2018年09月30日

ザ・プレデター/俺のためなら死ねる

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※展開らしきものに触れています

『プレデター』の面白さというのはあくまでアーノルド・シュワルツェネッガーの異種格闘技戦としてのそれであったし、『プレデター』meets『リーサル・ウェポン』が予想外に弾けた『プレデター2』をみればわかるように、プレデターというキャラクターはあくまでかませ犬として非常に有効なのである。したがって、その役目を逸脱しないよう行動原理から何からほとんど人間でしかないプレデターはエイリアン、というかビッグチャップに比べると人外としての品格は比べものにならないこともあって(だからワタシはAVPが大嫌い)、プレデターがどんなとんちきな翻案をされようとまったく気に止めることなく午後ローでも見る気分でむしろもっとやれとヘラヘラしていられるのである。その点においてシェーン・ブラックはとても的確にプレデターというキャラクターを理解しているように思うし、かませ犬としてのプレデターにかませ犬軍団をぶつけてみせたアイディアはその冴えた表れで、ネブラスカ(トレヴァンテ・ローズ)、コイル(キーガン=マイケル・キー)、バクスリー(トーマス・ジェーン)、リンチ(アルフィー・アレン)、ネトルズ(アウグスト・アギレラ)といった、オレは自分の頭がおかしいのは知ってるし生きててもろくなことにならないのも知ってる、だからって多分おれより頭のおかしい知らない誰かの都合で殺されるのはちょっと勘弁なんだよな、どこでいつ死ぬかくらい自分で選ばせろよと格好をつける面々が恍惚としてプレデターに殺されていく姿こそ、この映画が立てた中指だったわけで、それはラストのブラックユーモア(死語か)がもたらす犬死に感によって実に見事な着地とあいなることになる。ローリー(ジェイコブ・トレンブレイ)が実質的には人を一人殺していることを本人も父親クイン(ボイド・ホルブルック)を含めたまわりの誰も気にしていないのも頼もしい。与太話に目くじら立ててどうするよというシェーン・ブラックの正しさであろう。それにしても、グラウンドから退却する時にバスめがけて走ってきたワンちゃんはその後どうしたんだろうか。助けてあげてよってローリーが騒ぎだして一悶着あるかと思えばまったく見向きもしないし、キャンディを口に放り込むだけのトレーガー(スターリング・K・ブラウン)をアップでまじまじと映し続けるカットにも幻惑された。そもそもラストのアレにしたところで、デカイやつがあれほど血相変えて追いかけてきたところからすれば無双ツールであることは間違いがないわけで、だとしたらなぜ小っちゃいやつはアレを使ってデカイのを撃退しなかったのか、小っちゃいやつは地球を救おうとしたというよりは自分たちの闘いに代理戦争として我々を巻き込みたかっただけなのではないかと、なお幻惑させられる始末で、それはおそらくワタシが相も変わらずドラマツルギーの奴隷であることの証左なのだろう。いろいろとまだまだである。
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2018年09月27日

死霊館のシスター/出すんじゃない、出るんだよ

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オープニングのシークエンスで、ドアの向こうの暗闇へと引きずり込まれたシスターが、“それ”とのコンタクトの後で闇の中からシスター・ヴィクトリア(シャーロット・ホープ)へ向けた血まみれの顔を見て、ああ、流血しちゃうんだ、アクセスじゃなくアタックしちゃうんだと落胆というよりは冷静に理解してしまったものだから、以降は様々な意匠をうっすらニヤニヤと愉しむことで過ごすことができたのはもっけの幸いと言っていいだろう。バチカンから送り込まれたオカルトハンターのバーク神父(デミアン・チゼル)とポテンシャル重視の見習いシスターのアイリーン(タイッサ・ファーミガ)という、言ってみればプロフェッショナル同士によって繰り広げられる闘いは神経戦とかいった段取りなどまどろっこしいとばかり終始の肉弾戦と相成って、何しろアイリーンが土壇場で繰り出したのがまさかの毒霧殺法であったというその揺らぎのなさは、むしろ清々しくすらあったのである。とはいえプロフェッショナル中のプロフェッショナルであるはずのバーク神父が過去にしでかした仕事のミスをグズグズと引きずるばかりでいっこうに役に立たず、八面六臂に活躍したのはむしろアマチュアであるはずのフレンチー(ジョナ・ブロケ)であったという腰くだけがさらなる笑みを誘い、どこかしら若きニコラス・ケイジの相貌を湛えたジョナ・ブロケのボンクラな翳りがこの映画を極北のメランコリックホラーというThe Conjuring Universeのくびきから解き放っていたように思うのだ。解き放たれてしまっては困るむきもあるだろうが、解き放たれていたものはもう仕方がないのである。修道院となった古城の過去の曰くを描くシーンで、中世に召喚された悪魔とそれを殲滅せんと城になだれ込んだ騎士団の闘いにほんの一瞬『ザ・キープ』が記憶をよぎりつつ滾ったりもして、どう考えてもやるならこっちだったよなあと真顔に戻って少しばかり慌ててしまい、これが最後の娑婆の空気とばかり意外とあれこれ私服を用意してきたアイリーンのお出かけ気分が台無しになるところであった。恐怖は異化であって同化ではないというシンプルな理解の実践がいかに困難かという好例として、おれの屍を越えていけと監督は叫んだに違いない。
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2018年09月17日

きみの鳥はうたえる/ストレンジャー・ザン・函館

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同い年の佐藤泰志と村上春樹は文壇デビューもほぼ同時期な上に芥川賞ノミネートという経歴で重なる部分もあるにしろ、冴えたやり方に鼻白む「僕」と冴えたやり方を解明する「僕」は、当然のこととして圧倒的に青春を違えていくわけで、自爆するセンチメントとして描かれる青春の蹉跌が時代の気分であった季節だからこそ、佐藤泰志はそこから目をそらすことなく抜き身で斬りかかっていったし、村上春樹は蝶のように舞い蜂のようにその時代を刺してみせたのである。佐藤泰志とその原作に関するそんな記憶をもとにこの映画を観た時、『風の歌を聴け』の中で鼠がロジェ・ヴァディムの言葉として語る「私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する」というフレーズを思い出したりもして、原作からの大胆といってもいい脚色は、ならば今の時代の僕たちは華麗な真実を目指そうと宣言したように感じられたわけで、ではそれが何だったかと言えば自爆しないセンチメント、すなわち生きることに悪あがきする構えだったように思うのである。原作では僕(柄本佑)への意趣返しにチンピラを雇うというノワールめいた行動に出た同僚が劇中ではどう動いてみせたかと言えば、自ら正体不明の棒きれを持って窮鼠猫を噛むいじめられっ子のように無様で情けない白昼の闇討ちをしてみせたし、その三白眼にノンシャランよりは潜在的な卑屈が宿る柄本佑を「僕」に据えたのも、静夫による母殺しという青春の殺人者を完遂するラストを、大いなる不発としての「僕」へと変奏するための手続きに思えたのだ。原作ではあくまで異分子に過ぎない佐知子(石橋静河)の存在をより強力にしたのも、僕と静夫(染谷将太)とのトライアングルを抜き差しならない関係にするためだったのだろうし、あらかじめニヒルな世代にとって虚無への脱走は答えではないという認識はとても正しいと感じる。ただそうなってくると果たして佐藤泰志が必要であったのかという疑問も湧いてくるだろうけれど、何より今のワタシたちには存在を賭けてのたうち回る人が必要に思えて、青春に唾した人間が自分の成熟をどこに見出すのか、いつまでたっても冴えたやり方の見つからないワタシたちが佐藤泰志をあてにするのは自然な成り行きにも思えるし、『海炭市叙景』も『そこのみにて光輝く』も『オーバー・フェンス』も、それに関わった人たちそれぞれが新しい答えを見つけようと必死であった点にもそれが伺えるように思うのだ。たとえそれがスマホとLINEの水平世界に置き換えられようと、むしろそうだからこそ「僕」は走り出さなければならなかったし、佐知子は途方に暮れなければならなかったわけで、あのラストにはここから先はもう生きることが避けられないのだという佐藤泰志の烈しく清冽な意志が灯されていたことは間違いがないだろう。流麗で透明な蒼い夜から一転して白昼にさらけ出された異議申し立ての真摯で決定的な居心地の悪さこそが佐藤泰志のスピリットであったし、乾ききれない情景をためつすがめつ捉え続けるカメラの呵責のなさがラストカットの佐知子に集約されて少しばかり凶暴でもあった。
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2018年09月15日

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男〜俺を踊らせろ

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ブラウン管の中で悪態をつきまくるマッケンロー(シャイア・ラブーフ)に向けた婚約者マリアナ(ツヴァ・ノヴォトニー)の「彼は集中できてないみたいね」と言う言葉に「いや、できてる」とボルグ(スベリル・グドナソン)が返した直後、見事なサービスエースを叩き込んでみせたマッケンローにボルグはうっすらと幸せそうな顔をする。いまやコーチ(ステラン・スカルスガルド)にもフィアンセにも見せないその顔は、まるで幼い頃生き別れになった異母兄弟を見るかのような親愛と慈愛が滲んだようにも見えて、世界でたった1人このアメリカ人だけが、いま自分が見ている風景の幸福と絶望を理解できるにちがいないというかすかな希望が、テニスの呪いによって光も時間も奪われたボルグを照らしているように見えるのだ。ボルグは自分の爆発するマグマを封じ込めるために張った結界の中に生きていて、おそらくその呪文を教え唱えたのは彼のコーチなのだろうけれど、手段と目的が逆転しつつある彼の生活は綱渡りをするような緊張に蝕まれ、高層階のベランダから階下を見下ろして身体を浮かせるその姿は、あまりに意識の淵を覗きこみ過ぎたことで肉体の境界が曖昧になった人の静かな狂気をワンショットで捉えてみせることで、この映画はストーリーを語ることにあまり興味がないのだという不敵な宣言となっていて、デビュー作『アルマジロ』において“芝居がかった”と“まるで映画のようだ”の危うい境界で戦場を捉えた監督の手管はさらに巧妙かつエレガントになっている。実録を新たな神話へと書き換える幻視の語り部としてはすでにパブロ・ラライン(『ジャッキー』『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』)が一頭地を抜けている感があるけれど、ヤヌス・メッツの猛追によってこのジャンルが昏い目つきの才能たちで活況を呈することになれば、いつしか「ビリー・ザ・キッド全仕事」の映像化も果たされるのではなかろうかと見果てぬ夢に胸を弾ませている。
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2018年09月12日

MEG ザ・モンスター/パパと呼ばないで

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この監督のリズムからすれば目指すべきは『トレマーズ』だっただろうし、少なくともジェイソン・ステイサムに関して言えばそのことを理解した上での振る舞いだったのは確かながら、終わってみれば大人から子供まであげくの果てには元嫁までがよってたかってリー・ビンビンとステイサムをくっつけようとする婚活映画であったとしか言いようがなく、誰が死のうがおかまいなしに送られる母と娘の秋波によって、ステイサムはオレがいい夫でありいい父親になるにはあのメガロドンを倒さねばならぬのだと洗脳されていくわけで、あげくには人間ルアーにすら身をやつすその献身には狂気の色すら漂い始め、ステイサムの頬をペチペチと張っては、日がな一日ビールと昼寝で頭を溶かすフリー&イージーな日々を手放していいのかと説教しかねない自分の目つきが振り払えないまま、正直言ってメガロドンどころではなかったのである。構造的な欠陥としては事態を悪化させる悪役が人間サイドにいなかったことで、役回りとしてはスポンサーのモリス(レイン・ウィルソン)がそれを担うべきところが中途半端な業突く張りに終始するばかりだし、終盤ではついに証拠隠滅のために基地ごと沈めるのかと思いきやそれなりに男気を見せたりもするわけで、彼もまた人の恋路を邪魔するには至らない期待はずれなのであった。なぜか劇中とエンディングと2度も聴かされる「ミッキー」は紆余曲折あって監督が取り上げられたパーティでビーチでシャークな映画のヤケクソな爪痕でもあったのか。Gレイティングのサメ映画なんて、そりゃイーライ・ロスも逃げ出すか。
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2018年09月11日

寝ても覚めても/ベランダから永遠が見える

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最初、朝子(唐田えりか)はドッペルゲンガーだと思ったのだろう。ドッペルゲンガーという言葉を知らなかったとしても、世界が自分につかわした運命に障る何かだと思ったのだろう。麦(東出昌大)が消えた時に持っていった自分の半身が、麦の形をした他人=亮平(東出昌大)となって帰ってきたと思ったのだろう。ならばそれを受け取った朝子が自分の空いた半身におさめれば済む話だし朝子はそうしてみるのだけれど、愛は共同幻想ではなく世界に2つと存在しない自分だけのリアルなのだとする組成へ、かつて麦によって変質させられている朝子は、その自覚と認識を知りえないがゆえ横たわる違和感とひとり向き合いながら自分を亮平と重ねて生きるべく苦闘する。鳴り響く爆竹の音が現実にひびを入れた日の麦との出会いを、地震が現実にひびを入れたあの日に朝子は亮平と繰り返してみせるわけで、その後描かれる亮平との福島への旅は朝子にとって共同幻想としての愛を身体になじませる静養の時間でもあったのだろう。だからこそ、亮平と過ごす朝食のテーブルで自分だけ「パン」を食べる朝子の姿がまとう不意打ちのような禍々しさに慄然としたし、それから先は「それ」がいつどんな風に彼女のところへやって来るのか、潜在的にはそれを待ちわびつつも恐怖する朝子の分裂はほとんどホラーの趣となっていき、ついに「それ」が朝子と亮平の前に現れる瞬間のほとんど幽霊映画といってもいい角度と速度の精度には思わずおかしな声が出かかったりもしたのである。その先で「それ」によって完全変異を成し遂げた朝子が、ああ、この世界の在り方をワタシは亮平に伝えなければならない、なぜならワタシは彼を愛しているからだと彼の元へ向かうことになるのだけれど、逃げる亮平を朝子が追いかけるシーンをとらえたロングショットで陽の光が2人の後を追って射していく聖俗すら超えた絶対性はそのままさらに戦慄するラストショットへと繋がっていき、朝子が示した世界に「きったねえ」と吐き棄てる亮平と「きれい…」とつぶやく朝子がじっと見つめるその先のワタシは果たしてその世界を見ているのか知っているのか。そういえば一度でも朝子はまばたきをしただろうか、とそんなことを考えて気を逸らさなければならないくらいあのショットにはおびやかされた。生気に乏しいわけでもないのに何を考えているのかまったく明瞭でない朝子が繰り出す、しかしドスのきいた断定の言葉が鈍器で殴られたように効いてきて、これ以外に朝子というキャラクターを成立させる術はなかったのではないかと思わせる演技と演出のプランとフォーカスが超絶であったというしかない。それにしてもパン、甘くないパンである。亮平も、そして朝子ですらが知らないパンのことをワタシが知っている映画の寄る辺のなさに震える。久しぶりに『アナとオットー』を見返したくなった。
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2018年09月09日

アントマン&ワスプ/毎日が君と日曜日

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井之頭五郎言うところの「ほー、いいじゃないか、こういうのでいいんだよ、こういうので」というまさにそんなひとときであった。見えない誰かのために世界を背負うマッチポンプの重荷もなく、善悪問答を肉体言語で繰り広げる自家中毒もなく、ただひたすら妻に会いたい母に会いたい、娘にいいところを見せたい、彼女にいいところを見せたい、とかいう私利私欲のために奔走するだけの面々からは観客に共犯関係を無理強いする浮き世のしがらみは微塵も感じることがなく、前作でエドガー・ライトのリリーフをしたペイトン・リードは、サブテキスト?何それ美味しいの?とひたすらシンボルとメタファーからベタと鉄板を振りかざしながら逃げ続けるのである。しかもあげくの果てに思わず漏らした彼のフェティシズムなのか、ズーム機能が故障して「ザ・ブルード/怒りのメタファー」のアレくらいのサイズになったスコット(ポール・ラッド)が彼からすれば巨女と化したホープ(エヴァンジェリン・リリー)のまわりをミゼットよろしく走り回りその愛らしさに思わず微笑むホープの図など、これはいったい「Theかぼちゃワイン」の実写化ではないか!と『アバター』でくらった酩酊が瞬時に甦ったのだった。今回やたらと口にされる量子世界はおそらく次のアヴェンジャーズの布石となるのだろうし、ということはその突破口を担うであろうシュリはサノスのひとひねりをかわしたのかなとささやかな妄想など可能にしてくれるし、ほとんどテッドやプーのように喋るぬいぐるみと化したマイケル・ペーニャの愛くるしさといったらいっそ彼にもスーツを一着くれてやればいいのに、そして小さくなったペーニャを見てみんな悶絶すればいいのにと妄想してただただひたすら絆されていたのである。操られてはカモメの餌となっていく蟻たちの不憫は相変わらずであったにしろである。モリッシーの愛され方はマリアッチのそれに近いのかもしれない。陽気で哀しい死の歌うたい。
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2018年09月05日

高崎グラフィティ。/大人みたいに悪いこと

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オープニング、吉川美紀(佐藤玲)をポートレイトのようにとらえたカメラが少しだけ後ずさると、彼女がおさまっているのはトイレのありきたりでせせこましい鏡の中で、自分で自分を睨みつけるその視線をさっと外してトイレから廊下へと歩き出す美紀の背中を追いかける青い癇癪と焦燥と性急がこの映画の色合いを一発で決定している。それを言い換えればここではないどこかへの希求とモラトリアムの嫌悪ということになるのだけれど、それが世界を壁際まで追い詰めて喉元を締め上げる気配に至らないのは、騒動の元凶となる美紀の父に渋川清彦をコメディリリーフ的に配することで生まれた浮遊感をそのまま青春のファンタジックな薄皮とした設計によっているのだろうし、それは定型に抗うためには定型を踏んでいかねばならぬという監督の決意でもあるのだろう。それが奏功するのは彼や彼女が攻防一体で相手を刺しにかかる時で、もうお互い制服とかいう鎧を脱いでしまったから刺せば血は出るよねという甘噛みの先を解禁することで解放されていく姿こそを監督は描こうとしたのではなかろうか。しかし、あえて配置した定型が無言の早足を減速させてしまう危険もあるわけで、例えば早朝のアーケードを走り抜けるシーンのスローモーションはここで使ってしまうのは少し早過ぎやしないかと思ったし、終盤で時ならぬ命がけに歯を食いしばる阿部優斗(萩原利久)によぎる刹那のフラッシュバックにこそとっておくべきだったように思うのだ。そしてもう一つ、やはり若者が世界へと蹴り出される「前夜」のビタースイートを描いた『アメリカン・グラフィティ』がそうであったように5人の彷徨をワンナイト・ストーリーに凝縮することで、ラストを美紀の自宅での朝食シーンで閉じて新しい日常の光景が定型を蹴り出すところを観たかったなと思ったりもした。とは言え渋川清彦に加えて川瀬陽太まで配する贅沢と拮抗するだけの灯りはこちら側からも照らされていたように思うし、青春のくすみを蹉跌ではない光の角度で描こうとする気概はもっとあちこちで目に止まるにふさわしいものだろうと考える。もう一度もう一つと言ってしまうけれど、彼女の服飾に抱く想いと亡き母親を紐づけなどできていれば、美紀の反転になお説得された気がしないでもない。ただ、そんな風に惜しいなあと思ってしまうのは、その他のあれこれが惜しくなかったからなのは言うまでもなく。
posted by orr_dg at 01:56 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする