2018年11月12日

ボヘミアン・ラプソディ/華麗なるトレース

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ワタシ自身はファンと言うよりは通り一遍のリスナーなのだけれど、ロンドンまでフレディのお墓参り(厳密にはお墓はない)に行くような人間がごく身近にいていろいろと聞かされる話を以前から耳学問にしていたこともあり、当初映画に関する企画を知った時は異邦人でありかつ横断したセクシュアリティをもつフレディ・マーキュリーというアーティストのポートレイトにどのような角度で陰影をつけるのかとても興味がわいたし、その後でフレディをシャ・バロン・コーエンが演じるというニュースを知った時は、誰が舵を取っているのかわからないけれどスリリングなプロジェクトになりそうだなあと少なからずワクワクもしたのだ。したがって、正確な経緯は不明ながらサシャの降板と彼の言い分など聞くにつけ、変更されたプロジェクトでは少なくともフレディの深淵を覗くような映画になることはないのだろうなと思ったし、その後で目に入るニュースのあれこれからは建前で均された公式バイオピック的な色合いが濃くなっていることがうかがえていたわけで、まあそういうことなんだろうなという予見を持って観てきたのである。といった具合にブライアン・メイにとっては好ましからざる観客であろうワタシからすると、クイーンとフレディ・マーキュリーのストーリーを刻むにあたって避けては通れない泥道でお気に入りの靴が汚れるのを嫌うあまりそこを飛び越えようとした跳躍の見事さに思わず見とれてしまったというのが正直なところで、嘘も方便というまさに映画の映画たる所以の馬鹿力もあり、人々の記憶の中に永遠にとどめてほしいクイーンとフレディ・マーキュリーの姿(だけ)を描くというブライアン・メイのギラギラした野心はキラキラと輝きながら見事達成されていたように思うのである。なにしろこの物語に関わる人々を誰一人悪しき者とは描くべからずというそのルールは、ポール・プレンターにすら「アイルランドのカソリックの家に生まれたゲイの悲劇」を言い訳として許していたことにもうかがえて、ならばとワタシは降伏するしかなかったのだ。そんな中、他の登場人物に比べ格段に似ていない俳優をあてがわれた上、まともなセリフすら与えられない盟友(のはずの)ロイ・トーマス・ベイカーの不憫に泣く。これ僕たちの映画だからキミの分の手柄はないよということね。
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2018年11月11日

負け犬の美学/誰がために傷は裂く

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始まって早々、試合に敗れたスティーヴ(マシュー・カソヴィッツ)が煙草を喫う姿を見て、今の彼はアスリートであることを止めてしまっているけれど、そのうち復活への小道具として煙草が使われることになるのだろうなと、基本的には一本道を行くことがほとんどなボクシング映画の紋切り型を思ってみたりもしたのである。確かにそれはその通りではあったのだけれど、それは予想された禁煙の真逆の姿で示されることになるどころか、ある大一番の場面で彼に煙草をくわえさせるのは彼の妻マリオン(オリヴィエ・メリラティ)ですらあるわけで、この映画が最終的に描くのはもはやアスリートではないブルーカラーとしてのボクサーが、かつて燃やしたアスリートの残り火を鎮火する儀式のラウンドであったといってもいいだろう。スティーヴがアスリートとしての自身にいつ見切りをつけたのかは描かれないけれど、スパーリングパートナーを務めるかつての王者タレク(ソレイマヌ・ムバイエ)に向かって言う「敗者あってのチャンプだろ」という言葉こそが彼のプライドとボクシングに対する愛情とを告げているのは言うまでもなく、その戦績からして売り出し中のルーキーの噛ませ犬を幾度となくつとめたであろうスティーヴの、ボクシングという世界の在り方を愛するがゆえ“持っていない者”が“持っている者“に我が身を差し出し続けるその姿は、“持っている(かもしれない)”娘にピアノを与えることは親である自分の義務に他ならないと奮闘する姿にも重なって見えもするし、それらすべてを理解した上でなおボクサーとしてのスティーヴを愛しサポートするマリオンもまた共に闘っていた人なのだろうと思うのだ。現役最後の試合のラストラウンドで、スティーヴがそれまで見せたことのないステップをたどたどしく刻んでは飛びこむようにパンチを繰り出すそのスタイルはまるでタレクのそれを真似たようにも見えるのだけれど、おそらくそれこそは彼が焦がれつつもあきらめたボクシングのスタイルだったのかもしれず、場末のボクサーである彼が元チャンプのタレクに向かって、自身のスタイルを貫くよう分不相応ともいえるアドバイスを止めないのもタレクのボクシングに憧憬と理想を見ていたからなのではなかろうか。そして、そうやって踊り始めたスティーヴを見た時のマリオンがみせる心の底から輝くような笑顔は、暗がりからリングのスティーヴを見つめるタレクが浮かべる仄かな笑みとつながって、人生と共にボクシングを愛し続けた者だけが知る祝福の言葉をスティーヴに贈ったように思えたのだ。美容師の仕事をして家計を支えながら2人の子供にきちんと向き合い、夫の生き様を卑屈の影なく愛しつつ肯定し、かといって都合の良い妻を演じるどころか共犯の香りを不敵にふりまくマリオンがこの映画の陰影にエッジを与えているわけで、試合で負った傷の手当てをする彼女の尻に手を回すスティーヴの手を邪魔よとはらったかと思えば、手当を終えた後でその手をまた自分の尻にあてがうその仕草でワタシはマリオンに恋をしたし、そんな彼女を虜にし続けるスティーヴに嫉妬もするのだ。傷みっぱなしのマシュー・カソヴィッツがいつしか晩年のジョー・ストラマーにも見えてきて、それゆえそのセンチメントがなおさら透明に自爆した気がしたのかもしれない。サミュエル・ジュイという名前を憶える。
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2018年11月09日

ハナレイ・ベイ/ずっとわたしを過ぎるもの

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大胆と言ってもいいラストの書き換えによって、サチ(吉田羊)が彷徨した喪失の日々にハッピーエンドと言ってもいい再生の光が差すこととなる。したがって、その手続きとしてのストーリーはサチがいかに涙を流すか、涙を流させるかという変転を描くことになり、どこへも往かぬ中空で揺れ続ける人生の静かな暴力性が支配した原作に、イギー・ポップやら何やら手を替え品を替えして道筋を与えることでその暴力をなだめた監督の脚色は、見事とかいうよりはそのためらいのない所業に感服したわけで、おそらく監督は村上春樹という名前にも作品にも過分な畏れを欠片ほども抱いていないのだろう。とはいえ端々で見受ける映画オリジナルのエモーショナルな継ぎ目以外は、村上春樹作品の彩りともいえる漂泊/漂白の白い空気をそれなりのグラデーションで掴まえているし、なかでも、原作では名前もないまま「ずんぐり」としか呼ばれない日本人に高橋という名前を与えては、精神の奥底が本能的に水平な村上作品のキャラクターとして映画的な立体を備えさせ、それを演じる村上虹郎の的確な解釈による好演も手伝って、ただでさえ狭いストライクゾーンのぎりぎり角をかすめるコースには投げ込んでみせたように思うのだ。基本的には密やかな幽霊譚である原作から真っ向の幽霊譚へと舵を切ったあのカットや、うつむき加減にそよぐカーテンが運ぶその黒沢清的予感を含め、ハワイの陽光の下にイデアとメタファーをもろともに晒したそれはクソ度胸なのか冷静な計算なのかはうかがいしれないにしろ、あらかじめ昏睡したような原作の目の覚まさせ方としては、頷けるところのあるやり口だったのではなかろうか。ただ、ある情動の状態を実体化させて補助線とするために脚色されたツールとしての手形は正直言ってあまりうまく機能していないと思うし、サチを決壊(=プライマル・スクリーム)させるトリガーとしては紋切り型が過ぎたというか座りが良すぎたように思ってしまう。たった一度だけサチが吉田羊の顔になっておそらくは手持ちであろうカメラを笑顔で見つめる、挑戦的なのか気晴らしなのかわからないカットがあったのだけれど、それが、その後陽光の中でしばし冥界を彷徨うことになるサチの「生前」最後の笑顔のつもりなのだとしたら、やはり想像以上に食えない映画であり監督であったということになり、解放されないハワイを閉じ込めた近藤龍人の鎮めるようなカメラがその共犯となる。
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2018年11月07日

ヴェノム/あなたの最悪なる隣人

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ヴィランをヴィジランテ化するとかいうどちらかと言えばDCがヤケクソでやりそうなアクロバットを、オスカー・ノミニーなトム・ハーディとミシェル・ウィリアムズを惜しげなく注ぎ込んで着地させようと画策する素っ頓狂が既に愉しいし、こういう脇の甘いでたらめがやけに好ましく思えたりもするのはファイギの全問正解にそろそろ不感症になってきたせいもあるのだろう。そのあたり、PG13版『デッドプール』を狙ったとするならば、あちらを青年誌とした場合の少年誌的なノリは意図的なものだろうし、描写の深みよりは展開のノリを選んだのはこの監督を選んだ時点で明白であり(書き割りのような『L.A. ギャング ストーリー』を思い出してみればいい)、それもあって寄生から共生へのターンがぼんやりしてしまった点など食い足りないのは明らかながら、MCUの間隙をぬう狙いはそれなりに的を射ていたように思うのである。『ブロンソン』あたりを思い出させるピーキーでフリーキーなトム・ハーディやミシェル・ウィリアムズのおきゃんなモードもその反映であったのだろうし、アン(ミシェル・ウィリアムズ)の今カレであるダン(リード・スコット)の手っ取り早いキャラクター造型などは逆に新鮮にすら映る。エディ(トム・ハーディ)の言うこと“だけ”には聞く耳を持つヴェノムという解釈を馴染ませるには、残虐なモードでのスタートとその描写が必要だったように思うのだけれど、レイティングとの兼ね合いでその牙が抜かれてしまったのは痛し痒しというところか。いずれにしろ「うしおととら」として舵を切ってしまった以上、『デッドプール』的な酷いアクションをボケとした一人漫才のノリツッコミはあてにできないことを考えれば、エディとヴェノムの掛け合い漫才によるリズムでアクションのスピードを煽っていくシナリオと演出の運動神経を磨かない限り失速するのは目に見えているわけで、ソニー・ピクチャーズがこの金の卵をどう孵化させるかお手並み拝見といったところか。ラストのあの人といい役者はすでに揃っている。
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2018年11月03日

怪怪怪怪物!/泣いても血しか流れない

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「バケモノにはバケモノをぶつけんだよ!」とでもいった人喰いの怪物姉妹vs悪ガキ高校生というホラーコメディの図式からノンブレーキでコースアウトしていくそのハンドルさばきと、その向かった先のあまりにもえげつない悪路に笑顔はぎこちなく消えていく。悪ガキというには悪ふざけの才能が犯罪的に過ぎる高校生グループに捕らえられた怪物の妹と、グループ内のいじめられっ子リン・シューウェイが出会うことで果てしなく抜け続ける悪意の底はいったいどこに終わりがあるのか、自分の身代わりになって凄惨な虐めを受け続ける怪物の正体を知ったリン・シューウェイは、束の間の解放を享受する自身の性根に対する嫌悪と怪物へのシンパシーとの間で引き裂かれながらも、何とか正気を保つべく自身を殴り続けるのだけれど、いつしかそれは彼の内心を破壊し始めて後戻りの効かないコーナーを曲がってしまうことになる。レンハオを始めとするリン・シューウェイ以外の悪ガキ達の内面や背景はあくまで書き割りとしてのクズにとどめられ(レンハオのあれはリー先生による書き割りの追加にすぎない)、映画の主眼はリン・シューウェイが最期には悪意の底に激突してそれと刺し違えるに至るその蒼い魂の彷徨を追い続けることになり、彼が最終的にたどりついた、僕たちはみな死ぬしかない、なぜなら生きるに値しないほど救いがたいクズだからだという青春のニヒルに重奏する怪物の断末魔が、いったいおまえ達が怪物でなかったためしなどあるのかと蔑むような目つきでワタシの胸をザックリと抉っていくわけで、たった一人生き残ったのが誰であったかを思い出してみればこの映画のメッセージはそれに明らかだろう。しかし何よりこの映画が誠実であったのは、強者が弱者に対して行う容赦のない加虐の図式がそのイマジネーションゆえ映画的な高揚すら可能にしていた点で、スクールバスの大殺戮の中、最期の瞬間までクズの矜持を失うことをしないシーファのクールネス(事切れた彼女のヘッドフォンから漏れるCHARAの歌うMy Way!)には喝采を送るしかなかったし、学校という世界における最凶の怪物とも言えるリー先生が火だるまとなった姿を見る昂揚も、ワタシの昏い蛮性の喚起と誘導の結果だったのだろう。そうやって深淵の怪物を覗いた時そこに何が見えるかという胸糞悪さを、繊細かつ匂い立つ露悪で幻視するプロダクションによってあくまで娯楽として成立させる確信と志に震わされる傑作。
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2018年11月02日

search/サーチ #FatherKnowsBest

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PC画面ですべてのカットを構成する縛りはあくまで手法にとどめ、登場人物たちの感情の移ろいそれ自体はあくまでオーソドックスかつ細やかに描写されていて、紋切り型で陳腐なデジタル世代の断絶(邦画に顕著な陥穽)的なメンタリティの先へ伸ばしたその手つきこそがこの映画の清新となっている。言ってしまえば、ここにあるのはデヴィッド(ジョン・チョー)とマーゴット(ミシェル・ラー)のキム親子、ローズマリー(デブラ・メッシング)とロバート(スティーヴン・マイケル・アイク)のヴィック親子というそれぞれに事情と問題を抱えた親子がすれ違ったことで足を踏み外す運命の翻弄が綴る物語であって、その光と影、ポジとネガという裏表を入れ替えてヴィック親子の物語へと舵を切ってみても成立する複層が、飛び道具としてのスタイルに重心と奥行きをもたらしていたように思う。とは言えこうしたネットワーク無双なスタイルを前にすると、あらかじめインターネットのなかった世代としてはノイズぎりぎりのバイアスがかかってしまうわけで、あらかじめインターネットのあった世代にとってネットはテレビやラジオ、出版といったメディアと同列のフィクショナルな世界で、その中で様々なデジタルデータの意匠によって構成された自分の存在を意識と無意識で混濁させながら現実と非現実を行き来するその姿は果たして「新しい人」なのか「誤った人」なのか未だにワタシは測りかねていて、例えば劇中で自分の現在地をクリップしたまま糞リプを垂れ流してはデヴィッドに顎を割られる若い衆などその典型で、あらかじめインターネットのなかった世代としてはそれが現実の世界にどうやって根を生やしていったのかをその功罪と共に嫌というほど見てきただけに、どこへどう潜り込んだところでネットは現実でしかないという認識が揺らぐことはないし、そこへ自らを無防備かつ無邪気にに白紙委任してしまう危うさと脆さへの警戒が薄れることは今までもこれからもあるはずがなく、してみるとおそらくはそちらの世代であろうデヴィッドがしばしばみせるタイピングの逡巡も無意識の自己防衛に思えたりもしたのだ。しかし、そうやって記憶=記録へと混濁していく世界だからこそデヴィッドは結末にたどり着けたにしろ、いつしか頭をよぎるのは、なぜレプリカントは写真を集めたがる?というデッカードの呟きだったりもした。
posted by orr_dg at 03:22 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする