03月01日

ビール・ストリートの恋人たち/生きのびるための私

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「心の準備はできている?」と正面から目を見つめてたずねるティッシュ(キキ・レイン)に「いつだってこの心が揺らぐことはない」とファニー(ステファン・ジェームズ)が答える恋人たちの会話がひそやかな悲壮感に締めつけられているのは、おそらくそれが収監されるファニーとそれを見送るティッシュに残された2人だけのひと時だったからで、かつてはファニーが問いかけてティッシュが答えたその同じ会話が反転するまでの物語がここからファニーの回想によって綴られていくこととなる。しかし、最愛の人であると同時にお腹の赤ん坊の父親であるファニーに無実の罪を着せた白人警官ベル(エド・スクライン)や、その非道にいきり立つも結局はファニーを救えない白人弁護士ヘイワード(フィン・ウィットロック)は極めて記号的に悪い白人と良い白人として描かれるにとどまり、彼らがティッシュの世界を彩る感情の一筋となることはないまま憎しみや怒りやあきらめといったスパイク・リー的な外部との構図については無頓着とすら言ってもよく、旧友ダニエル(ブライアン・タイリー・ヘンリー)との再会とまるでその後の呪いを示唆するかのようなファニーとの不吉な会話に耳をそばだて、ファニーを救う費用を捻出するため悪事に手を染め始めるティッシュの父ジョセフ(コールマン・ドミンゴ)とファニーの父フランク(マイケル・ビーチ)の姿を醒めた視線で語るティッシュと、世界の現実を渡り合うためにまずは自分自身がしなやかで強靭な現実であり続けねばならないことを娘たちに背中で告げる母シャロン(レジーナ・キング)こそがビール・ストリートの声(”If Beale Street Could Talk”)そのものであることをバリー・ジェンキンスはジェームス・ボールドウィンのコアとして抽出したのだろうし、そしてそれは、藤本和子氏が「塩を食う女たち」においてたどりついた“わたしたちがこの狂気(黒人の北アメリカにおける歴史的体験)を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う”という黒人女性作家の言葉と深く静かに共鳴したように感じたのだ。ヴィクトリア(エミリー・リオス)にアプローチを烈しく拒絶され「しくじった!」と自らを罵るシャロンの誤算は、彼女もまた自分たち黒人女性と同じサヴァイヴァーにちがいないと考えて切り込むように共闘を迫ったところにあるのだろう。黒人として追い詰められ、女性としてさらに追い詰められ、そこを生き抜くために孤独な闘いを続けなければならなかった北アメリカの黒人女性の孤絶が図らずも浮かび上がる、この映画で最も哀しみに満ちたシーンとなったようにワタシは思う。ぼくは家に帰る、そして大きなテーブルを作ってそこでみんなで食事をしよう、とガラスの向こうから思いつめた笑顔で語ったファニーの言葉が刑務所の面会室に据え付けられたテーブルで実現されるラストシーンは、冒頭で始まったティッシュの回想が現実に追いついた瞬間でもあるのだけれど、私たちはここから始めるしかないのだというあきらめでも怒りでもない自明の理とでもいえる現在地の静けさこそは、自分はこれまでもこれからもここから目に映る光景を撮ることしかするつもりはないのだという、バリー・ジェンキンスによるしめやかな闘争宣言だったのではなかろうか。そして、ファニーが彫刻に向かいつつくゆらす陶然とした紫煙にあらためて思うのは、煙草という空間と時間に感情がたゆたうツールを現代の映画が失ったその損失で、チャゼルも新作でクレア・フォイを鎧のような紫煙に包んでいたことなど思い出す。ピエトロ(ペドロ・パスカル)は、そのたびに正面のシャロンから顔をそむけては宙に煙を吐いていて、彼がそうした男であったことはその時すでに語られていたのだ。


「塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性」藤本和子
女性たちが語る体験や記憶とその考えや感情、その純度を貶さぬまま藤本氏の言葉として著される文章の美しさとしなやかさと力強さに圧倒される一冊なので、ぜひとも一読を。
posted by orr_dg at 18:47 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする