2018年07月26日

FUJI ROCK FESTIVAL '18 展望

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7.27 Fri
Upendra and friends plus Mr. Sunil and Tilasmi
LET'S EAT GRANDMA
PARQUET COURTS
GOMA & The Jungle Rhythm Section
ALBERT HAMMOND JR
THE TESKEY BROTHERS
エレファントカシマシ
MARC RIBOT'S CERAMIC DOG
N.E.R.D
POST MALONE

7.28 Sat
eastern youth
ESNE BELTZA
RANCHO APARTE
JOHNNY MARR
JOY-POPS
ユニコーン
CARLA THOMAS & HI RHYTHM
FISHBONE
KENDRICK LAMAR
NATHANIEL RATELIFF & THE NIGHT SWEATS

7.29 Sun
THE FEVER 333
ケロポンズ
WESTERN CARAVAN
HINDS
KACEY MUSGRAVES
ANDERSON .PAAK & THE FREE NATIONALS
KALI UCHIS
HOTHOUSE FLOWERS
BOB DYLAN & HIS BAND
GREENSKY BLUEGRASS
VAMPIRE WEEKEND

エレカシにユニコーンにスライダーズとかいった限りなくeZな2018年。台風来たらホテルで寝てます。
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女と男の観覧車/わたしは頭痛が痛い女

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雨の日の光に君はなおのこと美しい、とミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)が使い回す口説き文句を嘲笑うかのように、ミッキーの前に仁王立ちするジニー(ケイト・ウィンスレット)の顔面を殴るように照りつける西日の一閃が彼女の逆流する神経を剥き出しにしていくに連れ、既にカメラはミッキーへの切り返しをすることもないまま、ジニーが破壊的なメランコリーの流砂に呑まれていくのを復讐心のような執拗で捉え続けてみせる。いつまでたっても他人離れすることのできない子供じみたハンプティ(ジム・ベルーシ)も、自分もまた堂々巡りの観覧車に乗りこみつつあることに気づかないミッキーも、使命として世界の尻に火をつけて回るリッチー(ジャック・ゴア)も、無い袖は振れぬゆえある袖を振って生きることを実践するキャロライナ(ジュノー・テンプル)も、それぞれが問題としがらみを抱えた我が身のままに、共に生きる人としてのジニーを見つめているのだけれど、その中でジニーだけが誰も見ていないのである。彼女が見ているのは観覧車のゴンドラが一番上にあった時に見た(と思っている)記憶の光景とそこにいる自分だけで、それ以外の誰のことも彼女は見てないのである。にも関わらずジニーは、年を重ねることで間違いに対して寛容になれたわ、だから他人を許すこともできるようになったの、それがなかったらこの世界は冷酷にすぎるでしょう?と真顔で演説をぶってみせて、ここまでジニーを修復不能なモンスターと描いたアレンの意図に或る私怨以外の筆使いを見るのはさすがに困難ともいえるし、1930年代のNYにうっすらと死生観を湛えた前作『カフェ・ソサエティ』に続き1950年代のコニーアイランドを愛と幻想のアサイラムと描いた今作を観る限り、ここに来て何らかの私小説的なタガを再度外したようにも思えるわけで、これを許して焚きつけたAmazon Studiosはパトロンとしての責任を最期まで全うする義務があると考える。言うまでもなくケイト・ウィンスレットは生き腐れした肉体の絶望的な香りを含め、情状酌量の余地なくこわれゆく女を現して最凶。それを狂気の光と屈託の影で煽りまくるヴィットリオ・ストラーロの神経症的なまなざしはさらに最強。騒ぎでアレンは水を得た。
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2018年07月24日

REVENGE リベンジ/殺るのはあたしだ

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いったい俺のどこが嫌いなんだ?と言い寄るスタン(ヴァンサン・コロンブ)に「背の低いところ」と応えるジェニファー(マチルダ・ルッツ)の、あんたたちアタシのこと何も知らずに顔とかおっぱいとかお尻とかそういうフォルムにいきり立ってるだけだよね、アタシもリチャード(ケヴィン・ヤンセンス)がハンサムで背が高い筋肉野郎だからここに来たわけで、リチャードがOKであんたがNGなのはまあそんなこんなでお互い様ってところよね、とか言った詰め方にぐうの音も出なくなったスタンがお約束の卑劣な肉体言語に及んだことが引き金となって、そういうことならば了解しましたとばかり、ペヨーテの力を借りたジェニファーは不死鳥のごときスーパーサイヤ人と化すに至るのである。ただ、そうやってジェニファーが3人のクズを片っ端からぶち殺すだけの映画にしては意外にも108分の長さを要していて、どちらかと言えばこの映画はその目の詰まり方こそが喧伝されるべきなのではなかろうかとも思うわけで、デヴィッド・リンチもかくやという超クロースアップが対象の情報を停止して絶対値を描くことである種の神々しさを宿す瞬間、ワタシ達はみな糞のつまった袋にすぎないという認識のもとでジェニファーによって浄化されていく気すらしたのである。串刺しになったジェニファーから滴る血の一滴が、地面にへばりつく一匹の蟻にとっては迫撃砲のごとき脅威と化す様を捉えるシーンから始まるジェニファー復活の儀式についてはペヨーテ無双を含めた底の抜け具合(なぜあれは反転しないのかetc)を含め、これはワタシの妄想が走り気味ではあるけれど、気がつく範囲では不随意運動としての瞬きをジェニファーは行っていないことなどもマジックリアリズムへの接近と呑み込めば、物語の神話性もいや増すというものではなかろうか。ジェニファーの覚醒以降は前述したクロースアップから一転するロングショットの多用が神の目を思わせると共に、終盤の室内戦では長回しが緊張をさらに圧縮しつつFPSショットのカメラが追うものと追われるものの絶望と恐怖に喘ぎながら走り回り、局面によって最適なショットをスマートにチューニングする監督のヴィジョンは、これがデビュー作だとしたらその一閃は鮮やか過ぎるだろうと少しばかり驚嘆したのである。血の粘度も彩度も非常に好みで、ガラス片のシーンはその魔術的な赤の幻惑に頭がクラクラし始めた。衝撃をくらって聴覚が飛んでしまうシーンやラップフィルムの戦術的使用など微に入り細を穿つ描写がさらなるエクストリームを誘い、ジャンル・ムーヴィーの矜持と陶酔を高らかに謳う傑作であった。レイプシーンはあえて直截的には描かれていないので、そういったシーンが苦手で忌避する必要がないのもサービス精神の顕れといっていいだろう。コラリー・ファルジャという監督の次作が本当に楽しみになった。
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2018年07月20日

ジュラシック・ワールド 炎の王国/喰われるように眠りたい

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閉まりきらない水中ゲートの隙間を巨体をくねらせて外洋へとすりぬけていくモササウルスを、その数分後には自動ドアの隙間をすり抜けるクレア(ブライス・ダラス・ハワード)にトレースさせるJ・A・バヨナのウィアードな執着は、最期にイアン・マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)が宣言する「ジュラシック・ワールドにようこそ」という『ウェストワールド』的な反乱への密かな疼きがその正体であった気もして、仮にバヨナがストーリーを含めたクリエイティヴを完全掌握していたら、洋館で出会ったブルーとメイジー・ロックウッド(イザベラ・サーモン)がクローンの哀しみと高揚とで感応する「恐竜はささやく」物語へ舵を切ったことだろうと、シェルター代わりのベッドにもぐりこむメイジーをめぐるインドラプトルとブルーの三角関係までも妄想してみたりしたのである。したがって、そこかしこにうかがえるバヨナのスケッチした仄昏いペシミズムの残滓にプリンス・オブ・オプティミズムたるクリス・プラットが今ひとつそぐわないままなのは、彼にとって最強の武器であるオフビートがバヨナにとってはノイズでしかないという予見しうる相性の結果に過ぎず、バヨナにしてみれば早く島を出たくて仕方がなかったというところだろうし、イーライ・ミルズ(レイフ・スポール)に「お前たちがしたことと俺がしたことのいったいどこが違うんだ?」と問い詰められて押し黙るオーウェンとクレアの姿にも、今作の主役が既に彼と彼女ではなくなっていることは明らかだったように思うのである。特にクレアについては、パンプスを脱ぎ捨てたことで(ブーツを履いた足元が執拗に映される)女性版オーウェンとなってしまったのが彼女の魅力を削いでしまってはいるものの、それを棚ぼた的に肩代わりした形のジア・ロドリゲス(ダニエラ・ピネダ)のべらんめえなチャームが今作で最も血の通ったキャラクターを生み出して、思わぬ機転と男気をみせたフランクリン・ウェブ(ジャスティス・スミス)の顔を愛犬をもみしだくようにムニュムニュするシーンなど、終始張り詰めてばかりの今作で息を継げるシーンはほとんど彼女がさらっていったのではなかろうか。それに比べて、出て行けと言われていつの間にか出ていってしまうアイリス(ジェラルディン・チャップリン)は、バヨナの潰えた野心と混乱の象徴にも思えた。前作を観た時の“フランケンシュタインの怪物としてのインドミナス・レックスとその鏡像としてのラプトルという構図のメランコリーも望むべくもなく”とかいった愚痴をやはりバヨナもこぼしたのではなかろうかという妄想はともかくとして、かつてジョン・セイルズとウィリアム・モナハンが「4」のシナリオに設定した人間と恐竜のハイブリッドへと心なしか頭をもたげた気がしないでもないので、いっそそちらに舵を切って「粘膜戦士」をめざしてはくれまいかと茹だった頭で夢を見たのであった。「チェアアアア!」はバヨナ精一杯のやけくそなのか。笑ったけど。
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2018年07月18日

ブリグズビー・ベア/映画は撮らせてくれる

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ブリグズビー・ベアが新しい世界を独り歩きすればするほど、茫洋と広がる世界と渡り合うだけの知識と社会性とをジェームス(カイル・ムーニー)に蓄えさせたコンテンツ「ブリグズビー・ベア」をゼロから築いた仮親テッド(マーク・ハミル)の偏執的な天才とそれを支えた愛情とに気を取られてしまう。世界を再構築して規定し直すためには古い物語を終わらせるための新たな物語が必要であることにジェームスが思い至るのも、世界を投影するスクリーンとしての物語を信じたテッドの「教育」がもたらした成果であって、けれども分水嶺を超えて世界に侵食した物語によって人生を囚われ続ける男マーク・ハミルがテッドを演じることを皮肉と映すことをせず、物語ることへの肯定と祝福を唱え続けることへの決心こそがこの映画の野心であったということになるのだろう。かつてはテッドが一人二役で演じていたブリグズビーとサン・スナッチャーの、ブリグズビーを継承したジェームスがサン・スナッチャーを撃退するラストはそのまま父殺しの物語となるわけで、これこそはマーク・ハミルにとってついぞ果たされることのなかった結末ということになるのではなかろうか。『ワンダー 君は太陽』がそうだったように現実世界でジェームスの存在そのものを脅かす悪意が登場することはなく、ことさらに負のスイングで見かけの奥行きを作ることをしないのは予定調和の破壊でもあるわけで、当たり前の感情を抱いて当たり前の行動をつなぎ、当たり前のように自分の世界を手に入れることを描くのがラディカルに映ってしまうワタシ達の身の回りこそがいかににっちもさっちもいかなくなっているか、エラーと困難を引き換えにしないと希望や幸福は得られないのだという出所不明のしたり顔にいい加減でうんざりしている正気の人たちにこそ寄り添いたいとワタシは思う。テッドのみならず、ホイットニー(ケイト・リン・シール)の救済もまた優しく綺麗に行われるのがとても良い。いささか唐突だった施設収容は『カッコーの巣の上で』な逃亡シーンをやりたいがためだった気がしないでもないけれど、そうやって自分たちの「映画」を撮っていたデイヴ・マッカリーやカイル・ムーニーこそが劇中の彼や彼女たちそのものでもあったのだろうと思えばこそ、この映画が既にノスタルジーのような気分を獲得していることの理由が分かる気がしたのである。それは多分、これが二度とこんな風には撮れない最初で最後の映画だから。
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2018年07月14日

パンク侍、斬られて候/日本の猿なめとったらどついたるぞ!

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「曖昧な欲望しか持てず、曖昧な欲望を持て余す」「おまえの頭を開いてちょっと気軽になって楽しめ」「すべてが終わった後で何が残るか俺は知らない俺はおまえを正確にやる」「俺はのうのうとしてきた奴の子孫を傍観して俺の屈辱をたたき込みたい」「俺はおまえを夢の中にひきずり込みたい」「俺の存在を頭から打ち消してくれ 俺の存在を頭から否定してくれ」「一口飲めばスカッと地獄 全てを忘れてあんた最高」「俺の方から不安と恐怖に何時でもやったんぞ」「偽善の快楽と安らぎが少しだけ欲しいなら俺の家に来い」「むしろ異常なのはおまえ自身むしろ環境とはおまえ自身お前が退屈なのは当然」「ええ加減にせんと気い狂いて死ぬ」とまあこういうことである。INUである。この国屈指のパンクアルバム「メシ喰うな!」の映像化である。闘争どころか遁走のパンク、スキゾ・キッズの冒険、ベイビー!逃げるんだ。逆噴射家族、突如80年代の亡霊が憑依した石井聰亙(やっぱりこっちの方がしっくりくる)が復活の逃げ足で、そんなつもりは毛頭ないパンクアンセムを目眩ましに、考えるために考えるなら考えるだけムダ!と走り去る。この映画の既視感というよりは、三つ子の魂百まで的な胎内回帰の気分は主にその逃げ足の光景によるのだろう。とは言え石井聰亙がまだこんな脚を残していたことには正直言って驚かされたし、何より石井聰亙ですらない石井岳龍に大金(けっこうかかってるよね)をぶちこんだ慧眼というよりはキチガイ沙汰にこそ喝采をおくるべきで、これほど勇猛果敢に金をドブに捨てる姿を目にしたのは果たしていつ以来だったのか、今いちばん足りていないのはこうした街場のバカによる撹乱であることをあらためて痛感したのだった。永瀬正敏vs浅野忠信の因縁はまたしても決着つかずということで、虚空に消える永瀬正敏と虚空に囚われる浅野忠信は、まんま『ELECTRIC DRAGON 80000V』の変奏であったよ。原作未読につき宮藤官九郎の脚色がどれくらいジャンプしたかは不明ながら、役者がみな口も身体もやたらと気持ちよさそうに動かしていたのは間違いがないように思えた。それにしても、今の時代にまだこんなでたらめ(=punk)が可能だったことに少しだけ沁み沁みしている。
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2018年07月13日

菊とギロチン/愛と幻想の内無双

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花菊(木竜麻生)の内無双がいつ炸裂するのかと、終盤のあるシークエンス以降はそればかり固唾を呑んで待っていたものだから、こうやって今に至るも我々は負け続けているのだ、と夢を見るなら夢から鍛えよとでもいう全方位へ立てられた中指の気概は受け入れるにせよ、だとするとそもそもがギロチン社と女相撲が共闘するにはそれぞれの蹉跌が質を違えていたように思ってしまうのだ。それはおそらく十勝川(韓英恵)の出自にまつわる暴力世界と中濱鐵(東出昌大)の満州ユートピアのクロスがバランスを崩していたからで、本来であれば女相撲が十勝川を守るシェルターとなったはずが、彼女をアナーキストの感傷に巻き込んでしまうことにより女相撲がいささか都合のいい背景となってしまった気がしてしまう。あくまで主軸は女相撲とした上で、巡業先で出会った中濱と古田(寛一郎)と交流する日々に、2人の屈託や不穏が徐々に滲み出て素性が晒されていくその感応によって、彼女たちもまた自身の闘いにフォーカスしていく物語をワタシは少し予見しすぎたのかもしれない。おそらく監督は、きれいに鉋をかけてしまうよりは、ささくれが手に刺さる痛みを残そうとしたのだろうし、出奔して気ままに死ぬ自由すら与えられない女性の時代にあっては、夫に内無双を仕掛けた花菊のその先の未来を夢想するよりも、古田という捨て石の残酷にかじりついて生きることを理解すべきだということなのだろう。概して女相撲の面々はみな完全に役柄へと没入していて揺らぎがないのだけれど、なかでも玉椿を演じた嘉門洋子の、肉体に精神が隙間なく張りついた佇まいの凄みに目を見張った。東出昌大は人たらしの色気が決定的に欠けてしまっているのがなかなか辛い。いつの時代も益体のない夢を見ては泣きじゃくる男たちと、見たくもない夢のおこぼれで涙をふく女たちが果たして「同じ夢をみて闘った」のかどうか、「同じ夢をみて闘うことを夢みた」映画だと思ったワタシは、またそこから始めるのかと何だか遠くを見た気分になってしまった。
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2018年07月08日

バトル・オブ・ザ・セクシーズ/やっちまいな

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これは『1973年のビリー・ジーン・キング』というタイトルがふさわしい、自身の野心に対する尊敬の念を曇りのない視点でみつめつつ、しかし自身のヴィヴィッドなゆらぎを慈しむように生きるひとりの魅力的なファイターが駆け抜けた時間の個人史であって、原題タイトルが連想させる闘争史による参照はどちらかと言うとこの映画の本意ではないように思う。テニスドレスが買えずに母の作ったテニスショーツを着た12歳のビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)が、それではみんなと一緒に写真は撮れないよと言われてムカついたその日から彼女はあくまで自分を不当に扱う世界を相手に闘って来たわけで、WTAの設立にしてもそもそもはその流れの中で起こしたアクションにとどまっていたのではなかろうか。そうした何者にも従属しないはずのビリー・ジーンがマリリン(アンドレア・ライズブロー)と出会うことでもたらされた覚醒によって、自分で自分を抑圧し続けてきたこととそれを強いてきた社会への怒りと恐怖を認識し、世界の悪意を粉砕する意志と力のある者はそれを行使する義務があるとでもいう大きな意志に衝き動かされたことで、自分のためだけではない闘いへと舵を切っていったのだろう。したがって、マーガレット・コート(ジェシカ・マクナミー)の惨敗を見届けたビリー・ジーンが意を決してひとり立ち去るシーンこそがこの映画のピークといってもよく、ほとんど手続きにすぎないボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)とのゲームよりはそれを取り巻く悪意の群れがことのほか執拗に描かれて、ビリー・ジーンが一敗地に塗れた時に群がるであろうジャック・クレイマー(ビル・プルマン)らハゲタカたちの醜悪な色付けにはまったくもって容赦がない。なかでも、中継のゲストに招かれたロージー・カザルス(ナタリー・モラレス)の肩にことさら庇護者よろしくねっとりと腕を回すハワード・コゼルの姿はフェミニストをはき違えた絶滅すべき恐竜に対する悪意以外のなにものでもないし、ボビーに負けるということはそれらすべてにひれ伏すことになるのだという死の宣告を突きつけられた闘いであることを承知していたからこそ、勝利の後のロッカールームでビリー・ジーンが流す涙は、喜びというよりは戦場を生き延びた安堵の嗚咽にしか映らなかったのである。神輿にかつがれた道化としてのボビーを強調するのは、敵はその後ろにいてしたり顔で腕を組む者たちであって、それを見誤ってはならないという念押しだったように思う。ビリー・ジーンが本当に愛しているのはテニスだけで、そこを邪魔でもしたらボクもキミもすぐに棄てられるさ、と“浮気相手”のマリリンに怒りをぶつけるでもなく諭すように語るラリー・キング(オースティン・ストウェル)はビリー・ジーンの野心に対する全面的な崇拝者であって、そうした愛の形を選んだ彼にうっすらとした哀しみを見て取ってしまうのは、それがワタシという人間の限界ということにもなるのだろう。涙をふいて歩き出したビリー・ジーンを抱きしめてテッド・ティンリング(アラン・カミング)が囁く言葉が、ほんの一瞬にしろこの世界を美しく均して遠くどこまでも見渡せたような気持ちになる。いつかありのままの自分でいられる日がくるだろう、そして誰でも自由に人を愛せるようになるだろう。少しうろ覚えではあるけれど、ビリー・ジーンはその日を願って独りコートで闘ったにちがいない。
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2018年07月07日

ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷/空室有り応相談

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サラ・ウィンチェスター(ヘレン・ミレン)とプライス医師(ジェイソン・クラーク)が面談するシーン、窓から差し込む日光だけが照らす部屋のはずがどのカットでも2人を燦々と照らす光源不明のヒプノティックな光に落ち着きを奪われる。巻き込まれるようにして異界に踏み込むプライスは定型のゴースト・ストーリーであれば異界へのカウンターとして機能するところが、ここでの彼は異界への同化があらかじめ運命づけられているわけで、定型であれば闇堕ちのような敗北として描かれてしまうそれは、プライス自身の喪失と再生をめぐる物語となっている。そんな風にしてプライスを往って帰すことにより、それを促したサラの振る舞いは狂気の沙汰から贖罪へと姿を変えていくことになるのだけれど、劇中で命を落とした2人(執事と大工頭)が共に彼女の贖罪を信じていなかっただろうことを思い出してみれば、彼女と屋敷が手にしたさらなる変質と力を窺わせるラストによって、やはりこれは感染する狂気の物語であったことに気づかされるのである。『デイブレイカー』にしろ『プリデスティネーション』にしろ、スピエリッグ兄弟がつけ回すのは自らを磔にする人の憂鬱と官能であるのは間違いがないだろう。描かれる感情自体はメロウであろうとそれがいつも躁病的に上気して息を切らしているようなのもこの兄弟独特のトーンであって、脇に回ったとは言えセーラ・スヌークこそがこの兄弟のミューズということになるのだろう。『ツイン・ピークスTHE RETURN』での、破壊的に底の抜けたクズっぷりで脚光を浴びたエイモン・ファーレンは、クローネンバーグ顔の怪優としてこのまま健やかに歩んでいって欲しいと思う。そもそもなぜウィンチェスター銃の製造を止めてしまわないのかと問われれば、そうしたらいつの日か犠牲者がいなくなって屋敷の工事を止めなければならなくなるでしょう?と真顔で返してきそうな壮大なるブラックジョークと弄るのもまた格別の趣き。
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2018年07月04日

オンリー・ザ・ブレイブ/燃える森の生活

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燃えるものがなくなれば火は消える、という真理というか事実というか取り決めというか、業火に対峙する男たちの内部にもそれは同じように適用されて、消したい者、消えない者、消してしまいたくない者たちはいずれにしろ火に支配されかつ魅了されている趣すらあり、妻アマンダ(ジェニファー・コネリー)が“消防士中毒!”と吐き捨てるエリック・マーシュ(ジョシュ・ブローリン)の場合、燃やすものがなくなる日々への畏れが火に向けた愛憎入りまじる忠誠を誓わせてもいるようにも思えるし、エリックはその美しさと怖ろしさを闇の中を火だるまで疾走する熊の記憶にうつして自身にとどめている。そうやって内部を喰われた者ゆえに可能なスペシャリティという点で『ハートロッカー』が頭をよぎったりもしたのだけれど、エリックが戻らずの河を渡ってしまわないよう頬を張り続けるアマンダの眼差しがこの作品の正気を象徴するだけに、ついにエリックが地に足をつけた瞬間に起こる無慈悲に向かっていささか紋切り型に崩れ落ちるアマンダの慟哭にも鼻白む隙などなかったように思うのだ。エリックが自身の過去を投影して手元に引き寄せたブレンダン・マクダノー(マイルズ・テラー)が、夫妻に対照するかのように、ある意味では子供の存在によって生かされたといえるのも酷薄な運命の仕業と言えるのだろう。劇中でどれだけ業火に巻かれようと不思議と熱さを感じることがないのは、ここに登場する人たちのふるまいひとつひとつがアメリカの根幹をなす自然思想とプラグマティズムの沈着な実践のようでもあったからで、人里離れた山の中で祈りのように軽口を叩き一心不乱の労働に明け暮れるグラニット・マウンテン・ホットショットの面々はどこかしら修道士のようにも思えたし、ピーター・バーグ的なアメリカン・イシューとはほど遠い地の塩的な原風景を見渡すような映画であったことに、どうにも虚を衝かれた。
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2018年07月02日

ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー/粗にして野でも卑でもない

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※展開に触れています

ドライデン(ポール・ベタニー)の船に還ってきて以降、ハン(オールデン・エアエンライク)とチューイ(ヨーナス・スオタモ)、キーラ(エミリア・クラーク)が取る行動の、どうしてチューイはハンを裏切ったトバイアス(ウディ・ハレルソン)にさしたる理由もなくヒョコヒョコと付いて行ってしまうのか、ドライデンを倒したなら2人で手に手を取って逃げ出せばいいものをなぜハンはキーラと別行動をとることをあっさり受け入れてしまうのか、本来であれば苦渋の選択が決断を鈍らせて危機を招き、予期せぬ悲劇へとなだれこむクライマックスによってハン・ソロ・ライジングの仕上げとなるはずが、各自が段取りの消化としかいいようのない駒の動きをするにとどまって一滴の血も涙も通うことがないせいで、その後に起きる2つの裏切りにまったく血潮が逆流することもなく、キーラが乗った船を呆然と見上げるハンの、何だか一雨きそうだなあくらいに気の抜けた顔にはワタシの知るハン・ソロが身を沈めるシニックの鎧の一片も見てとれなかったように思うのである。そもそもが、ハンとキーラ、ドライデンの三角関係を正面切って物語の要素にする覚悟のない腰の引き具合からして鼻白むばかりだったし、その程度の切った張ったですらディズニー・コードに抵触したせいなのかどうなのか、おそらくロン・ハワードは想像を超えて自分ががんじがらめであることを知った時点で、師匠譲りの低予算早撮りモードへとあっさり自身を切り替えたのではなかろうか。愛をアドレナリンとチャージした若く無謀なカップルが、自分たちを捉えた運命を笑顔で引っかき回しならがバニシング・ポイントへと向かう『バニシング in Turbo』の狂躁をワタシはオープニングのシークエンスで見て取った気もして、欲しがったのがこれだったのならば監督交代もやむを得ないし、むしろキャスリーン・ケネディの慧眼だったのではなかろうかとすら思ったのだ。しかし唯一エゴが感じられたのはそのコレリアで繰り広げるスピーダー・チェイス・シーンまでで、それよりはカジノを2度、ドライデンの部屋を2度、と使い回すあたりの目端をこそ、クリエイティヴィティ?なにそれ美味しいの?とばかり製作陣は求めたとしか思えなかったのである。冒頭でふれたシークエンスで、同じカットを繰り返しては最初はチューイ、次はハン・ソロと自動ドアの向こうへ消えていく死んだ魚のような目をした編集の月曜ドラマランドっぷりにはロン・ハワードのあさってに向けた捨て身すら感じた始末で、かつてそうであった映像の実験場としてのスター・ウォーズの終焉を見た気もしたのだった。巷間囁かれてきたハン・ソロの出自やチューイとの出会い、ミレニアム・ファルコン入手の経緯、果てはケッッセルランに至るまですべてをハン・ソロ正史と取り込んではいるものの、それらすべてのエピソードがこの作品には役不足であったのは言うまでもなく、あなたのハン・ソロをハン・ソロとしてとどめておきたければ今作をスルーしたところで何の問題もないように思う。他の誰よりもウディ・ハレルソンこそがハン・ソロのスピリットを哀しい目と小さな微笑みでドライヴしていたよ。
posted by orr_dg at 12:52 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする