2018年10月30日

テルマ/神がわたしをつくった

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※展開に触れています

怖ろしいというよりは、苦しい。それはテルマ(エイリ・ハーボー)が対峙する生まれ直しの苦しみにも思え、両親によって宗教と薬物の枷で封印され亡き者とされた真の自分が再びこの世界に生を受けるためにくぐり抜ける瞬間の仮死を、ヨアキム・トリアーはほとんど啓示的といってもいい甘美な共鳴と不穏な共振のデザインでワタシ達に追体験させようと図っている。エルマの閉塞や苦痛、混乱、畏れといった鈍色の感情が、疼くような蠱惑の輝きと強烈な毒性をたずさえた異様な比重の、まるで水銀のような映像が血中にもたらす酩酊は既にそれだけでこの映画を止むに止まれぬ記憶として成立させている。しかし、テルマが次第に水銀の海をたゆたう身のこなしを知るにつれ、溺死の恐怖は運動の快感へと姿を変えて、オイディプス的というよりは家父長制への反乱ともいえる父殺しを果たすことで覚醒を手にした彼女が、まずはその能力を用いて母親を解放したのは至極当然であったように思う、おそらくはその力で自分に血を贈った祖母を覚ますこともするのだろう。してみると、ワタシがほんとうにホラーを感じたのはあのラストということになるわけで、それまでとは打って変わったフェミニンな装いで現れたアンニャ(カヤ・ウィルキンス)が自分のジャケットを羽織ったテルマに甘えるようにしなだれかかる姿は、テルマによる世界線の物語へと完璧に舵を切ったあらわれに見て取れて彼女が神となった世界に許される幸福に少なからず胸がざわついたし、『反撥』や『キャリー』では世界と刺し違えるしかなかった彼女たちは世紀の変わった今、『RAW』や『ぼくのエリ』がそうであるようにありのままの姿で勝ち逃げし始めていて、この映画もまた焦燥と恍惚のスピードで彼女たちを追っていったのは間違いがないだろう。上映前に注意はあるものの、あるシーンのフラッシュライトは想像以上に強烈なので自分の耐性に自信のない人は気をつけた方がいいかもしれない。素晴らしくヒプノティックなシーンなので諸刃の剣ではあるけども、それくらいヨアキム・トリアーの針は一切の迷いなく生と死の間髪を振り切っている。
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2018年10月29日

デス・ウィッシュ/マッドネス・イズ・ア・ウォーム・ガン

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ことさらフェティッシュに自失することもなく、たがを外すにしても理性と批評眼を端正にたずさえてルサンチマンめいた死体蹴りをすることもない、要するに感心はするものの熱狂にはタッチの差で至らないいつものイーライ・ロス映画だったわけで、それはおそらく自分の資質を理解しているからこそ、いくら露悪的にふるまってみたところで底を見抜かれるだろうことを先回りしてはりめぐらした予防線がそう感じさせるように思ってしまうのかもしれない。ブロンソン版のポール・カージーは、70年代に顕著だったオーヴァーキルな復讐者として暴力衝動に喰われて怪物化していく市井の男であり、それを警部が代表する正義のセンチメンタリズムが肯定することでヒロイズムを獲得することになったわけだけれど、劇中における彼の覚醒の経緯を今日そのまま再現すれば政治的な物議を醸すのは必至にちがいなく、それらをすべてオミットしてまでポール・カージーを蘇らせる必要があったのだとすれば、それは暴力の連鎖によって自らが放った銃弾に全てを奪われた彼を磔にする凄惨な悲劇となるしかなかったように思うのである。そうしてみた時、怪物の断末魔をまるまるミュートする気の抜けた復讐譚のどこにリメイクの必然性があったのか疑問に思うのは当然な上、フードで顔をおおったブルース・ウィリスの烈しくシャマランな既視感といい、少なくともブロンソン版が獲得していた同時代性の欠片も見当たらないこの行儀だけは良いリメイクは、あわよくばポール・カージーをフランチャイズ化したいだけのおためごかしとしか思えなかったのが正直なところで、ほどよくデオドラントされたジョー・カーナハンのシナリオもその意に添ったということになるのだろう。片目を閉じた時代に描かれた作品を新たに描き直す時に、両目を開けるバランスを投入するのではなく片目でしか見えない世界を意識的かつ批評的に捉えることをしなければ、そこには均された角度の総花が映るだけで片目が映さなかった世界が闇の中から浮かび上がることがないように思うのだ。牙を抜いたなら、まだ血のついたその牙を映すべきだろう。
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2018年10月28日

スカイライン 奪還/馬鹿がUFOでやって来る

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今いちばん足りてないのはこういったシネパトス、あるいはシネマミラノ成分であることをあらためて宣言するこの映画は、ジャンル映画においてさえ強迫観念的なリアリティチェックがなされる閉塞した昨今において、木の葉を隠すなら森の中ということわざを恭しく掲げつつ、全編をツッコミどころにしてしまえば各々のツッコミどころは無効化されるとでも言わんばかりの謎理論を持ち出したばかりでなくそれで逃げ切ってみせさえしたわけで、せいぜいがパイロットフィルムでしかなかった前作からのコペルニクス的あるいは居直りと言ってもいい逆転の発想には敬服するしかなかったのだ。なぜいきなりラオスなのかと訊ねられれば、そこにイコ・ウワイスとヤヤン・ルヒアンがいるからだと答え、巨大ロボのプロレスはKAIJUのアレだねと言われれば、『ランペイジ』然り、SIZE DOES MATTERを復権させたくてねと胸を張る独善性 は、例えば『クワイエット・プレイス』のスマートな両義性の対極で重宝されて然るべきだと考えるし、ついには切株と化したマッドドッグ先生の勇姿がいかに誇らしげであったか、それはもう、行き先知れずのチューインガムを噛んでそよ風に誘われる(by浅井健一)ような清々しさであったと言い切ってしまうことにやぶさかではないし、広げた大風呂敷にからめとられて窒息死しそうなラストにしたところで、このうつけ達が7年かけて達成した野望を見せつけられた今となってはもう笑い飛ばすわけにはいかなくなっているどころかワタシはそれを待ち望みさえしているし、正直言ってスター・ウォーズの新エピソードよりなんぼか期待すらしている。取り急ぎ、演者ですらが多幸感にあふれて呆けたNG集を刮目せよ。
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2018年10月25日

バッド・ジーニアス 危険な天才たち/わたしたちが得意だったこと

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ちょっとした叙述トリックをある時点でネタバラシしてしまうことで、ああこれは青春のピカレスクとしてゴールを切ることになるのかなと匂わせておきながら、まるでそれが合図でもあったかのように映画は一気に青春の蹉跌へと舵を切り始め、リンを演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジンの涼やかながらドスの効いた目と暴力的な頭身が最大限の効果を発揮して神経を苛み始めることとなる。したがって『ザ・カンニング [IQ=0]』がそうだったように反逆の中指としてのカンニングというよりは、先ほど触れた叙述トリック部分の構造的な参照など含め、どちらかと言えば『ソーシャル・ネットワーク』的な青春の孤独と破滅のストーリーに映画は身を寄せていくわけで、最後にリンが選択した罪と罰によって持たざる者が持つことを願った日々の狂騒からすくい取られた哀しみの上澄みがこの映画の儚いきらめきとなったように思うのである。したがって、その狂騒のボルテージが高出力であればあるほどその断絶が烈しく切なく行われることになるのだけれど、それにしたところでカンニングという行為そのものがリンという才能を下層から上層へと苛烈に吸い上げる搾取の構造を次第に隠さなくなっていくことで、コンゲーム的な痛快や爽快が一線を越えた捨て身の大博打へとサスペンスの色を変えていくこととなり、その切り刻み方の容赦のなさこそがこの映画のハイジャンプを決定的にしていた点で、神経症的な残酷ゲームのスピードこそが今日性の象徴であることを良くも悪くも叩きつけられた気がしたのだった。仮にハリウッド・リメイクがなされた場合、あのラストはまず確実に変更するだろうなという親がかりの勧善懲悪がいっそう傷口に塩をすり込む。いったいこの父親からなぜチュティモン・ジョンジャルーンスックジンがという言うその父親はほとんど村上春樹なのだった。
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2018年10月22日

ルイスと不思議の時計/スピルバーグならこう言うね

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この世界は映画のセットみたいなもんさ!というアンブリン的ジュヴナイルのワンダーとイーライ・ロスのグロスアウトな稚気が思ったよりも正常な食い合わせに仕上がっていて、初の非R指定作品(PG)にも関わらず自身の作家性をスマートにアレンジして窮屈さを感じさせなかったことに少し驚いたのである。予告篇ではルイス(オーウェン・ヴァカーロ)を取り巻くポンコツな魔法使いの叔父ジョナサン(ジャック・ブラック)と切れ者の魔法使いフローレンス(ケイト・ブランシェット)という構図で描かれているけれど、実際にはある過去の傷によってフローレンスもまたポンコツと化していて、けっして声高には叫ばないながら1955年という時代背景およびZimmermanという彼女の姓、そして彼女の手首の数字にその理由は決定的で、敵役アイザック(カイル・マクラクラン)がヨーロッパの戦線で悪魔と契約して手に入れた魔術をナチスが信奉したオカルティズムとしてみれば、この映画が背景にしのばせたメッセージをあらためて言葉にするまでもないだろうし、そうした意味でも由緒正しきアンブリンの映画となっていたように思うのである。したがってそうした物語の展開上、躓いている状態のフローレンスが描かれることになるわけで、最近はと言えば確信と自信に満ちたキャラクターを颯爽と演じることの多いケイト・ブランシェットのシンプルな凹み顔を目にすることができるのもこの映画の妙味といってしまってよいのではなかろうか。つい先日、真夜中にCSで『銀河鉄道999』を見ていて、ああ、と思わず呆けた声を出してしまったのは、第二期ケイト・ブランシェットの端緒といってもいい『ロード・オブ・ザ・リング』でガラドリエルを演じた時の特にフロドとの関係性における既視感というか奥底の記憶が揺らいだその正体がようやくクリアになったからで、それは、あのケイト・ブランシェットにワタシはメーテルを見ていたということに他ならず、今はもうメーテルの衣装に身を包んだケイト・ブランシェットを目にしないうちは死んでも死にきれないとすら思い始めている。
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2018年10月19日

アンダー・ザ・シルバーレイク/ To Live and Die in L.A.

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狂った世界で正気を保つためポップカルチャーに身をまかせ、世界の法則を知ったつもりになってみたところで、何のことはないそれはすべて他人が考えたアイディアの尻馬に乗っているだけではないか、俺はそいつらに囲まれたドーナツの穴でしかないのか!とニヒルに堕ちるまでがポップカルチャーであって、そんなことはいまさら百も承知であればこそ、サム(アンドリュー・ガーフィールド)がお気に入りの配置で床に拡げたズリネタこそがポップカルチャーの真の姿なのだ、としたり顔で言ってしまったりもできるわけである。鑑賞後にまとわりつく澱のような倦怠は、この映画がそうしたポップカルチャーの輪廻を140分にダイジェストした曼荼羅であったがゆえの取り付く島のなさによっていて、本来であればフクロウのキス(=自殺)によって曼荼羅の一部となるはずのサムがそれをかわしてヒモ(特別な自分という幻想の喪失)になることでステージを上げるラストに至ってようやく映画的なドラマを匂わせるデヴィッド・ロバート・ミッチェルの食えなさは、『アメリカン・スリープオーバー』『イット・フォローズ』のラストがそうであったように精神的な行方不明者を生み出すことで終わらない明日への不安と不穏を吐瀉物のように郊外の通りへ吐き出していく。死にたくなければヒモになれという暗黒L.A.の処世訓は『サンセット大通り』マナーの愚直にして崇高な遵守であったのは言うまでもない。これまでアンドリュー・ガーフィールドに感じていた違和感は、かつてヒッチコックがアンソニー・パーキンスに見つけたウィアードがそうさせていたことがわかってようやく腑に落ちた。手についたガムがぬちゃ〜っと伸びて取れないようなその笑顔は世界のあらかたから味方を失わせるに十分だろうが、あれが本来のはずである。トレイラーで使用されていたヴァイオレント・ファムズがどこにも聴こえなかったのが少しばかり残念。
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2018年10月14日

リグレッション/泣くのが怖い

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※ネタを割っていますが、主演俳優の受難を愛でる物語なのでさほど問題ではないかと。

あんたたちのそういうところだよ、とまるで観客を嗜めでもするような終わり方にも不思議と腹が立たないのは、そこに至るブルース・ケナー(イーサン・ホーク)の倒けつ転びつする七転八倒をそれなりに愉しませてもらったからという理由が大であって、いささか潔癖症的な善意と正義の人ケナーがアンジェラ・グレイ(エマ・ワトソン)という若き毒婦にハニートラップまで繰り出されて翻弄されたあげく、絵に描いたようなパラノイアに囚われて行くさまをアレハンドロ・アメナーバルは不穏と不安と不条理のムードを総動員して追い込んでいくのである。とは言えミステリーとしてはやけにあっさりネタを割るカットがいきなりインサートされて拍子抜けしてしまうのだけれど、少し調子に乗ってイーサン・ホークをいたぶり過ぎたと監督は腰が引けたのだろうか、せっかくいい具合に心神喪失が上気しつつあるところだったし、ここからが彼の真骨頂と思えただけにその意気地のなさがいささか悔やまれるところではあったのだ。オチとしてはどちらに転んだとしてもそれなりに収束してしまう話であったことを思うと、やはり監督にはイーサン・ホークをどこまで蹴堕とすことができるかその深淵を覗かせて欲しかったし、セックスのオブセッション丸出しで淫夢に悶えるイーサン・ホークがけっこうなやる気をみせていただけに、突然正気に戻り事件を解決し始めるその姿には、話が違う!と憤ってみせたりもしたのである。というわけで、界隈の大御所感を醸し出しつつあり昨今からすれば、イーサン・ホークが半べそで疾走するこの2015年作品は貴重なフィルモグラフィーとなりそうな気もするので、彼のパセティックに焦がれる側の方々は現時点で東京1館、沖縄(!)1館というハードルの高さはあるにしろ取りこぼしのなきようにと言っておきたい。なかなか要領を得ないアンジェラの父ジョン(ダーヴィッド・デンシック)に苛ついたケナーが「帽子を取れ、いいからその帽子を取れ!」と八つ当たり的に激昂するシーンで、無表情のままおずおずと帽子をとったジョンの頭が、まるでこれが答えですとでも言うかのように落ち武者的な見事さで禿げ上がっていて、しかしそれが意味するところなどもちろんあるはずもないシュールな一発ギャグにはケナーならずとも攪乱されること必至で、ああ今日はもうこれで良しとしようと思わせる屈指の名シーンとなったのだった。そういうチャームの映画であることも念のため付け加えておきたい。
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2018年10月13日

運命は踊る/不幸なことに幸運

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戦争国家においては自業自得の事態だと言ってしまえばそれまでなのだけれど、この独自の視点はそうした国に生まれ育った者だけが持ち得る角度によっているわけで、声高かつリアルな息遣いで反戦を叫ぶというよりは、場合によっては世界のどこでも起きうる話として寓話の攻撃的な曖昧さで戦時下の憂鬱と倦怠、すなわち厭戦の気分を垂らしていく浸透性が新鮮かつ有効に思えたのである。軍が戦死の報を家族に告げる際の、そのショックに応じてあらかじめ薬物投与の注射器まで常備する効率化されたルーティーンワークは、遺族の感情などおかまいなしに送り込まれた軍付きのラビが淡々と進める葬儀の準備と進行の段取りにまで及び、しかしそれには同姓同名の戦死者を取り違える誤報であったという杜撰で間抜けなオチが用意されているわけで、全体としては三幕構成となるその第一幕において戦争というよりは軍に対する潜在的な反感と嫌悪があぶり出されてくことになる。当の兵士ヨナタン(ヨナタン・シスレイ)の父ミハエル(リオル・アシュケナージ)は、イスラエルにおける富裕層かつ知識階級にくくられるわけで、そうした舞台仕立てによってこれが階級闘争的に立てられた中指でないことをあらかじめ告げておくあたり国家の強権に対するアスガー・ファルハディの手さばきに通じているようにも思うし、してみればこの映画がイスラエル国内の右派から攻撃されたのも至極当然に感じられたのである。しかしこの映画が残酷でユニークなのは、前線からは遥か彼方のどこともしれぬ地の果ての検問所でヨナタンが過ごす奇妙に弛緩した日々を描いた第二幕によっていて、いったい自分はここで誰と何のために戦ってるんだろうか、と戦争の全体性が次第にデカダンスへと沈んでいく黒いオフビートは『キャッチ22』や『M*A*S*H マッシュ』といった先達を彷彿とさせつつ、しかしこの状況における最低最悪の幕引きがそこには用意されているわけで、一見したところ第一幕と第二幕がもたらした罪への罰として描かれる第三幕は、それと同時に喪失から再生へと向かう道筋とも言えて、第一幕では軍の投与した薬物によって激情をコントロールされた母ダフナ(サラ・アドラー)の感情は、この第三幕においてヨナタンの形見のマリワナによって解放されていくのだけれど、彼が最期に描いた絵の本当の意味をミハエルもダフナも永遠に知り得ることがない皮肉がイスラエルで戦争の庇の下で生きる人々へ向けられたことを考えてみれば、そこにはテルアビブに生まれレバノン戦争で戦ったサミュエル・マオズ監督の中道的な憂国がうかがえるのは確かなわけで、時折り決め打ちすぎる狙いが透けて若干鼻につくきらいがあるにせよ、運命の引き金を引くのはあくまでそこにあって逃れがたい現実であることをシニカルだけれどニヒルに沈まないバランスでしたためたこの映画が、『戦場でワルツを』がそうであったようにイスラエルという鬼っ子のくびきから一時離れて自由で今日的な声を獲得してみせたのは間違いないように思う。
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2018年10月07日

イコライザー2/お前に長寿と繁栄を

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かつて殺人マシンとしてウェットワークで殺めた数と同じだけ、自分は罪なき人々を救済せねばならないという意味でのequalizeなのではなかろうかと、置かれた本の位置をミリ単位で修正するロバート・マッコール(デンゼル・ワシントン)という男が自らの手で何人の生命を奪ってきたか正確に把握していないわけがないだろうことに思いを至らせた時点で、贖罪に憑かれた男の地獄めぐりという2作目にしてはやや性急とも言えるネタ割りが不意をつくように深々と沁みてきたのであった。前作では世界の法則の調停者として実存的な乾きすらみせたマッコールの、しかし知られざるその虚無には嵐が吹き荒れていることを告げるのがあのハリケーンだったのだろうし、そうした作用反作用的な足かせがイコライザーというポップアイコンから浮力を奪ってしまうことを承知の上でアントン・フークアは古風と言ってもいい落とし前を望んだのだろう。それはおそらくデンゼル・ワシントンという高貴と野卑をエレガントに飼いならす俳優を前にしての避けがたい誘惑でもあったのと同時に、国家のための殺人という灰色の世界に身をやつした男が自らの魂を救うためには、善悪/白黒の二元論にすがるようにして寄り添うしかなかった精神の麻痺と硬直をキャラクターに注入したことへの罪悪感のような薄暗さが、前作の拡大再生産という手管を良しとしなかったように思ったりもしたのである。かといって、鈍重まで重心が沈み込む寸前に切り上げる目配せの巧みもあり過剰なドラマツルギーに窒息する愚からはぎりぎりで逃れていたし、アマチュアからプロフェッショナルにシフトしていく闘いもアクションのインフレに陥ることなく、むしろよりソリッドにかたを付けていく凝縮のリズムがギアを上げて、なんと言ってもスーザン(メリッサ・レオ)による捨て身の反撃が囁いた寄る辺なき世界の哀しく切ない息づかいによって前作のファンタジーはもう必要ないのだと手放した潔さを思い出してみれば、彼女がもたらした一つの幸福と希望によって映画が閉じられることでこの映画があふれさせた血と暴力への清冽でしめやかな鎮魂としたようにも思うのである。構造としては通じるところがある『ジョン・ウィック』が閉塞から解放へと向ったのとは対照的に、一見したところ解放から閉塞へと向ったことでそれが失速に映る部分もあるかもしれないけれど、すべてはマッコールの閉塞した精神のなせる業であったことを明かした今作によって、これもまた閉塞から解放へと向かう物語であったことに気づかされるわけで、それは失速ではなく夢から覚めることで現実の重力に舞い戻ったに過ぎないことを諒解したのである。前作でテリーとかわした結婚指輪をめぐるやりとりを思い出してみれば、マッコールが指輪を右から左へとはめ直すのは彼にとっての喪の仕事が終わったことを告げているのだろうし、してみればワタシたちの知るロバート・マッコールはもういなくなったと考えるべきなのだろう。殺した分だけの人助けはやめないにしてもである。
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2018年10月02日

クワイエット・プレイス/あふれた涙が落ちる音

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これが「ホラー」であれば、サイロのシーンでリーガン(ミリセント・シモンズ)は自身の人工内耳が増幅する高周波がクリーチャーの集音機能との間で起こすハウリングが突破口となることに気づいていたはずで、そうした意味で「ホラー」としては物分かりの良くない話には違いなく、しかしそれは、言ってみればアボット家が「ホラー」的な状況を力を合わせて押しのけることで家族としての絆と生活を全うする物語を描こうとした監督の狙い通りということになるのだろう。したがって、状況の説明とルールを観客に告げるためのオープニング・シークエンスこそ研ぎ澄まされたマナーで描かれはするものの、そこからおよそ1年が経過した後に再スタートする物語はトーンが一新されて、状況の特異ではなく状況下の家族が抱える問題が映画の主眼となっており、言葉が封印された世界のエモーションをバックアップするマルコ・ベラトルミのスコアは情緒過多といってもいい鳴りを隠そうともしないまま、死と隣り合わせの「大草原の小さな家」が粛々と展開されていくこととなる。あらかじめ音を奪われているリーガンにとって襲来後の世界は自身に関する限りさほど変わりがないのだけれど、彼女が苛まれるある出来事にしたところで、彼女はあれが光だけではなくあんな風に音を出すことを果たして知っていたのかと考えてみれば、何をどうするとどんな音がどれくらいの大きさで発生するかを知らない彼女にとっては二重の困難がつきまとうわけで、その苛立ちと哀しみを『ワンダーストラック』でみせたドスの効いた佇まいに塗してみせたミリセント・シモンズの仁王立ちが、この映画を危ういバランスで何とか成立させたように思うのである。とは言え中盤の舵の切り方からすれば彼女だけが知る無音の世界の二重性がさほど活かされることのないまま単なるハードウェアとしてのオチに着地した点で食い足りなかったのは正直なところだし、音を奪い音が凶器となる世界の神経症的な体感をドラマの達成と引き換えに手放していくバランスがワタシには少しばかり邪魔に思えたりもしたのだ。何がセーフで何がアウトなのか、そのラインが恣意的に変動されることでゲームのスリルが失われるのは言うまでもないけれど、「恣意的な変動」が生むドラマの熱情と冷徹な「ゲームのスリル」が混交して、それを望んだわけでもないちょうど良い湯加減になってしまったのはワタシにとってエラーでしかなかったのである。その不条理な機能性に比べ手垢のついたクリーチャーデザインもいささか凡庸であったと言うしかなく、どこにいたとしても次元の裂け目から現れるような名状しがたき佇まいで心をかき乱して欲しかったと思ってしまう。「音を立てたら、即死。」というわけでもない。
posted by orr_dg at 23:09 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする