2018年12月31日

2018年ワタシのベストテン映画

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LUCKY ラッキー
女は二度決断する
ファントム・スレッド
ビューティフル・デイ
バトル・オブ・ザ・セクシーズ
寝ても覚めても
怪怪怪怪物!
マンディ 地獄のロード・ウォリアー
斬、
へレディタリー / 継承

観た順番。
『2001年宇宙の旅』や『恐怖の報酬』をリヴァイヴァルで観て、監督の怪物化した作家性を抜き身で解き放つことができた時代への畏怖は、もう二度と戻ってこない日々へのノスタルジーでしかないのだなと正式に思い知らされた気がした。しかし、今あらためて「The personal is political(個人的なことは政治的なことである)」と標榜するために新しい映画の言語が模索されているのは間違いないし、特にA24の映画はそのあたりを意識的に行っているようにも思える。だからこそ客もいっそう試されることになるのだろうし、「今の映画が70年代の映画と変わってしまったのは、今の観客が映画を真剣に受け取らないことが理由にあって、その低下は映画作家というよりは観客がそうしている(We now have audiences that don’t take movies seriously...It’s not that us filmmakers are letting you down, it’s you audiences are letting us down)」というポール・シュレイダーの言葉をベテランの感傷で片づけてしまうわけにはいかないようにも思っている。自戒をこめて。

では皆さま、よいお年を。
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2018年12月30日

シシリアン・ゴースト・ストーリー/あなたはもう死んでない人

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1993年6月、裁判官殺害容疑で逮捕されたシシリアン・マフィアのメンバー、サンティーノ・ディ・マッテオは暗殺の詳細を証言することで身分が保証される制度(アメリカにおける証人保護プログラム)の適用を申請し、その報復および証言の撤回を強要するためマフィアは彼の11歳の息子ジュゼッペを誘拐して拷問しつつ、陰惨な写真を送りつけるなどしながら779日間の監禁の後に彼を絞殺しその死体を酸で溶かして廃棄した。

ほとんど『悪の法則』である。ときおり人間がこうした行為の可能な生き物であることに理解が追いつかなくなることがあるのだけれど、その追いつかなさを埋めるために、この物語はマフィアが沈黙の支配をする世界に一人立ち向かい最期まであきらめようとしない一人の少女を事実に書き足すことで、大人たちの残酷で凄惨な謀略に弄ばれ命を散らされた少年へのレクイエムを、その強靭な想像力によって夢とうつつのあわいに溶かしては彼の魂を解放すべく奔走するのである。劇中でのジュゼッペ(ガエターノ・フェルナンデス)は初恋を知らせるため13歳に設定されていて、想いが通じたその日にジュゼッペが連れ去られてしまう少女ルナ(ユリア・イェドリコフスカ)は、世界のすべての不条理と不義に対し想像と空想、夢みる力を全身全霊で駆使しつつ闘いを挑んでいくこととなる。常識と非常識のがんじがらめで張りめぐらされた壁を突破するために彼女が緩めることをしないその想像力は、それを納めることで社会的なバランスを強いている人たちにとっては脅威となり、その力を狂気と置き換えることで柵から外へ出ないよう彼女の母でさえもが囲ってしまうのだ。実際のジュゼッペも、いつか誰かが自分を助け出してくれることを願いつつ、その誰かを夢想しては地獄のような日々をやり過ごしていたのではなかろうか。そしてルナはそうしたすべての願いと希望の結晶となって、いつしか遠くのどこかに囚われたジュゼッペに感応していくのだけれど、それが常に「水」を通して繋がっていくことの理由が明かされる終盤のあるシーンは、この映画が避けては通れない苛烈な真実を幻想と静謐のうちにしかし臆すところなく描き通していて、ワタシは瞬きを忘れてその一切を見つめるしかなかったのだ。波打ち際で新しい友だちやBFと笑い合うルナのずっと遠くで、豆粒のように小さなジュゼッペが気持ちよさそうに海に飛び込むラスト、解放されたのはジュゼッペの魂のみならず生き残っている人達でもあったことが浮かび上がってきて、想像力が現実の色合いを変えること、それこそが映画を撮る理由、映画を観る理由であることが謳われたように思うのである。パオロ・ソレンティーノ組のカメラでもあるルカ・ビガッツィがとらえる、透き通ったマジックリアリズムとでもいう儚くも生々しい映像が夢の純度を高めてなお忘れがたい。
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2018年12月28日

アリー スター誕生/世界にぶら下がった男

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ジャック(ブラッドリー・クーパー)が幾度となくアリー(レディー・ガガ)に言う「君はそのままでいい」といったような言葉は、これがスターダムに倦んだ男とスターダムに駆け上がる女の交錯が生み出す運命の光と影の物語であることを思えば、スターダムの虚飾に対するアンチテーゼからジャックにとってのアリーが始まったと見るのはたやすいし、それを裏打ちするかのようにアリーは父ロレンツォ(アンドリュー・ダイス・クレイ)と同居する実家の自室にキャロル・キングのアルバム(「つづれ織り」)ジャケットを飾っていたりもするわけで、観ているワタシもごく自然にアリーの目指すのはキャロル・キング的な自己実現なのだろうと思っていたし、ジャックの「君はそのままでいい」という言葉もアリーの容姿のみならず音楽のスタイルとしてのRAW&NAKEDを示していたように受け取ったものだから、それを互いが抱きしめあった2人の蜜月時代が音楽映画のエモーションとして最高潮であったのも当然ということになる。したがって、レズ(ラフィ・ガヴロン)のオファーにしっぽを振って飛びつくアリーに、私の面倒を見るのはあなた達でなくていいのかとジャック&ボビー(サム・エリオット)に気を使うこともなく、あるいは本当はそうしてほしいのにジャックとボビーの相克がそれを受け付けない悲しみが描かれることもないのにはなんだか拍子抜けしてしまったのだ。いまだ父親と同居しているという設定がそれを匂わせたりもするのだけれど、父ロレンツォのスターダムに対する憧憬といくばくかの屈託がアリーにスターダムを正解とする生き方を染み込ませてきたのも確かであっって、アリーという人の野心のありかがワタシには今ひとつピンとこなかったとなれば、彼女のスターダムへの駆け上がり方よりはジャックの階段落ちが映画を支配してしまったのもやむなしということになるだろう。ブラッドリー・クーパーについては、以前“そうありたくてもなれない自分への憐憫とその憐憫を餌に生きている自分に気づく程度には頭が回ってしまう哀しさの質で、この人は“〜くずれ”とでも言ったやさぐれ方がしっくりくるように思える“と書いたことがあったのだけれど、ここでの彼は既に何者かであることによりそのくずれ芸は封印せざるを得ないながら、メランコリーの目薬をたらしたかのような青い瞳の焦点をうつろに泳がせては、ストレートな転落芸を余裕のアレンジで演じきって圧倒的ではあるのだけれど、耳の病気や父や腹違いの兄との相克などあれこれパラシュートをつけてしまい転落のスピードが鈍ってしまったことにより、図らずも遠ざかるアリーのスピードまでもがスロウダウンしてしまった点で、この映画の自爆するセンチメントの爆風がいささかマイルドに収まってしまった気がしてならず、要するに誰もクズになりたがらなかったように思えてしまうのだ。そして何より、自分の愛するバンドやアーティストのライヴでフロントマンのガールフレンドにアンコールを務めさせるステージとか勘弁以外の何ものでもないし、それを美しい瞬間として受け入れるのは少しばかり難儀だなあと思ったのだ。ブルース・スプリングスティーンがパティに歌わせる、ポール・マッカートニーがリンダに歌わせる、といったアンコールを想像してみればそれなりに破壊的な状況であることが想像できるのではなかろうか。トム・ウェイツが無名のリッキー・リー・ジョーンズに歌わせたとしても果たして笑っていられるかどうか。
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2018年12月22日

マイ・サンシャイン/ぼくが殺した街、ぼくを殺す街

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ジェシー(ラマー・ジョンソン)が囚われた青春の蹉跌それ自体は、ロサンゼルス暴動が起きなかったとしてもいずれ彼を捕まえたかもしれず、あの時代のあの場所で彼や彼女たちがいかに薄氷の上で、ひとたびそれを踏み抜けば死まで真っ逆さまとなる日々をおくっていたか、ミリー(ハル・ベリー)という献身的で優秀なキャッチャーがいたとしてもそれが起こってしまうのが1992年のロサンゼルスだったということなのだろう。大人たちは良くも悪くも既に仕上がってしまっているし、分別とやらであきらめを知る方法もあるだろう、だからこそ未来の入り口に立ったばかりの子どもたちがそれを強要される醜悪や残酷を彼や彼女の代わりに私たちは、少なくともは私は語らなければならないと思う、というのがデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンの映画作家としてのマニフェストなのだろうと考える。したがって、ここでもジェシーやニコール(レイチェル・ヒルソン)、ウィリアム(カーラン・KR・ウォーカー)たちの屈託や焦燥は細やかかつヴィヴィッドに描かれていて、なかでも、若くしてミリーを補佐するキャッチャーとしての役目を背負い、法の正義を信じ暴力を否定し続けたジェシーを生贄として差し出す、その抱えた本質の重たさゆえに薄氷を踏み抜いてしまう悲劇の寄る辺のなさはデビュー作にして前作の『裸足の季節』に通底する視線であったのは言うまでもない。その一方、ミリーとオビー(ダニエル・クレイグ)という子どもたちのキャッチャーとなる大人についてはその役割以上の重さが与えられていないことで、彼女や彼が薄氷を踏み抜いてしまう人間であるかどうかがしっかりと描かれることがないまま、たどたどしいロマンスに終始してしまうのはどうしたことか。癇癪を起こしてはショットガンをぶっ放し、家具を2階から放り投げる男としてオビーは劇中では色づけされており、にもかかわらず姿が見えなくなった子どもたちがオビーの部屋にいることがわかった時のミリーがまったく警戒の色を見せないのは、彼の抱える屈託をミリーが正当に理解しているからこそなのだとしても、ワタシはそれを知る由もないし、ウィリアムが小さな子どもたちを万引きに駆り立て、盗品であろうTVゲームを家に持ち込んだことに対するミリーの反応が描かれていない点についても、あくまでもあのシークエンスをウィリアムと子どもたちの交情にとどめるのだとしたら、ミリーはそれら犯罪行為を許容範囲としてしまう人なのかと少しばかりモヤモヤしてしまうのだ。駐車場でのほとんど疑似セックスといってオビーとミリーのシーンにしたところで、オープンカーで地獄巡りを続けるジェシーとニコール、ウィリアムたちとのカットバックで天国と地獄を総取りしようと画策するも、前述したように大人2人のウエイトが足りていないせいで不発に終わった気がしてしまっている。果たして87分という短いと言ってもいい上映時間は監督にとっての何らかのチャレンジであったのか、オビーとミリーにそれぞれ5分づつ加えて(前作は97分)ウェイトを与えるわけにはいかなかったのか、おそらくは子どもたちへのフォーカスが散ってしまうことを嫌ったのだろうけれど、それが為されなかったことで映画の全体が散ってしまったような気がしてしまうし、前作に続いてニック・ケイヴ&ウォーレン・エリスの手による絶望と不安の中に差す光を慈しむようなスコアの沁み方に明らかなように、これがそういう映画であることがすぐ向こうに薄く透けているのが見えるだけに、大人たちの流す血も拭ってやることはできなかったのかといささか悔いが残る。何かに滑って足を取られたジェシーがそれは歩道を流れていく血であることに気づき、その流れを見やったその先で地面に突っ伏している死体に言葉を失い混乱にとらわれるシーン、戦場ではないいつもの街角で一人の少年の正気を失わせて追い込む手口の確かさと非情などみればなおさらそう思う。子どもたちの地獄は斯様にぬかりがないのだから。
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2018年12月20日

おとなの恋は、まわり道/泣くより簡単

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80年代半ばにこの世界へ囚われて以降、共に様々な喪失を経ながら四半世紀を生き延びてきた2人が、たとえば空港前のベンチに座るキアヌ・リーヴスがほとんど例の“ベンチのキアヌ”であったりするような、スクリーンの内外で語られる虚実を織り交ぜたある種のメタ構造といってもいい朴念仁とエキセントリックのミッドライフ・カップルを、イーサン・ホークとジュリー・デルピーからはほど遠い益体のないとしかいいようのない甘噛みの応酬の後で、そんな簡単に生き方は変えられないけど、ほんのちょっとした人とのつながりがあればなんとかなるもんだよね、というささやかでさわやかな幸せに着地させていて、ここには恋愛を定義するアフォリズムやひらめくような人生のヒントはないけれど、キアヌ・リーヴスとウィノナ・ライダーという2人の役者とスクリーンごしに歳を重ねて来た人間にしてみれば、肩をたたいて苦笑いさえすれば起きたことのすべてを肯定できるような気分にもなってしまうわけで、いつもはどちらかと言えばノイズですらある感情移入の罠に進んで捕らわれる心地よさは、ほとんど戦友に抱くそれに近いのかもしれないなと思ったりもしたし、そういう錯覚すらもむしろ好ましい、迷子たちが家へと帰るために手に手を取り合う真顔と笑顔がひきつった全身のロマンスをリバース・エッジでヘザースな貴方に。
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2018年12月19日

マダムのおかしな晩餐会/私はあなたのメイドではない

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まさかのロッシ・デ・パルマを泣かせては下層からの一発を誘うアイディアが秀逸で、本来なら黙っていても身を置くところなどない彼女の心身の厚みを身の置きどころのない感情で揺らしつつ、その身ぶるいが次第に砂上の楼閣を崩していく時のマリアが、ついには「たとえ私が、お盆にのせた紅茶をマダムにお持ちする人間だとしても、私にはマダムと同じ価値がある。なぜなら私たちは同じ人間なのだから」と言い放つスノッブ上等な足取りでアン(トニ・コレット)の元を去るラストの爽快なメランコリーが、その始まりからいかに遠くまでジャンプしてみせたかをてらいなく告げていたように思うのである。スタイルとしてはコメディで述べられている以上、マリア以外の人間は片っ端から滑稽なクズとして描かれてはいるものの、パリの浮き草として上っ面を漂うアメリカ人とイギリス人とフランス人に対するスペイン人移民という図式のそれなりな露骨に加え、男に寄生して成り上がるサヴァイヴァーとしてのアンにはかなりあけすけな筆使いでスノッブが貼りつけられるばかりか、奪った者はやがて奪われるという因果でとどめを刺すことすらも厭わず、しかしアンに彼女の言い分としての空虚を許すあたりの手綱さばきは、生粋のクズである男たちとそれに合わせて自身のクズを選ぶ女たちの哀れみまでも連れてきて、その辺りの真綿で首を絞めかけるようなチクチクするレイヤーは女性監督ならではの絶妙で巧妙な仕上げであったように思うのだ。マリアが初めてアンに正面から中指を立てるシーン、からくりを知らないマリアがデヴィッド(マイケル・スマイリー)の愛は真実の愛だとムキになるにつれ、「あなたがどうやって彼をたらしこんだのか知らないけれど、あなたは家政婦であって売春婦ではないでしょう?いいかげん身の程を知りなさい」とアンのボルテージも上がっていくのだけれど、かつてボブ(ハーヴェイ・カイテル)をたらしこんで奪い取った彼女にとってすべては人生をかけたゲームでありそのプレイヤーであるという本質が問わず語りに暴露されることになり、しかしそのゲームで彼女の犯したミスによって10年来の有能なメイドを失うと共に新たなプレイヤーによっていつしかボブも奪われていくのである。一方、それまでとは打って変わったシックな装い(アレではない黒いパンプス!)で歩いていくラストのマリアが手に入れたのは抑え込まれていた自尊心とプレイヤーとしての野心であり、それは夢物語ではないハッピーエンドをマリアが書き換えた瞬間であったようにも思え、監督が示したこの解放は現在のこの世界において非常にスマートかつアグレッシヴに感じられたのだ。ロッシ・デ・パルマと抜き身で渡り合うトニ・コレットの、神経を鞭のようにしならせて打ちすえる佇まいは今が彼女の黄金期であることを朗々と謳い上げているかのようだし、なにより長編2作目にして素晴らしい猛獣使いであることを証明したアマンダ・ステールという監督/脚本家の名前を記憶しないわけにはいかないだろう。緊張に耐えかねたような邦題はいまひとついただけない。
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2018年12月14日

暁に祈れ/もっとでもいいんだぜ

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ジョー・コール演じるビリー・ムーアによる自伝の映画化ということなのだけれど、ビリーがタイに来た理由や既に彼が身につけている荒廃の事情などバイオグラフィー的な背景がとくに語られることもないまま、彼が収監されたチェンマイの刑務所内に蠢く囚人たちの、入れ墨と薄ら笑いと罵声と怒声、殺した数や犯した罪、覚醒剤、闘魚、強姦、すなわち死ぬまでの暇つぶしがむせ返るように描かれていく。そんな中、緩慢に生への執着が断ち切られていく雑魚寝の無間に沈み始めたかに思えたビリーは、中途半端なボクサーで中途半端なジャンキーでしかなかったその生来の曖昧さがここでも彼を中途半端な死者にとどめたことで、生への執着が彼にムエタイという命綱を投げてよこすこととなるのだけれど、ただ、映画の惹句として“ムエタイでのし上がることに成功したイギリス人ボクサー”と語られた時の違和感が最後までぬぐえないのは、ビリーにとってのムエタイは刑務所内の地獄のカーストを這い上がっていくツールというよりは、剥き出しの拳を叩き入れ蹴りを打ち込み膝を突き刺し、剥き出しの肉体に叩きつけられる拳と打ち込まれる蹴りや突き刺さる膝によって、刀工が刀を鍛えるように自身の輪郭を形作っていく作業であったように思うのだ。ラストで誰にも見咎められず病室から抜け出したビリーが結局は戻ってきてしまうのも、高きであれ低きであれ中途半端ではないくっきりとした自身の輪郭を識ることで、あのまま逃げ出すことが自分にとっての自由ではないことに気がついたからなのだろう。この仏人監督の前作『ジョニー・マッド・ドッグ』でも感じた、悲しき熱帯的もしくはロバート・フラハティ的エクスプロイテーション(モンド映画ともいう)風味は相変わらずながら、そうしたビリーの成長というよりは変貌、もしくはビリーが勝った最後の試合のフィニッシュブロウが何であったかなど、今作では脚本から手を引いたこともあってだろう、それなりのドラマツルギーが書き加えられたことで映画としての救いは手に入ったように思うのである。(宗主国にとっての)辺境にしかリアルを見いだせない監督のスリルジャンキーが救われたかどうかはともかくとして。
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2018年12月13日

パッドマン 5億人の女性を救った男/きみはちっとも悪くない

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きみの笑顔が見たいだけさ、という幸福の追求がかくもアナーキーなシステムの更新を成し遂げる物語の、まずはその不幸なシステムが西暦2000年を過ぎて横たわっていたことに驚きはするものの、その笑顔を阻み続ける魑魅魍魎がいまだこの国を含めた世界中に跋扈している様は毎日嫌でも耳に飛び込んでくるわけで、ラクシュミカント・チャウハン(アクシャイ・クマール)が狂人扱いされればされるほどそれを促す側の狂気が浮かび上がっていく寓話の饒舌は、それら不幸で残酷なシステムの存在を笑顔で糾弾しているに他ならない。そうやって一念岩をも通すなぜなに坊やラクシュミが成し遂げたのはフェミニズムの革新がそのままフェアトレードのシステムを確立させていく弱者の産業革命ともいえるもので、そのドミノ倒し的な痛快と爽快こそは、この世界がそれをいかに待ちわびていたか、そして本来あるべきものが今までずっとそこになかったことの証ではあるのだけれど、劇中でラクシュミを率先して嘲り嫌悪するのが女性であったことや、彼女たちにそうさせる恥の概念を植えつけてきた歴史を考えてみた時、ラクシュミがパリー(ソーナム・カプール)のもとを去ってガヤトリ(ラーディカー・アープテー)のところへと戻る理由、すなわち、これからのインドの女性はもう泣かなくていいこと、生きるのを恥じる必要はないことをそれそれが目の前の1人に伝えるところから始めねばならないというその責任を観客に託していたように思うし、聡明に開かれたパリーが目に涙を浮かべながら言う「彼はこのままここにいたらつまらない男になってしまう」という言葉は、歴史の罪を負うべき人としての男性に向けたメッセージでもあったのではなかろうか。道化を演じるラクシュミの陽気なコメディの振る舞いはしばしば笑いの不発を誘っているように映るのだけれど、そもそもこの映画が奮闘しているのは笑えない状況を笑顔で伝えるその一点にあることを思い出してみれば、希望と絶望が交互するその泣き笑いの表情こそがこの映画の息づかいであり、彼を笑い飛ばせるほどワタシたちは無傷ではないことに次第に気づかされていくように思うのだ。ガヤトリの対照として在るパリーを演じたソーナム・カプールの、ジェニファー・オニールを思わせるモダンでスマートでしかしそれを嫌味としてはならない美しさがこの映画を一方で引き締めている。
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2018年12月11日

来る/まっかなケチャップになっちゃいな

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祖母志津(ヨネヤマママコ)の彼岸の人のような佇まいに、何しろここから始まるわけだからな!と予告篇のころから感じ入っていたこともあり、志津が夫に仕掛けた苛烈な復讐とその哀切な動機および、孫の秀樹(妻夫木聡)にまで祟り続けるその呪いがなぜ普遍であり得るのかというそれら一切がないものと脚色されていたことには少なからず驚いたというか落胆もしたわけで、それはおそらく「ぼぎわん」をその由来や姿かたちで語ることよりは、人の心の昏さが生み出すイドの怪物的に乱反射する思念の存在として描くことに決めた監督の采配によっているのだろう。映画の大半は秀樹と香奈(黒木華)の2人が自分たちの作り出した生き地獄に呑み込まれていく様を描くことに費やされて、ぼぎわんはその手続きとして存在するに過ぎず、それについてはおおよそ原作の構成を踏襲しているのだけれど、脚色されたぼぎわんに最低限必要となる失われた子どもたちの総体という記号に呼応するかのように、原作のある設定が180度変更された野崎(岡田准一)もまた自身の生き地獄に放り込まれることになる。前述した志津の復讐とその動機を一切カットしたのは、おそらく中島哲也という監督が既に死んでいる人間はもう死ぬことがないという理由によってその物語には関心を抱いていないことの表れで、もっぱら目の前にある生き地獄を捕らえては飼い慣らすことにのみ愉悦を見出しているかのようであり、もはや琴子(松たか子)とぼぎわんの最終決戦すらを省略する切り捨てにはそうまで自分に確信してしまうのかと恐れ入ったし、造り自体はドシャメシャではあるけれどそのあたりの脱構築はA24系を中心とするポストホラーの流れによって解釈可能にも思える。ではその生き地獄の味わいはどうだったかと言えば、妻夫木聡が自己啓発系ナルシストの凡庸な悪を虚ろな躁病の広がりで完璧に演じきっていてこの映画での最良だったし、そのネガとポジとして狙い撃ちした悪に陰鬱な作り笑いを貼りつけた黒木華は、例えば『永い言い訳』で監督に“シャツのボタンをいちばん上まで閉めている女性のいやらしさが欲しかった”と言わしめた爛れの全開に惚れ惚れと見とれるしかなかったのである。比嘉姉妹は共にシャープな造型でジャンルムーヴィーとしてのハレのバランスを豪腕で支えていて、終盤で琴子(松たか子)が繰り出すノーモーションの右ストレート一閃には思わず頬が緩んだりもした。とは言え、せっかく秀樹という極上のクズを妻夫木聡が仕上げたのだから、やはり原作で志津が秀樹に諭す「優しゅうしたりな、ずっと、面倒見たらなあかんで」「(女の人が)耐えてもええことなんかあらへんからな」という言葉に唾したその最上級の報いとして、秀樹はぼぎわんに屠られて欲しかったなあと思うのだ。そのとばっちりもあって、まさかのビルドゥングスロマンを背負わされた野崎も困惑したのではなかろうか。オムライスの国を知紗(志田愛珠)の経験値で描けるお山の表出としたバッドエンドは、雨が降ろうが槍が降ろうが正面切ることのできない監督の苦肉の策にも思えて心がなごむ。
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2018年12月07日

ギャングース/ギュードン・コーリング

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町並みに埋もれるような一軒の牛丼屋にああまで優しく暖かい光が差し、何ならそこに聖性すら漂わせてみせたあのラストこそこの映画が目指した場所であったのは言うまでもないのだけれど、本来ならばこの映画に泣き笑いすべき人たちはおそらく映画など観る状況にないのだろうことを思えば、3人が並んだカウンターの背後で知ったような口ぶりの高説を垂れるサラリーマン、しかしあれが世論として大手を振る吐き気のするような界隈がこの国にはあるわけで、に中指を立ててむかつきをおぼえる観客を一人でも増やすことがこの映画の可能性なのだろうと、少しだけ遠い目などもしてしまうのだ。いったい誰に届けようとしているのか薄気味悪いほど顔の見えてこない、青空に祝福され栄養の行き届いた青春映画の裏通りで一杯の牛丼に涙を流す若者たちのピカレスクはあまりにも馬鹿正直でそれゆえ不発でもあり、しかしそれでも傷だらけで笑い続けるサービス精神が痛々しくて愛おしくて仕方がなく、臭いもののふたを蹴破ってデオドラントされた世界にリアルな臭いをぶちまけることを自らに課した原作から一本の映画へと幸福な着地をすればするほど沁みてしまうメランコリーこそを、映画を観たワタシたちは自分のものとして持ち帰らねばならないのだろうと考える。ゆらゆら揺れる青白い炎のような原作の輪郭を実写の輪郭に息づかせたサイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)の造型はすでにそれだけで勝利だし、さすがに3人ほどの深掘りは叶わないにしろ安達(MIYAVI)や加藤(金子ノブアキ)といった敵役にも可能な限り言い分を与えていたのも原作の理解あってのことだろう。その分、原作ではカズキたちを金と人情でバックアップする魅力的な存在だったチャイニーズマフィアのヤンくんまで手が回らず、高田(林遣都)あたりにそのキャラクターが吸収されてしまったのはやむを得ないところではあるのか。砂を噛むような風景の中で血の味を口に感じながら立ち尽くしたまま、それでも遠くを見続ける者たちへの共感と救済を使命感のように描き続ける入江悠監督がロードサイドや河川敷に灯す明かりが吹き消され辺りが真っ暗になってしまわないよう見守るのはワタシたち観客の責任であるに違いない。それにしても、そんな風な映画ばかり観てきたワタシは、最後にダンプが牛丼屋に突っ込む光景が一瞬ちらついたものだから慌ててそれをかき消したりもしたよ。
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2018年12月05日

へレディタリー 継承/ごめんで済んだら母親はいらない

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ハネケやファルハディ、最近だとオストルンド作品を観ていて、これはもうほとんどホラーだな…とつぶやいてほくそ笑む、ほとんどホラーなその先の薄昏い角を曲がっていっそホラーにしてしまえば、もっとしたたるような「他人の不幸は蜜の味」が搾り取れるに違いないとアリ・アスター監督もまたほくそ笑んだかどうかはともかくとして、私が私であるがゆえ逃れられない存在の激痛に催す吐き気のような神経戦に、その激痛をもたらす“もの”を具体化して絶望をなお直截的にするホラーの語り口を外科手術の緻密で縫い合わせることで、ロウブロウとハイアートを横断し折衷した新種の昂揚(まさにあのラスト!)に触れた怖気を持ち帰ってきた気がずっとしているし、それを切らしたくないという思いに囚われている気もずっとしているのである。したがって、この映画の怖さというのはメメントモリ的な死の脅威というよりは、世界の法則から外れた人間がどのように変質していくのかを無慈悲に見つめ続ける視線にこそあり、オープニングでアニー(トニ・コレット)の作るドールハウスに侵入していくカメラは、これが忌まわしく大いなる意思によって俯瞰され導かれ作り上げられた物語であることをその視線で告げることとなる。起こったことがドールハウスで再現されるのか、ドールハウスで作られたことが起きるのか、既にアニーがある種の依り代となっていることは、冒頭の葬儀シーンで紋章のペンダントをしていることもうかがえるわけで、母親に精神支配され続けた娘がその呪縛を打ち払いつつ刻み込まれた自身の狂気とも闘い、しかしついにはそれらに呑まれ敗れていくその哀しみがホームドラマとしてのこの物語を透明で硬いペシミズムで覆うことでホラーのハシゴを外したとしてもそのまま成立する強度を持ち得たようにも思っている。対象にフォーカスした同一ショット内に霊体の気配を配置し、しかしその存在は観客にしか視えていないというJホラー的なショックシーンを排しつつ、しかしある一点でここぞとばかりに繰り出したケレンには小さく声が出たし、視えているのに視えていないショット、例えば授業中にいきなり振り向いてピーター(アレックス・ウルフ)を凝視するブリジット(マロリー・ベクテル)や遺族の集まりで一つだけ空いた椅子、ピーターの部屋の窓越しに見えるいつも灯りのついたツリーハウス、といったあたりの漂わせ方で知らず毒が回っていく。また、アニーがジョーン(アン・ダウド)の家に向かうシーンやピーターが学校で授業を受けているシーンなど、家の中のシーン以外ではほとんど同一のショットを繰り返すことによって全体の閉塞が緩むのを絶妙に回避もしている。おそらくアリ・アスターという監督はことさらホラーの文法で綴っては観客を怖がらせようとする意識もさほどないまま、状況を反映させる感情を忠実にデザインした結果がこうなったに過ぎず、さすがに家族同士が字義通り首の刈り合いをする物語を着地させる術が手持ちにないためその点を悪魔に頼ってみたのだろうし、一番怖ろしいのは人間であるという今さら陳腐でしかない物言いを衒いなく言ってしまえるのも、妹チャーリー(ミリー・シャピロ)の首を飛ばした翌朝のピーターを襲う、死んだ方がマシなのに死ぬことすらできない僕はすべてが夢だったことに賭けてみたがそれもあっけなく潰えた今この瞬間、死ねない僕を誰か殺してくれないかそれも核ミサイルの人災や大地震の天災によって、という薄ら寒い希死念慮であったり、それを口に出したらもう引き返すことはできなくなるその一線をアクセルべた踏みで破壊的に超えていく食卓のシーンであったり、といった人外によるアタックとはまったく無関係なシーンこそがこの映画のピークで針を振り切っていたことに明らかで、おそらくこの監督のフルスペックはホラーのくびきから離れたところでこそ世界に轟くのだろうと考える。あけすけなドールハウスショットで展開する、オマエが燃えるんかい!の爆発的な緊張と緩和の達成が知らしめる監督の浮世離れした暗闇を指さして、やっぱりこの人は悪魔だった!とほくそ笑む未来をワタシは待ち望んでやまない。
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