2018年06月12日

友罪/夢罪

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藤沢(夏帆)の部屋で猫を見つめ、白石(富田靖子)と待ち合わせたデパート屋上に遊ぶ子供たちを眺める鈴木(瑛太)に向けるワタシたちの訝しむような視線を瀬々監督は否定しない、というかむしろそう誘い込むように撮っている。それは殺人という罪よりもそれをどう行ったかという行為に対する私刑のような視線であるのは間違いがなく、山内(佐藤浩市)の息子が犯した過失による交通事故死が贖罪の道筋で語られることの対照となっている。山内の息子は車を運転さえしなければ再び同じ罪を犯すことはないのだけれど、鈴木の場合、鈴木という内部そのものが罪であるという存在の怪物化がワタシたちの視線を無意識の石つぶてへと変えていくわけで、鈴木の内部に彼の飼うものの気配を知るためには白石のように自分の内部すらを犠牲にしたある種の同一化によってようやく深淵を覗き込むことが可能となるという、そうした視点を社会が共有することの不可能は、その達成と引き換えに白石が失った家族の絆がつきつける不幸によって裏書きされることとなる。ここに登場する全ての悼むべき人たちが告げるのは一度壊れたものが元に戻ることはないという絶望のようなあきらめであり、たとえ戻ったようにみえたところで内実の決定的な変質を目の当たりにするものにしてみれば、では戻ったことにして生きていこうとする社会をあげての欺瞞がさらに彼や彼女を壊し続けていくことになるわけで、前述した一度壊れたものが元に戻ることはないという一文へさらに付け加えるとするならば、一度壊したものが元に戻ることはないという加害者の絶望もそこにあるわけで、この映画が喪失と再生という気楽で都合の良い呪文を忌避し続けるのはその峻険こそを描こうとしていたからであるように思うのだ。他人の命を奪った者が、しかしそれを踏まえた上で今の自分は生きてみたいと思うんだという言葉は身勝手な矛盾にとどまるのか、そうした意志が水平に並ぶ場所はこの世界にあり得ないのか、この映画は鈴木と益田(生田斗真)をその世界の陰と陽とすることで今ここにはないそこを夢想してみせたのではなかろうか。そしてそれは、そんな世界があったらきみはどう生きるつもりだ?という日本のどこかにいる少年Aというたった一人の観客だけに向けた監督の問いかけだったように思うのである。それだけに軽重のバランスとしてメディアの描写など外部の装置が記号的に均されたのは諸刃の剣といったところか。しかし、いつも所在なさげな瑛太に鈴木の無痛が憑依したかのようなこの棒立ちはキャリアハイだし、夏帆は早足で被虐をかいぐぐる人として『予兆』の先へ歩み出した。感情の省略ではない慟哭を生田斗真は打ち鳴らされる鐘と響かせたように思う。ゲロがあんな風に心を溶かすのは初めて観たかもしれない。
posted by orr_dg at 00:35 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする