2018年06月23日

レディ・バード/今はこれでいい

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『フランシス・ハ』の前日譚とも言える私小説的な主人公にシアーシャ・ローナンをあてる監督の豪快な役得はあっぱれというしかなく、いっそ邦題は『グレタ・ガーウィグのレディバード』くらい振り抜いてしまってもよかったように思うのである。自分の居場所はここではないどこかにしかないとデラシネを気取りボヘミアンを夢見ては世界の中心でレディ・バードと叫ぶクリスティン(シアーシャ・ローナン)のしぐさや振る舞いは、自伝というにはいささか定型に過ぎる気がしてケリー・フレモン・クレイグのそれ(『スウィート17モンスター』)があちこちで記憶に蘇ったりもしたのだけれど、逆に言えばシアーシャ・ローナンの割には思いの外微笑ましく浅はかで間抜けであるという見立てこそが青春の不発をより煽った気がしないでもなく、『フランシス・ハ』にもみられた清潔な悲愴感という身の置きどころのなさこそがグレタ・ガーウィグの空気なのだとすれば、毅然とした面持ちで自爆するシアーシャ・ローナンの歯を食いしばる口元あたりを監督はあてにしたということになるのだろう。カイル(ティモテ・シャラメ)の書き割り然とした造型で明らかなように逐一フォーマットの反転がなされた場合、娘がなすべきは父殺しではなく母殺しということになるのだなあと、妖精の微笑みで母と娘の間をとりもつ父親の後方支援にワタシも過分に苛まれることなく心安らいで見物できた気がするのである。ただ、自分の物語ということで誇張や省略をわきまえ過ぎたのか、グレタ・ガーウィグの歩き方としてこちらが思い描いた道筋からさほどコースアウトすることもなく、身を乗り出すよりは達者だなあと腕を組んでしまうことの方が多かった気がしたのは正直なところで、青春の殴り込みとしては前述した『スウィート17モンスター』の通過儀礼がいまだフレッシュなままにも思えた。この映画の焦燥と衝動よりはどこかしらそぞろ歩きをするようスピードは、6フィート近い身長のグレタ・ガーウィグならではの視点と身のこなしが反映されたテンポによっているのだろうなとも思うわけで、それはおそらく、あごを上げるナタリー・ポートマンが決定してしまう事と同様なのだろうと考える。『ジャッキー』がどこかで真ん中の奥の方にタッチしてしまったのは、この視線が交錯した一閃にもよっていたのは言うまでもない。
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2018年06月20日

30年後の同窓会/生きのびたやつらはだいたい友だち

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自由の国アメリカを守ろうと身を投じた軍隊の、ならば自由への殉教者になれとばかり戒律のごとき軍規をふりかざす不条理やら矛盾やらを笑い飛ばしつつ、いつしか運命の涙がにじんでくる『さらば冬のかもめ』で描かれたアメリカの敗残兵を、しかし彼らこそがこの国の光と影を知る者ではあるまいかと、反戦ではあるけれど厭戦で睨め付けることをしない眼差しで、家に帰る彼らにそっと肩でも貸すかのようにリンクレイターは道行きを均していく。戦場で生命を奪った者は永遠に変質してしまい、かつて居た自分の場所に戻ろうとしてもそれは許されないことがどの兵士にも後出しで伝えられるものだから、生き残ったものは生き残れなかった者の分まで途方に暮れることを求められて身も心もすり減らしてしまうのだろうし、その感覚を共有できるのはやはり居場所を弾かれた者でしかないという「疎外感」こそは『スラッカー』からずっとリンクレイターが陰に陽に変奏してきた感覚に他ならず、それはおそらくアメリカという国の曖昧で茫漠とした広がりに脅える強迫観念的な帰属意識の副作用ということになるのだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』もこれもそうした内部の自家中毒こそがアメリカの原風景であることを告げるに他ならず、笑おうが唇をかみしめようが絶対値としては同じ数値を叩き出しているにちがいない。前作(とあえていう)では疎外された自分を知っていくことでメドウズはその逆へ走っていこうとしたのだけれど、今作ではワシントン(J・クィントン・ジョンソン)がこの3人と出会うことで自分に巣食う疎外感を飼いならす術を獲得していくサイドストーリーを成立させてもいる。ドクの息子ラリー・Jrと同じ部隊だったワシントンまでもがなぜイラクから帰国しているのかと言えば、それはラリー・Jrの最期を看取ることになった場所で大勢の民間人をも撃ち殺してしまった彼の精神的なメンテナンスの意味合いがあったのだろう。この旅においてワシントンは物言わぬラリー・Jrのある意味よりしろであったと言ってもよく、ラリーの家に泊まったワシントンが家の中に飾られたラリー・Jrの写真を見つめる時に彼もそのことに気づいていたように思うし、それによってはからずも、バグダッドで昏倒したワシントンの魂を寛解する旅となったようにも思うのである。ドク(スティーヴ・カレル)が懲役をくらう羽目になった30年前のベトナムでの出来事は最後まで詳細が語られることはないまま、その事件で命を落としたらしいハイタワーという兵士の母親をドクとサル(ブライアン・クランストン)、ミューラー(ローレンス・フィッシュバーン)の3人が訪ねるシーンがあるのだけれど、その出来事の詳細をあえて曖昧なままにしていることもあってか、名誉の戦死という欺瞞をドクの息子ラリー・Jrの死につきつけた勢いを借りてドクの重荷を解くと共に自分たちの贖罪をもなしてしまおうという風に映ってしまう点で、いささかこのエピソードの据わりが悪いように思ってしまうし、ラリー・Jrの時には死の真相を明かすことに抵抗したミューラーがここではサルの思いつきにあっさり乗ってしまうことや、そもそも母親を訪ねドアを叩くに際し彼らの間にドクを含め何の躊躇も悶着もなかったのはリンクレイターらしからぬ急ぎ足にも思えた。メドウズが盗んだ40ドルは軍隊の募金箱から盗んだ金だったけれど、この旅の費用は(おそらくは携帯の代金もふくめ)ドクのために軍の同僚が集めた募金で賄われていて、メドウズのささやかなリターンマッチにもなっている。
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2018年06月17日

万引き家族/そして凛となる

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「寒いなあ、雪でも降るんじゃねえか」と治(リリー・フランキー)が祥太(城桧吏)に言ったその言葉が本当になる頃、ではいったい何が嘘のままだったのかというその時間の移ろいを、世間という名前の下世話な予断を迎え撃つがごとくねめつけるように即物的な視線でこの映画は映し続けていく。そこに描かれるのは脱構築家族という監督が幾度となく綴ってきたテーマの極北ともいえる家族のシミュラクラであって、シェルターとして装ったはずのそれが十全に機能しつづけることで自我に目覚め、その結果として血は水よりも濃いという常套に刃向かわざるを得なくなっていく痛ましい純粋を、まるでデッカードを揺さぶるロイ・バティのような哀切で搾り取っていく。治が「それしか教えてやれることがなかった」と語る万引きという行為は、この家族を貫くすべての共犯関係を互いが確認し続ける目配せのような行為でもあり、それが祥太には家族の絆のように映って見えたからこそ、駄菓子屋の主人(柄本明)に妹にはそれをさせるなと優しく諭されたことで混乱し、それが車上荒らしという窃盗へと姿を変えた時に烈しく拒絶をしたのだろう。かつて車上荒らしの車内にみつけた幼い祥太も、りん(佐々木みゆ)と同じようにネグレクトの犠牲者だったのだろうし、そんな彼らを救ったセーフティーネットが救われた彼らの成長によって破壊される皮肉にこそ、あらかじめ機能不全すらを機能と備えた家族とシミュラクラとの悲劇的な差異がうかがえたように思うのである。りんの歯が抜けた朝に初枝(樹木希林)が息を引き取るのもその残酷な代償だったのかもしれない。しかし、社会から隠れた人間たちが社会から隠された子どもたちを陽の当たるところに連れ出したことは確かなわけで、祥太とりんのそれぞれが自分の目と足を頼りに行き先を選んだラストによってあの家に生きた者たちすべての救済としたことは間違いがないだろうし、治と信代(安藤サクラ)はその確信を抱くことによってようやく自らの罪を罪として向き合うことができるように思うのである。そんな中、ひとりだけ孤絶のレイヤーが異質な亜紀(松岡茉優)を投入することで不穏のバランスを崩す「お話」としての配分を厭わない抜け方も鮮やかで、社会を転げ走り回りながらもネオリアリズムの社会派映画として収束される気のない攻め方は図太いことこの上ない。念入りだった信代の化粧がことの後にはすっぴんになっているあたりとか、歯のない初枝が吸い付くようにミカンにかぶりつく姿とか、りんの口に煮込んだ麸が押し込まれる時の角度であるとか、そんなところから人間の質量は立ち上るように思うし、何より先に肉体をフェティッシュな解釈でとらえる視線が官能ともいえる生命の気配をあらわにするからこそ、言わずとも感情に血が透け始めるように思うのだ。初枝が産んだ女の子が信代に育つことは想像しがたいけれど、砂浜で信代に「ねえさんよく見るときれいだね」と言った初枝は、海辺の風に吹かれながらいっときそんな想像をしてみたようであったし、その夢想が初枝を底なしの寂寥へ永遠にとらえてしまったのかもしれないとも思ったのである。その瞬間の兆しとして「わあ、すごいシミ」という言葉を初枝に与えた監督には少し震えがきた。
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2018年06月14日

ビューティフル・デイ/死がふたりを穿つまで

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フロリダにあるモーテルの管理人ボビーは崖から落ちてしまわないよう子供たちをつかまえるキャッチャーだったけれど、ジョー(ホアキン・フェニックス)は不幸にも崖から落ちてしまった子供たちを奪回するファインダーとしてそこにいる。ジョーもまた、かつて崖から落ちた子供の一人だったのだけれど、そこで彼を捉えた絶望と恐怖が、崖を登る道筋を探りハンマーをピッケル代わりに崖を登りきる能力を、その極限で彼に与えたということになるのだろう。しかしそれは崖の下に幾度となく堕ちていくことで自分の過去と向き合い落とし前をつける作業であると同時に、その代償として崖の下の狂気に自らの正気を差し出す続ける行為でもあり、ともすれば深淵に身を投げ出すことでその苦行から逃れる誘惑に折れてしまいそうな日々を、母親への愛情と薬を頼りに息も絶え絶えとなりつつ何とかやり過ごしているに過ぎない。ニーナ・ヴォット(エカテリーナ・サムソノフ)は崖の下に捉えられつつも最終的な善くないものに喰われてしまわない力を自分の中に育てていて、”You Were Never Really Here(ほんとうのあなたはここにはいない)” という原題こそがその呪文だったように思うのである。そしてそれはかつてのジョー少年がクローゼットの中で無意識に唱えた続けた言葉だったのかもしれず、ジョーに奪回されたニーナが呪文の奥から出てきたのは彼の中にその共鳴を見たからだったのだろう。そうやって束の間、無痛の殻から足を踏み出していたからこそ、モーテルから連れ去られるニーナが叫ぶ「ジョー!」という声には心の底からの絶望と哀しみが込められていたのだろうし、母親を喪ったことでいったんは深遠に沈むことを選んだジョーを押しとどめたのがニーナの幻影であったのは、ジョーの中の深いところに彼女の叫び声が刻み込まれていたことの何よりの証だろう。この映画は、そんな風にして2つの魂が出会い結びついていくラブストーリーを極北のプラトニックで謳う一方、ニーナによって喉を裂かれ事切れた知事の死体を見たジョーは、あの時に父親を屠ることができなかった自分を責めては「おれは弱い、おれは弱い」と慟哭する寄る辺なき戦場の理性でバランスをとってみせさえするのである。それら清らかさと凄惨を繋ぐピアノ線の緊張を担うのがジョニー・グリーンウッドのサウンドデザインで、ほとんどセリフらしいセリフを喋らないにも関わらずジョーの内面に渦巻く激情と虚無を音響として奔出させることによって説明ではなく直観で観客を直撃するよう仕向けては強迫的に脳髄を一閃しようとする。ジョーが雑踏に踏み出した瞬間、人と車の織りなす喧噪がインダストリアルノイズの圧力と切っ先でスコールのように降りそそぎ、ジョーの耳には世界の音がこんな風に聴こえているのだろうかと、『クリーン、シェーヴン』の滴るようなノイズサウンドを想い出したりもした。今にして思えば『シクロ』で決定的に鳴っていたのはトム・ヨークの歌声というよりもジョニー・グリーンウッドの不意打ちで殴りかかるギターのアタックだったわけで、彼の創り出す音が映画に愛されるのは既に必然だったということなのだろう。自分が土手っ腹に風穴をあけた相手の隣に横たわり星条旗のウェットワークをメランコリーで共有しつつ「愛はかげろうのように」をレクイエム代わりにその死を看取るジョーは、既に崖の下の司祭のごときであった。
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2018年06月12日

友罪/夢罪

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藤沢(夏帆)の部屋で猫を見つめ、白石(富田靖子)と待ち合わせたデパート屋上に遊ぶ子供たちを眺める鈴木(瑛太)に向けるワタシたちの訝しむような視線を瀬々監督は否定しない、というかむしろそう誘い込むように撮っている。それは殺人という罪よりもそれをどう行ったかという行為に対する私刑のような視線であるのは間違いがなく、山内(佐藤浩市)の息子が犯した過失による交通事故死が贖罪の道筋で語られることの対照となっている。山内の息子は車を運転さえしなければ再び同じ罪を犯すことはないのだけれど、鈴木の場合、鈴木という内部そのものが罪であるという存在の怪物化がワタシたちの視線を無意識の石つぶてへと変えていくわけで、鈴木の内部に彼の飼うものの気配を知るためには白石のように自分の内部すらを犠牲にしたある種の同一化によってようやく深淵を覗き込むことが可能となるという、そうした視点を社会が共有することの不可能は、その達成と引き換えに白石が失った家族の絆がつきつける不幸によって裏書きされることとなる。ここに登場する全ての悼むべき人たちが告げるのは一度壊れたものが元に戻ることはないという絶望のようなあきらめであり、たとえ戻ったようにみえたところで内実の決定的な変質を目の当たりにするものにしてみれば、では戻ったことにして生きていこうとする社会をあげての欺瞞がさらに彼や彼女を壊し続けていくことになるわけで、前述した一度壊れたものが元に戻ることはないという一文へさらに付け加えるとするならば、一度壊したものが元に戻ることはないという加害者の絶望もそこにあるわけで、この映画が喪失と再生という気楽で都合の良い呪文を忌避し続けるのはその峻険こそを描こうとしていたからであるように思うのだ。他人の命を奪った者が、しかしそれを踏まえた上で今の自分は生きてみたいと思うんだという言葉は身勝手な矛盾にとどまるのか、そうした意志が水平に並ぶ場所はこの世界にあり得ないのか、この映画は鈴木と益田(生田斗真)をその世界の陰と陽とすることで今ここにはないそこを夢想してみせたのではなかろうか。そしてそれは、そんな世界があったらきみはどう生きるつもりだ?という日本のどこかにいる少年Aというたった一人の観客だけに向けた監督の問いかけだったように思うのである。それだけに軽重のバランスとしてメディアの描写など外部の装置が記号的に均されたのは諸刃の剣といったところか。しかし、いつも所在なさげな瑛太に鈴木の無痛が憑依したかのようなこの棒立ちはキャリアハイだし、夏帆は早足で被虐をかいぐぐる人として『予兆』の先へ歩み出した。感情の省略ではない慟哭を生田斗真は打ち鳴らされる鐘と響かせたように思う。ゲロがあんな風に心を溶かすのは初めて観たかもしれない。
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2018年06月10日

海を駆ける/シーバウンド・エクスカーション

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突然現れた正体不明の闖入者が日常に投じた波紋がやがて巨大な渦を巻き起こして日常の意味そのものを変えていくといった定型にのっとってはいるものの、たとえば『南東からきた男』のように闖入者の正体がこの世ならざる者であるかどうかという境界をうかがうサスペンスを担保しつつ、そこからいかに遠ざかってみせることが可能かというアクロバットそれ自体を試みる映画であった。ラウ(ディーン・フジオカ)という男(そもそも男と特定していいのかということもある)の行動を人間の論理で語らずに語ること、しかしその尺度を人間の論理とした時点で常に人間の論理が強烈に意識されてしまうという矛盾を、ならばそれをそのまま描いてしまえばいいのではなかろうかという野心が、ホラーでもSFでもない明るさと昏さ、希望と禍々しさの同居する、しかし死の在りかだけはしたたかに提示し続ける奇譚として最期には小さなあぶくを悪戯めいて破裂させてみせさえもする。劇中でラウは直接的もしくは間接的な描写として6人の命を奪い、2人の病気を治癒する。もちろんそこに人間的な善と悪の認識はあるはずもなく、もしもラウの姿が透明であったならそれらの死は事故や病気、大往生といった運命の所作として呑み込まれたにすぎないわけで、人智を越えた存在に触れた時、果たして人は絶望するのか解放されるのか、それがなぜか青春のバカヤロー!とクロスして語られる不可思議なヴィヴィッドは、しかしそれも裏を返せばメメント・モリの影であったかもしれないわけで、『淵に立つ』のラストを染めた“人間などはなから考慮されない道理のひと触れ”そのものを監督は描こうとしたのだろうかと、海へと消えていくラウのブラックホールのような笑顔を見せられてようやく思いが至ったのである。相変わらず芹澤明子氏のカメラは怜悧で透明で禍々しく、フィクスになるたび四隅や空白を目で追っては凶兆を探す黒沢清のモードへと強制的に切りかわってしまうのだった。左にサチコ(阿部純子)の佇む崖上のトーチカ、右にはタカシ(太賀)の泳ぐ海を配置したショットの拮抗した調和ゆえ、何かが何かを思いあぐねているかのようなショットに首筋はちりちりと胸はざわざわと慄えたのを自覚した。
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2018年06月07日

デッドプール2/ライアン!ライアン!

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全身タイツでどれだけカッコつけたところで所詮生き恥を晒すだけであることを身をもって知るライアン・レイノルズは、絶え間なく全方位的に自虐と加虐のジョークを雨あられとぶちまけてはすべての現実を液状化させつつ、かつてスティーヴン・キングがそうしたように膨大な固有名詞で武装することでポップカルチャー=リアルのテクスチャーをそこかしこにスクラップして映画を子供部屋の居心地へと変えていく。さらに今作では監督がデヴィッド・リーチに交代したことでドタバタの過剰なキレが上積みされて、誰もが心おきなくサーカスの観客のように呆けた顔で手をたたき足をバタバタさせながら退行するのが許されることになり、その澱みと衒いのなさは最早エレガントとすら言えるほどであると同時に、今のこの世の中で何ものにもつかまらず逃げ切るにはここまで針を振り切らないとエンジンはブーストされないのだというオーヴァーキルに、いったいお前は何と闘っているのだという正体不明な事態の深刻ささえ嗅ぎ取ってしまう始末なのであった。とはいえ上下左右を完全に取っぱらった情動の絶対値だけを見てみれば『アべンジャーズ』や『ウィンター・ソルジャー』と数値そのものは変わらないのではなかろうかと考えてみた時、ライアン・レイノルズが己の全存在を賭けた逆張りには強迫観念とすら言える執念を見てしまうわけで、それは劇中でどさくさ紛れに遂行される過去の亡霊たちの抹殺によってさえ浄化が追いつかないほどのどす黒いメランコリーが突き動かす、トラウマに向き合うプライマル・スクリーム療法にも思えたのである。ニコラス・ケイジしかり、ロバート・ダウニー・Jrしかり、実人生の屈託、すなわち自分の糞をキャリアに向かって投げつけ晒すことを厭わない役者の愛され方には無尽蔵なところがあって、ここにライアン・レイノルズもその倶楽部に晴れて入会したといっていいのではなかろうか。そこではオスカーよりはラジー賞が勲章だったとしても、永遠にゴズリングのいない世界であることは間違いがない。
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2018年06月05日

犬ヶ島/きみが吠えればキャラバンは進む

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あけすけに言ってしまえば、『グランド・ブダペスト・ホテル』を観た時に書いた“前作『ムーンライズ・キングダム』でも顕著だったシンメトリーのフィクスによる緊張と横スクロールによる緩和、感情を記号化したキャラクターのミニマル、夢の記憶を彩色したような色彩”“これは前作(『ムーンライズ・キングダム』)でも感じたことだけれど、この映画のすべてが『ファンタスティック Mr.FOX』ばりのストップモーションアニメに置き換え可能である”という感想メモから特に更新されたこともない、結果として見事に置き換えられたストップモーションアニメだったのである。「悲しき熱帯」的な揶揄をねじ伏せる強迫観念的なディテイルの躁病的な奔流に、特に日本人であればその度外れた幻視に驚愕しないわけにはいかないし、人間の最良の友たる犬たちを中心に据えることでたやすくあけっぴろげに距離を詰めてくるのも確かではあるものの、何しろ今の日本で生きる者には小林市長が見せる改心に裏打ちされた公平さへの性善と楽観こそがこの映画最大の絵空事に思えてしまう点で、何だかうなだれざるを得なかったのである。結果的にはこれがイノセンスによる革命であったことが告げられるエピローグで寓話は完結するのだけれど、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』から『ファンタスティック Mr.FOX』まで続いた「父帰る」のテーマを完了して以降、大人の教科書、あるいはユニヴァーサルな知育絵本として、美しく明かりの灯る人生のルールを忘れがたい挿絵のようなフィクスで焼き付けるポスト構造主義的な方法論の洗練にウェス・アンダーソンは殉じ続けるのか、もはや『ホテル・シュヴァリエ』の沖に流された孤独は役立たずの自家中毒でしかないのか、正直に言ってしまうとワタシはそれがちょっとだけ寂しい。
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2018年06月04日

ゲティ家の身代金/世界を視てから死ね

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老境のうつしみと終焉の予感がもたらす、物質主義の手ざわりへの尋常ならざる執着という『エクソダス』以降見え隠れする御大の死生観は、ジャン・ポール・ゲティ役がクリストファー・プラマーに交代されたことでよりあからさまになったのではなかろうか。その結果、すべては映像化されうると信じて疑わぬサブテキスト殺しの御大が、それゆえ体温が立ちのぼらぬ者たちが低温火傷でのたうちまわる、その映像の殺傷能力だけで撮りきったとすら言える極北のサスペンスとなっている。それはすなわち冷血であればあるほど怜悧に光輝くという御大の法則が存分に発揮されたということであって、となればやはりお蔵入りしたケヴィン・スペイシーのヴァージョンに涎が出るのを止めることはできないにしろ、前述した死生観の発露に限って言えばクリストファー・プラマーの破壊される老人こそが御大の心持ちにジャストフィットしたということになるのだろう。したがって、体温など一度も測ったことのないゲスとして颯爽と登場するフレッチャー(マーク・ウォルバーグ)が、なぜか感情を規範に行動し始めるに連れどんどんと阿呆のようになっていくのは当たり前で、変温動物であればこそ唯一ゲティと正面から渡り合ったゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)の奮闘が、サスペンスとしては明らかにバランスを失したこの映画をあくまで異形の屹立として送り届けたのは言うまでもない。それにしても『プロメテウス』で組んで以降スピルバーグにとってのカミンスキーと言ってもいいくらい御大の右目と左目と化したダリウス・ウォルスキーの、ハイパーリアリズムのような質感で現実と非現実を溶かしてしまうカメラは叙事殺伐な御大の肌によほど合うのだろう。今作ではまるで『列車の到着』のようにあらわれた蒸気機関車の煙がフレームの内部を埋め尽くすかのように充満していくショットの突発にやおら押し込まれたし、男たちに抑えつけられる3世よりも医者が自分の脱いだコートとジャケットを首尾良く壁のフックに掛けるまでの動きに視点を誘導する牽制球のようなカメラが、これから起きるルーティーンのひんやりとした凄惨を予感させて3世と共にこちらをも抑えつける。そんな風な演出家とカメラマンの仕業とあって相変わらず食べ物が暴力的に美味そうでないのは言うまでもなく、あの死骸のような分厚いステーキは3世の心を折るに十分であった。
posted by orr_dg at 02:21 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする