2019年01月31日

サスペリア/最悪は終われない

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ツァイトガイストな目つきにどっぷりと終始するこの劇中で、マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の指揮するダンスがまさに「民族」という演目であったとなれば、分断されたベルリンの暴力と混沌こそをヘーゲルばりに民族の精神と唱えるこの内ゲバの物語が、恐怖というよりは罪と恥辱にまみれなければならなかったのは必然ということになり、したがってマザー・サスピリオルムによるアウゲイアスの牛舎掃除には、アーミッシュはリベラルになり過ぎたとうそぶくメノナイト育ちのスージー(ダコタ・ジョンソン)が備える攻撃的で潔癖な野心が必要だったのだろう。クレンペラー博士(ティルダ・スウィントン)はそうしたストーリーの対称性を維持するための存在として投入され、あなたは十分に苦しんだのだから、この先はもう罪や恥を感じる必要はないという赦しをもってあらたな人生を与えられることになるのだけれど、しかしこの先博士は本棚の写真を見てもいったいそれが誰なのか、なぜその写真が飾ってあるのか不可思議に思いながら生きていかねばならないことを思うと、世界で一番忘れてほしくない人に永遠に忘れ去られたアンケ(ジェシカ・ハーパー)こそが、愛と哀しみの分かち難い時代を生きねばならなかったすべての人の悲劇としてあり続けることになるのだろうし、本篇の最後で光の中に昏睡していくショットこそはこの映画をすべてのあらかじめ失われた恋人たちに捧げた監督の渾身だったようにも思うのだ。今作も含め『へレディタリー』に象徴される最近のポスト・モダンホラー(何ならもう一つポストを付けてもいい)に顕著な恐怖の変質について、乱暴に言ってしまえば恐怖の源泉が“死にたくない”から“死んでしまいたい”へ変質したことがその理由であるような気がしているわけで、地下の集会場で不埒な者たちを片っ端から屠ったマザー・サスピリオルムがパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)、オルガ(エレナ・フォキーナ)、サラ(ミア・ゴス)に1人ずつ望みを尋ねていく時、彼女たちはみな口をそろえて「死にたい」と願ってはそれを与えられていくわけで、この瞬間を生き延びたとしても果たして私はどこに行けるのだろうかという生き地獄は、死んでしまうことではなく生き続けることこそが恐怖となるこの世界を、炭鉱のカナリアとしてのホラーが身をもって示したその反映ということになるのだろう。してみると、かつてのスージーだった者が何かに心奪われたような面持ちで佇むポストクレジットシーンでは、絶望にあふれる時代にあっては破壊すらが希望を生み出すことをマザー・サスピリオルムとしての自身に更新していたように思うわけで、それは嘆きの母が暗闇の救世主として再生したその宣言ということになるのだろう。そうした諸々の役割上、揺るぎなく支配的でいることを求められたダコタ・ジョンソンよりは、リンダ・ブレアとオルネラ・ムーティを足して割ったようなミア・ゴスにホラー・プリンセスの王冠が輝いたのはやむなしというところか。サラだったか、誰かの部屋でボウイのポスターを見かけたように思ったのだけれど、この1977年の夏にベルリンのハンザスタジオでレコーディングされた「ヒーローズ」は、その年の10月、すなわちにスージーがオハイオからベルリンにやってきたまさにそのタイミングでリリースされていて、バーダー・マインホフの爆風と銃撃に蒼ざめたベルリンの街で、壁に寄り添う恋人たちを歌ったボウイと魔女がつかの間すれ違ったのは、少なくともルカ・グァダニーノにとっては偶然ではないように思っている。
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2019年01月27日

ミスター・ガラス/Destroy All Monsters

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「バランスを保ち、秩序を維持する」ために息をするすべての存在が敵なのだ、とシャマランは言い切った。なぜ、どこかの誰かのおためごかしでしかない「バランス」や「秩序」のために、キミはかけがえのないキミだけの「乱調」や「混沌」を差し出してしまうのか。しかしそう唱えることが、正しいとか正しくないとか善いとか邪まとかいう教条的な話に誤解されないために、シャマランは大量破壊殺戮者としてのミスター・ガラス=イライジャ・プライス(サミュエル・L・ジャクソン)を語り手と生み出したのだろうし、では犯した罪によって彼の輝きは消えてしまうものなのか、実際のところどうだい?消えてしまったように思うかい?と相変わらず悪戯めいた顔つきでシャマランは問いかけてくるのである。シャマランの映画にたたずむ登場人物がまとっているうつむいた哀しみは、世界の法則を知ってしまったもののそれが自分以外の人にとって必ずしも幸福をもたらすわけではないことまでも知らされた苦痛がもたらすように思えるわけで、そんな風にいつ死んでしまってもおかしくないようなペシミズムに首までつかったシャマランの主人公たちが、とはいえこれまでのところ常に生き延びてきたことを思えばこのラストが悲劇一色に染まってしまってもおかしくはないのに、なぜこうまで爽快といってもいい風が吹いたのか、それはミスター・ガラスが口にしたようにこれが新たなアウトサイダーの誕生を呼びさます咆哮のような映画であったからにちがいない。そうした埒外の幸福に対するロマンチックといってもいい感情はかつて『レディ・イン・ザ・ウォーター』で滔々と吐露された憧憬であったことは言うまでもないだろう。シャマランがずっと言っているのは信じる者は救われる、という至極シンプルなただそれだけなのだけれど、でもそれは世界でたった一人きりになっても命がけで狂ったように信じることができればの話だけれどもね、とばかりミセス・プライス(シャーレイン・ウッダード)とジョセフ・ダン(スペンサー・トリート・クラーク)、そしてケイシー・クック(アニャ・テイラー=ジョイ)の3人がもはや神話と化したこのトリロジーのエンディングを受け持つ名誉を与えられることになる。冒頭、ケビン・ウェンデル・クラム(ジェームズ・マカヴォイ)がしつらえた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のMVのようなチアリーダーを見た瞬間、既に勝利は確信していたものの、病院の前庭でゆっくりと右にパンをしたカメラが仁王立ちするデヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)の姿をとらえたとき、ああこの瞬間ワタシたちは世界に勝っていると思わなかっただろうか。ワタシは沸き立った血が暴れて逆流する音が聴こえた気もしたよ。魂の自由を愛する人が、媚びるという言葉すら知らずに撮った映画は、自分もそんな風に生きていることを束の間錯覚させてくれる。
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2019年01月19日

クリード 炎の宿敵/バック・イン・ザ・U.S.S.R.

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現役の世界チャンプに課せられた7年間の懲役は実質的に選手生命を閉ざしたに等しく、そんな彼がまだ幼い息子にしてやれるのは、世界チャンピオンとしての勇姿をその記憶に焼き付けることのほかに何があろうかという悲痛な決意のもと彼はラストファイトのリングに上がり、フルラウンドの死闘の末にチャンピオンベルトと息子をリングで抱きしめるのだった。というリッキー・コンランのストーリーにこそ絆された前作を踏襲するかのように、今作においても、三歩進んで二歩下がる成長と覚醒で歩み続けるアドニス(マイケル・B・ジョーダン)はむしろ狂言回しとして、復讐の父子鷹と化したイワン(ドルフ・ラングレン)とヴィクター(フローリアン・ムンテアヌ)のドラゴ親子のサンドバッグとなって揺れ続けるのであった。ことあるごとに母親メアリーアン(フィリシア・ラシャド)、妻ビアンカ(テッサ・トンプソン)、そしてロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)が総出でケアをするアドニスはほうっておいても誰かが起こしてやるにちがいなく、しかもこの映画はその手つきを実に細やかで繊細かつ鷹揚に描いてみせるものだから、いざゴングが鳴らされたとしてもそのファイトが何だか他人事のように思えてしまうわけで、となれば痛みだけを確かなものとして世界がこちらを向くまでただひたすら殴り続けるしかないヴィクターの哀切に持ち金を賭けてしまうのもやむを得ないところではあるだろう。とは言え、鍛えあげた人間の意識を10秒間飛ばすにはどうすればいいかという合理の洗練とその手段として相手を殴るという蛮性の同居が強制されるボクシングというスポーツの特異性ゆえ、その合理と蛮性の振幅を人生の両端に例えてしまう誘惑がボクシング映画というジャンルを成り立たせていることを思う時、ジョイス・キャロル・オーツの言う「人生は、多くの不安定な点で、ボクシングに似ている。だが、ボクシングは、ボクシングにしか似ていない。」という文章を同時に思い出してみれば、共に父の呪いを受けたもの同士でありながら人生にスタイルを決定されてしまったヴィクターはそれゆえに、スタイル=メタファーの虜囚になり得なかったアドニスに敗れたとも言えるわけで、事あるごとにロッキーがアドニスに言う「俺のようになるな」という言葉は、ボクシングに人生を喰わせた者だけが知る核心でもあったのだろう。だからこそアドニスはリングの上で合理の人となってみせる必要があったと思うのだけれど、せいぜいがスウェイバックやウィービングとダッキングを派手にしてみせる程度で、「肉を切らせて骨を断て」というロッキーの指示がでた時には、ボディ打ちを誘ってガードの空いたところに左フックを叩き込むとかいう必殺ブロウを期待したりもしたのだけれど、結果としてアドニスが見せたのは単に根性でボディ打ちを耐えるだけという肩透かしなのであった。ヘヴィー級という粗の目立ちにくい階級であるからこそ成立してきたこのシリーズのド突き合いファイトにいまさらケチをつけても詮無い話なのは承知の上で、せいぜいがクルーザー級の肉体にとどまるアドニスがいかにヘヴィー級のファイトを可能にするのか、たとえばロイ・ジョーンズ・ジュニアとクリチコ兄弟との仮想ファイトといったファンタジーを一瞬でも夢見たワタシのが懲りなさ加減こそがいかがなものかということになるのだろう。とは言え、今にして思えばあれはアメコミ映画だったと整理はつくにしろ、これだからアメリカ人てやつは!と呆れ顔を誘った『ロッキー4炎の友情』でアポロを葬ることがなければこのサーガの命運も尽きていたわけだし、当時はと言えば敵役でしかなかった黒人のボクサーが主役を演じてアップデートされるとなれば、世界も少しは変わることがあるのだなあとあらためて識らされた気分の清新については間違いがない。スティーヴン・ケープル・Jr.という監督のシルキーでメロウなタッチがアドニスのノンシャランな倦怠にマッチし過ぎた点でボクシング映画の剣呑を削いでしまった気がしないでもないけれど、たおやかで静かな余韻を銃後の物語につかまえてみせた手腕においてその爪跡は文句がないように思う。
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2019年01月14日

蜘蛛の巣を払う女/急いで鼻で吸え

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ノオミ・ラパスを湯煎してアク抜きし、ルーニー・マーラに鉄分を補給したクレア・フォイのリスベット・サランデルは、普及版の親しみやすさと口当たりの良さは手に入れたものの、まるで鍛冶でもするかのように世界の歪みをたたきなおしてきた彼女の破壊的なハッキングは、それが彼女の世界とのつながり方でもあるのだけれど、ストーリーをジャンプさせるために仕込まれたマジックとして割といいように使われるものだから、ならばこれがリスベットである必要はあったのかと思い始めてしまう。バルデル(スティーヴン・マーチャント)の保護されたセーフハウスをそのために監視しているにもかかわらず、わざわざリスベットに目を離させることによって起きる殺し屋の侵入であるとか、アウグスト(クリストファー・コンベリー)のスマートフォンからあっさり位置を特定されたりであるとか、彼女のエラーによってサスペンスを発生維持するイージーもリスベットの普段使い感に拍車をかけることとなっていて、リスベットは完全にストーリーの奴隷へと成り下がってしまっている。本来、世界に一匹しかいないリスベット・サランデルという孤絶した生き物を観察することがテーマであるこの物語において、そうまで脚色して映画にしなければならなかった意図も意志もワタシにはまったく掴みかねたままだったのである。カミラ・サランデル(シルヴィア・フークス)にしたところで、グリッドデータ化された屋敷がカザレス(キース・スタンフィールド)による対物ライフルの狙撃を受けて形勢が逆転した時のあきらかに慌てふためいた表情は、感情の極北で生きるはずの彼女に似つかわしくない醜態にも思えたし、最期にリスベットと繰り広げる愁嘆場も当然何らかのトラップかと思いきや、あれで死んでいなかったとしてもPCを捨ててしまうのは往生際が良すぎるだろう、額面通り悲嘆に暮れるばかりの結末には、スティーヴン・ナイトがいったいどこまでメインで関わったのか疑わしくすら思えたのだ。クレア・フォイに罪はないとはいえジャンクフードとタバコを主食に生きる不健康なミニマルのBPMは光年の彼方に消えてしまったし、そしてなにより3代目ににして初めてオッパイを見せないリスベットを選んだ点に、マニュアルによる神経症的なギアチェンジを棄ててオートマのアクセルワークで走り抜けようとしたこの映画の、負け戦であることの分別とあきらめが透けて見えた気がしたのだった。カミラの策略に追い込まれたリスベットが、押し寄せる手下の男たちをたった1人で迎え撃つもその圧力に次第に押し込まれていくシーンは、リスベットがずっと唾を吐いてきた「大きなもの」に屈していく切なさが出色に思えたものだから、やはり監督はもう一枚映画を「脱がす」べきではなかったかと正式にケチはつけておきたい。
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2019年01月08日

シークレット・ヴォイス/喝采

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未体験ゾーンの映画たち2019

好きなドレスをどれでも一着あげるわ、とヴィオレタ(エヴァ・ジョラチ)に言葉をかけたリラ・カッセン(ナイワ・ニムリ)の、ドレスを選ぶヴィオレタを背後から見つめるその目つきにみなぎる異様な妖しさは、まるでヴィオレタがあのドレスを手に取るよう催眠術をかけていたかのようでもあったし、ヴィオレタはといえばあのドレスを選んだ瞬間その運命は既に仕上げられていたように思うのである。そもそもヴィオレタにすべての秘密を告げたリラの記憶はいつ戻っていたのか。母を失ったその時リラの前に現れた庇護者ブランカ(カルメ・エリアス)の退場は、YouTubeでヴィオレタを見つけた瞬間に決まっていたのかもしれず、ならば原題 “QUIEN TE CANTARA= Who will sing to you(あなたに歌うのは誰)”を物語に均してみる時、リラにとってのヴィオレタはかつての母の代わりに歌う人となったのは言うまでもなく、2人が邂逅したことで形作られていく円環の運命は次第にヴィオレタにとっての呪いへと姿を変えて、かつて秘密を守るためにリラが母親にした同じことをヴィオレタが娘マルタ(ナタリア・デ・モリーナ)にするのも最早必然でもあったのだろう。ただ、リラ・カッセンからヴィオレタ・カッセンへと生まれ変わったステージを見届けて劇場から立ち去るヴィオレタがあのドレスを着てひとり行う儀式の意味は、リラ・カッセンという運命への永遠なる忠誠というよりは、むしろその呪いからの逃亡であると同時に、打ち棄てられた夢や希望を喰いながら歌い永らえるリラという無自覚な怪物への鎮魂であったようにも思うのだ。前作でも押し殺したような映像の圧力を高めていた「目の力」はリラの虚無とヴィオレタのメランコリーを合わせ鏡のように増幅させて終始息が苦しく暴力的で、善くないことに向かってしかしそんなつもりは一切ない人がまるで祈るように歩を進めていく時に漏らす恍惚がこの監督の作品には満ち満ちているのだけれど、それが単なるペシミスティックに染まってしまわないのはそれらがすべて理性の結果として選ばれているからなのだろう。2+2=4という真実を4のみを描くことで実証していくアクロバットに陶然とした前作に比べ、今作は2=2という真実を入り乱れた2で実証する幻惑に徹したこともあって直打ちの即効性には対応していないけれど、カルロス・ベルムトという監督が映画=物語ること、というオブセッションに忠誠を誓っていて前作が気まぐれやまぐれの産物ではなかったことを逃げも隠れもせずに証明してみせた上に、およそ20年前完膚なきまでに心奪われた『アナとオットー』で虜になったナイワ・ニムリとの再会というダメ押しには歓喜すらしたし、彼女の演じるリラが一番好きな映画として挙げるのが新藤兼人の『裸の島』であるという、いったい誰にぐうの音を出させないつもりなのかも知らぬ書き込みにワタシはぐうの音も出ないままなのだった。
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2019年01月04日

彼が愛したケーキ職人/もっと甘くて苦いものを

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事故で夫を失った女主人の切り盛りするエルサレムのカフェに現れた一人のドイツ人男性が、ケーキ職人として店や人々の気持ちの中にそっと落ち着いていくも、果たしてその正体は?といった風に、彼の愛し方によるその素性を特異な答えとしてミステリーの針を振らそうとする素振りのない水平な語り口がとても誠実に思えるし、それよりは誰かを愛した瞬間に社会的かつ政治的な囚われの身となってしまう人たちの哀しみを湛えつつ、その哀しみの先に射すかもしれない光を何とかつかまえることはできないものかとこの映画は静かに歯を食いしばりながらその手を伸ばし続けていたように思うのだ。トーマス(ティム・カルコフ)は彼の知らなかったオーレン(ロイ・ミラー)の人生を肌で知ることで、アナト(サラ・アドラー)はオーレンのいない空虚の向こうにトーマスを見ることでそれぞれが喪失の傷を癒していくのだけれど、図らずもその道筋が語るのは、イスラエルに生まれたオーレンがユダヤ教の因習に苛まれながら人生を築いていかなければならなかったその苦悩ゆえの悲劇が彼を捉まえたということで、おそらくは息子オーレンの抱える屈託を知っていたであろう母ハンナ(サンドラ・サーデ)が彼の愛したトーマスに対し無言で理解を示すシーンには、劇中ではオーレンの兄、すなわちアナトの義兄モティ(ゾハール・シュトラウス)がその象徴なのだろうイスラエルの男尊女卑的なマチズモへの静かな抵抗をうかがわせているようにも思えたし、しばしばアナトが見せるモティへの反発なども知ってみれば、この(ほぼ)イスラエル映画が押し黙ったまま目をそらさなかった相手が何であったのかは言うまでもないだろう。イスラエルの社会と宗教による饒舌な抑圧に対し、言葉を解さない異邦人としてのトーマスが真摯な感情と誠実な行動でアナトやオーレンの息子イタイと交感して境界を越えていくあたりもその加勢となっている。誰一人心の通う人もいないエルサレムでオーレンの形見となった赤いスイミングパンツをはいてプールサイドにぽつねんと座るトーマスの、ただひたすら生地をこねてはそれを焼く日々を生きてきた人であるがゆえ、ハリウッド的なビルドアップとは無縁の作為のない無垢な輪郭をまとうしかない肉体の圧倒的な孤独が胸を打つし、ついには大きな子供のように泣いてしまう時の張り裂けるような哀しみがあればこそ、ミュンヘンを一人訪ねたアナトがラストでみせる表情の涼やかな孤独を受け入れたような決意が彼のみならず彼女の救いをも予感させるようにも思え、あえて茨のハッピーエンドを回答とした監督の意志と意図を石のつぶてと投げ込むことで巻き起こす波紋こそが、この映画が持ち得た美しい光の紋様ということになるのだろう。劇中でもトーマスがドイツ人であることがあげつらわれるのだけれど、こうした映画をイスラエルとドイツが合作することの反証性とその声は、映画の欠かせぬ骨子として耳そばだてつつ聞き届けておくべきだろう。すべての世界にバランスは関係する。
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2019年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

目減りする反射神経と想像力を手当たり次第かき集めて、なんとか今年もやり過ごせればなあと思っています。
posted by orr_dg at 23:37 | Comment(0) | Misc | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする