2018年06月07日

デッドプール2/ライアン!ライアン!

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オフィシャルサイト

全身タイツでどれだけカッコつけたところで所詮生き恥を晒すだけであることを身をもって知るライアン・レイノルズは、絶え間なく全方位的に自虐と加虐のジョークを雨あられとぶちまけてはすべての現実を液状化させつつ、かつてスティーヴン・キングがそうしたように膨大な固有名詞で武装することでポップカルチャー=リアルのテクスチャーをそこかしこにスクラップして映画を子供部屋の居心地へと変えていく。さらに今作では監督がデヴィッド・リーチに交代したことでドタバタの過剰なキレが上積みされて、誰もが心おきなくサーカスの観客のように呆けた顔で手をたたき足をバタバタさせながら退行するのが許されることになり、その澱みと衒いのなさは最早エレガントとすら言えるほどであると同時に、今のこの世の中で何ものにもつかまらず逃げ切るにはここまで針を振り切らないとエンジンはブーストされないのだというオーヴァーキルに、いったいお前は何と闘っているのだという正体不明な事態の深刻ささえ嗅ぎ取ってしまう始末なのであった。とはいえ上下左右を完全に取っぱらった情動の絶対値だけを見てみれば『アべンジャーズ』や『ウィンター・ソルジャー』と数値そのものは変わらないのではなかろうかと考えてみた時、ライアン・レイノルズが己の全存在を賭けた逆張りには強迫観念とすら言える執念を見てしまうわけで、それは劇中でどさくさ紛れに遂行される過去の亡霊たちの抹殺によってさえ浄化が追いつかないほどのどす黒いメランコリーが突き動かす、トラウマに向き合うプライマル・スクリーム療法にも思えたのである。ニコラス・ケイジしかり、ロバート・ダウニー・Jrしかり、実人生の屈託、すなわち自分の糞をキャリアに向かって投げつけ晒すことを厭わない役者の愛され方には無尽蔵なところがあって、ここにライアン・レイノルズもその倶楽部に晴れて入会したといっていいのではなかろうか。そこではオスカーよりはラジー賞が勲章だったとしても、永遠にゴズリングのいない世界であることは間違いがない。
posted by orr_dg at 21:11 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする