2018年05月30日

ファントム・スレッド/いいと言うまで動かずに

Phantom_Thread_02.jpg
オフィシャルサイト

約束の場所にレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)が乗りつけたブリストル405のドアを自分で開けて乗り込んでしまいそうになった一瞬、アルマ・エルソン(ヴィッキー・クリープス)はハッと手を引いてレイノルズが開けてくれるのを待つことになる。この瞬間、オートクチュールという美の儀式を亡き母に捧げ続ける妄執のモンスターたるレイノルズの手中に、海辺の小さな町で暮らすおぼこいアルマが新たな生け贄として堕ちたと思わされたワタシ達とレイノルズは、アルマの目を逸らすことをしない笑顔にひそむ愛とは常に共同正犯であるという確信と野心の刃など知る由もなかったのである。レイノルズがアルマを最初に連れ出した夜のレストランでおかまいなしに食い気をほとばしらせるアルマをレイノルズは優しく黙殺する。初めて自室にアルマを呼び入れた次の日の朝、朝食の席でアルマのノイズをレイノルズは叱責する。レイノルズが倒れる日の朝食で、アルマはノイズを出すことなく静寂をコントロールしてみせている。ハネムーンの旅先での朝食、何らはばかることなくノイズを出すアルマをレイノルズは苛立ちを押し隠しながら黙殺する。こうして都合4回あるレイノルズとアルマの食事のシーンを追ってみると、ただ一度ノイズを出さなかったのは彼女の仕立てた策略の内であったことを思いだしてみれば、最初から「むしろ面倒を歓迎するわ」と言い放ちノイズを出し続けるアルマは「わたしはいつだってここにいる」と自らを揺るぎなく変えないことによって状況を逆転していったわけで、してみると自分を誘うだろうことを見透かしてあらかじめメモをしたためていたアルマに声をかけた時点でレイノルズは彼女の軍門に下ってたということになるし、食いしん坊さん!とレイノルズを子供扱いしたようなメモの走り書きはやがて2人が獲得する異形の関係が既にここから始まっていたことを告げてもいる。確かにアルマがレイノルズにしたことは道義的あるいは倫理的に道を外れるかもしれないけれど、アルマはレイノルズと一つ屋根に暮らすうちに彼が奥底にくゆらせるオブセッションの源泉を見抜いていたのかもしれず、ハウス・オブ・ウッドコックにおいては異物であるはずのアルマがシリル(レスリー・マンヴィル)にとって排斥の対象とならずにいることや母親の幽霊ですらがアルマとの代替わりを促すかのように消えていく様子からするに、アルマがレイノルズを救うだろうことを女性達は深層で知っていたようにも思うわけで、レイノルズが新たに呪いを更新する必要があったとするならばアルマこそがその守護天使であったということになり、キノコを料理するアルマの姿を押し黙って凝視するレイノルズが、のたうち回りながら女性たちに仕えていくことが自身の宿命であることを確信として悟りつつ「倒れる前にキスしてくれ」という酷く美しい言葉でそれを受け入れる覚悟を示すクライマックスの愛の形は前人未踏であるだけに怖ろしくはあるものの、そこに踏み出していく2人の昂揚を確かに光が照らしたようにも思えたのだ。たとえそれが地獄の業火の照り返しだったとしても、問わず語りにその愛の彼岸を夢想するアルマはむしろそれを望んでいるようですらあるのは言うまでもない。では果たしてレイノルズのクリエイティヴィティは彼方への片道切符として差し出されたままなのか、この一連がやがてくる享楽のスインギング・ロンドンに向けてレイノルズが忌まわしきシックを超えていくための通過儀礼であるならば、清冽で硬質な屈託をヒールの音に重ねて歩くシリルの揺るがぬ眼差しがそれを受け入れたようにも思えたわけで、それは完璧主義者の人体実験としてもひどくロマンチックであることに変わりはない。ヘンリエッタがハウスを離れたのは、彼女に仕立てたドレスをショーでアルマが完璧に着こなしたことを知ったからではなかったのか。ヘンリエッタとてバーバラと同じ穴の狢なのだろう。レイノルズの駆るブリストル405のリアからルーフ越しの疾走ショットはまるで御者台から馬を捉えたかのような荒ぶるむき出しであった。アスパラガスの夜が明けてキノコの朝を迎える瞬間のまるで水の中で爆発音を聴いたように圧縮された不穏のサウンドデザインに、ため息のような鳥肌が立つ。完璧な平凡が完璧な非凡を喰いつくす倒錯はポール・トーマス・アンダーソンの自罰と自虐の白日夢でもあるのだろうか。より騒がしく水を注ごうとアルマが高く掲げた水差しが電灯の傘を揺らした瞬間、新たな世界の法則が回復されるのを見た。
posted by orr_dg at 02:54 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月28日

ランペイジ 巨獣大乱闘/そうなるようにできている

rampage_02.jpg
オフィシャルサイト


最近は隙あらばこちらと刺し違えようとするような映画ばかりピリピリしながら観ている気がするので、ここまでノーガードで棒立ちになっていると逆に虚をつかれて殴りつける気も起こらないのである。それがたとえ、動物をこよなく愛するオコイエ(ドウェイン・ジョンソン)がその皮を剥いでなめしたジャケットを着て登場したとしても、そいつがそれをやったら一番正当性が保てなくなって困るはずのヤツがいくら人非人であるとはいえ生物学的な人間を喰っちゃったとしても、至近距離から土手っ腹に銃弾くらったはずのオコイエが、でも急所を外れたから大丈夫!と笑顔でハードワークにいそしんだとしても、火を怖がる動物が火を消そうと火元に突進するはずがないように低周波を嫌がるのならその本能としてより遠くに逃げそうなものであったとしても、である。すべてはひたすら、大きいことはいいことだ!および、馬鹿と煙は高いところに上りたがる、の2点を目で追うことだけを考えてデザインされて、おそらくは字幕がなかったとしてもそのあらすじの伝言ゲームが可能であったという点では、ほぼサイレント映画といってもいいユニバーサル仕様だったわけで、ブロックバスターですらがいかに自分は丸腰ではないかというアピールで差別化を図る昨今において、逆に丸腰であることを高らかに謳いあげる底抜けの開き直りが、ああ今のワタシは伏線にがんじがらめになることも我が身を苛むことも、いっさい何も負うことがないのだという一瞬の解放をもたらしては人々の心をざわつかせたということになるのだろう。そして前述の2点をもはやエレガントとすらいってもいい身のこなしで体現するのがドウェイン・ジョンソンであることは言うまでもなく、超高層ビルで八面六臂の大活躍をするのだろう新作の予告に彼を待ち受ける真の黄金時代の到来を見たのはワタシだけではないだろう。今さらながらではあるけども、ワールドトレードセンター倒壊の映像が映画制作に底知れぬ影響を与えたのは言うまでもなく、あの日の映像から数値化されたのだろうアルゴリズムによる高層建築倒壊のシミュレーションプログラムの最新処理をここで確認することも可能である。あの日あの時を喚起させる映像もいつの間にか解禁されて、とっくに誰も気にしなくなっているようではあるけども。
posted by orr_dg at 01:39 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月26日

レザーフェイス―悪魔のいけにえ/ジェド・ソーヤーのぼうけん

leatherface_03.jpg
オフィシャルサイト

※一応言っておくとネタバレ気味

基本的には訊かれてもいないことを答えたがるのがプリクエルであることに違いないし、そりゃソーヤー家に生まれ堕ちたならババ=ジェディダイアがああなったところで仕方がないわな、とすでに呑み込んでいる大方へのおせっかいであるのは承知ながら、状況の犠牲者という若干の感傷はしのばせつつも、トリヴィア的には彼の被るマスクは誰の人皮であったのかというその程度にとどめた点で、負け戦にも関わらずヤケを起こさなかったモーリー&バスティロの自制心は称賛されるべきだと思うし、トビー・フーパーのラストクレジットとしてその敬意が損なわれることもなかったように思うのである。構造としてはハートマン保安官(スティーヴン・ドーフ)とソーヤー家の十年戦争として展開されるのだけれど、ソーヤー家を蛇蝎のごとく嫌悪するハートマンを一家の不倶戴天の敵とするには因縁を業に書き換える手続きがいささか弱いように思われて、確かに彼の娘は一家によって惨殺されるのだけれど、一家の主たるヴァーナ(リリ・テイラー)とジェッドのそれに比べてみた時、ハートマンと娘との親子関係がまったく描かれていないこともあり、彼女の死が単なるモブのオープニングヒットとしてカウントされるに過ぎない気がしてしまうせいでハートマンまでが記号の域を出ないように思えてしまうのだ。このあたりについては、これまで監督作では必ず自ら脚本をしたためていたこのコンビが、今作では他人の脚本で撮らなければならなかった事情がマイナス要因となっているのだろう。しかし、ジェッド(サム・ストライク)に若き日のブラッド・ダリフの横顔が映し出される精神病院のパートでは『カッコーの巣の上で(1975年)』的な精神の牢屋を、その後は掃き溜めヴァージョンによるどん詰まりの『地獄の逃避行(1973年)』を、と言った具合に『悪魔のいけにえ(1974年)』の精神背景に寄り添おうと監督コンビは懸命かつ真摯に参照をつとめるわけで、そのことがもたらすいささかの散漫や冗長を認めつつも、そうしたことの貢献によって今作からチープなノヴェルティ感が取り除かれていたことは記しておくべきだろう。そして、どうやら今作のハートマンは『飛びだす 悪魔のいけにえ レザーフェイス一家の逆襲』に登場するハートマン町長の父にあたるらしく、してみると『飛びだす〜』においてなぜあれほどハートマン一家がソーヤー一家に憎悪の炎を燃やしたのか、ここに来ていきなり辻褄が合うことになるわけで、当時そのことで思い悩んだ記憶など一切ないにしろ、せっかくの後出しジャンケンなのだから勝てる勝負を勝ちに行く姿勢には素直に拍手を送りたい。いかにも首だけ出してます!的な特殊メイク愛の手ざわりが溢れるハートマンの最期にも点が甘くなる。
posted by orr_dg at 01:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月23日

モリーズ・ゲーム/私の名前で私を呼んで

mollys_game_01.jpg
オフィシャルサイト

感謝の言葉を告げるモリー・ブルーム(ジェシカ・チャステイン)に「娘のステラなんだ、きみを弁護するようにと頼んだのは」と返す弁護士チャーリー・ジャフィー(イドリス・エルバ)は「きみの本を読んだ娘はきみを自分のロールモデルだと思ってる」とさらに付け加える。非常に聡明な子供として描写されるステラがなぜそれほどまでにモリーを全肯定するのか、それはおそらくアメリカ的な家父長制にけつまずいてクラッシュしたモリーが、逆にそれを利用することでその呪縛から脱出した上にマチズモの偽者やフェミニズム的な中指としてではなく、明晰な頭脳が導き出した街場の論理によってしなやかに労働倫理を実践しようとしたその企みの清冽な直截性が、人種であるとか厳格な父であるとかいった十代の彼女にとってのガラスの天井の向こうに透けて見えたからなのだろう。したがってモリーはこれまでアーロン・ソーキンが描いてきた、あらかじめ悪魔と契約して、そしてそれを誰にも知らされないまま生まれてきた人間とは異なるからこそ、彼女の債務はそこに発生しているわけではないし、父との和解や弁護士にすがることが彼女の独立性を脅かすこともないのである。そうしてみるとジェシカ・チャステインが今まで演じてきた様々なキャラクターは、「女性」の苦しみや悩み、絶望とされがちな感情や運命を付帯事項のない「人間」のそれへと書き換えていく存在でもあったことに気づかされるわけで、悪魔と天才の両義性を手放すことが映画のケレンを弱めることを承知の上で、モリーというひとりの人間がその喪失と再生をいかに可能にしたのかを衒いなく正攻法で描くことを自身の初監督作に課したアーロン・ソーキンの誠実というか馬鹿正直が思いがけず心に沁みてきたし、それは言わば、悪魔と契約した人々のギャンブル中毒を癒やす阿片窟を運営するモリーの、その一方で彼らの正面から目をのぞき込む思いやりや共感に通じるようにも思えたのだった。トニー・ギルロイにも感じたのだけれど、透徹した感情を抽出してきた脚本家ほどその監督作では情動の湿気が増すように思うわけで、それまで叙事に殺され続けてきた己が叙情の復讐なのかどうなのか、スケートリンクから父(ケヴィン・コスナー)の告白に至るあたりの、息を切らしたまま見つめ合う視線のらしからぬ性急さに驚いてみれば、そんな勘ぐりにもどこかしらうなずけてしまう気がするのである。かつてここまで正面切ってジェシカ・チャステインをくどいた男がいただろうかというクリス・オダウドの泣き濡れるクズもまた、アーロン・ソーキンがほくそ笑んだように思えた。
posted by orr_dg at 18:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月19日

孤狼の血/いつかギラギラした日

korounochi_01.jpg
オフィシャルサイト

大上(役所広司)と別れた夜にやさぐれた日岡(松坂桃李)が押しかけた時の岡田桃子(阿部純子)が、最初の夜の純白の下着とはうって変わったけばけばしいブラジャーをしていたのはなぜなのか、それはラスト付近で彼女が日岡に告白することの物言わぬヒントだったのだけれど、そんな風にしてこの映画は端正かつ律儀に爆裂しようとするわけで、署を出る日岡が突然の雨に空を見上げるシーンを丁寧に(ご丁寧にも、と言ってしまいたくなる)ハイアングルでとらえるショットといい、特に日岡まわりは丹念に抜かりのないように描かれていて、「荒磯に波」から始まる冒頭の数分でこの映画が腹に一物あることを宣言した後からすると、それは意外と言ってもいい身のこなしにも思えたのである。そんな風にしてエクスリーとダドリー、あるいはジェイクとアロンゾといったひりついた拳の相克をかわしては善悪の彼岸を這いずり回るビルドゥングスロマンへと舵を切るこれはあくまでも警察映画であって、『県警対組織暴力』に色目を使うにはヤクザが暴力装置としての分をわきまえ過ぎている気がしたし、日本人が鼻でもかむように映画を観ていた時代にさんざめいたプログラムピクチャーのやり逃げが刹那のスピードとマッチしたヤクザ映画はすでに彼方にあることをあらためて念押しされた気もしたのだった。やり逃げの意味も知らぬ客を待つためにそのスピードを殺してみせた『アウトレイジ』が賢明な亜種だったことは言うまでもなく、そうしてみるとアクセルを踏み込んだままギリギリでカーヴを曲がり切ろうとした白石監督のハンドリングとアクセルワークにはいちいち感嘆するしかないし、藤原カクセイ氏の死体仕事を含め人間のボディに関わることはとことん見せようとするサービス精神も含め、今できるすべての手を打ち尽くしたメランコリーの気分までもが充満するスクリーンに終映後ワタシは小さく一礼したのも確かなのである。とはいえ、反体制とか対権力とかいった青春の麻疹が若い衆の嗜みから失われた昨今、ピカレスクへのロマンがなかなか抱かれづらいのだろうことも実感しているわけで、「ヤクザが出ている映画」と「ヤクザ映画」の断絶はもう言っても詮無いことなのだろうことも、この映画を観たことによる最終的な確信だった気がしてしまうのだ。それらはおそらく、何かを足蹴にして垂直を登攀する征服の時代の徒花でもあって、最早後戻りすることはない水平性が誘うステイタス・クオーの再発見がそれを積極的に受け入れるはずもなく、その曖昧で茫洋とした横断を松坂桃李は実に的確に演じていて、それはすなわち更新されたその先がないことの最後通牒だったようにも思うわけで、その製作陣の真摯さゆえに図らずも「ヤクザ映画」の最期を看取る機会を得てしまった気分の複雑さがワタシの正直なところ。そんなつもりで観に行ったんじゃないのに。
posted by orr_dg at 03:06 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月16日

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法/虹のふもとでつかまえて

florida_project_01.jpg
オフィシャルサイト

キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビー(ウィレム・デフォー)である。遊びに夢中になった子どもたちが崖から落ちてしまわないようにつかまえる、ライ麦畑でたったひとりの大人である。ならば崖の近くで遊んじゃだめだと言ってしまえばいいのに、崖の近くでしか遊ぶことを許されていないことを知っているボビーは、笑わない目をして笑いながら子どもたちに目を配っている。もちろん子どもたちにはいろいろな子どもが混じっているわけで、最大限の譲歩としてボビーはヘイリー(ブリア・ヴィネイト)もできるだけキャッチすることに決めていて、ではなぜ崖の縁に柵を作らないのかといえば、それがアメリカという国の流儀なのだというジレンマをボビーに体現させてもいる。そうやって、ここまではいいがここからはだめだ、という「ここ」のせめぎ合いこそが現実に他ならないという、この映画ではそれが呪いのように終始絶えることがないわけで、ボビーが子どもたちに対しては「ここ」のくぐり抜けを大目に見ているのは、アメリカの罪深さになりかわった贖罪の気持ちでもあるのだろう。くわえてボビーは、ヘイリーがマジック・キャッスルの部屋で売春をしていることを知っているにも関わらずそのくぐり抜けすらも大目に見ていて、もちろん管理人としての家賃欲しさなどでは毛頭なく、それもまた崖の近くでしか生きられない人たちへの苛むような共感であったのは言うまでもないにしろ、そのことが招き寄せた結末にしたところでおそらくはボビーにとって最初の悲劇というわけでもないのだろう。しかしどれだけ絶望や諦念が深まろうと、キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビーはまた同じように大目に見てしまうしかないわけで、夕暮れにひとり煙草を吹かすボビーの寂寥に、ウィレム・デフォーという崖の近くを飄々と歩いてきた男がそれを演じることによって「ボビーというアメリカ」の内部に結晶化された幾重もの虚無が透けたようにも思えたし、「大人が泣くときはわかるんだ」などと6歳のニヒルをかざしたムーニー(ブリックリン・キンバリー・プライス)はそれを見透かしていたからこそ、だけど自分が泣くときのことなんかわかるはずがないよ、と決壊した瞬間に駆けつける先がボビーあるはずもなく、大人は判ってくれない、と確信した彼女が同志と選んだジョンシー(ヴァレリア・コット)と2人で崖から飛び出し夢の国へと駆けていくそのうしろ姿の、いったい2人は泣いているのか笑っているのか希望と絶望が手を取り合って絶唱するラストは『明日に向って撃て!』のブッチ&サンダンスにも重なって見えたのだ。書き割りの街でやり逃げの気配を浴びて生きていく子どもたちの、まるでZ級映画の血糊のように色付けされたジャムを、これって今まで食べた中で一番美味しいジャム!とうっとりする笑顔はそのままに、でもいったいどこへ連れ出すことができるのかわからないワタシたちはボビーのようにキャッチャーでいることを課し続けるしかないのだろうけれど、でもあんたが思ってるよりもけっこうキツイぜ、とその途方にくれた笑みに刻まれた皺が語りかけてきて、ワタシはさらに途方に暮れるしかなかったのだ。ヘイリーは最後までムーニーのキャッチャーであろうとあがき続けたし、ヘイリーに殴りつけられ無惨に腫らした顔でムーニーを抱きしめるアシュレー(メラ・マーダー)も、それがどんな場所であろうと生きることの尊厳と品性を手放さないジョンシーのおばあちゃんも、それぞれがキャッチャーであろうと必死であったにちがいないのだ。せめてあそこへと駆けていく2人が笑っていてくれたらと思ってやまない。
posted by orr_dg at 14:44 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月11日

アイ、トーニャ/同情するなら点をくれ

i_tonya_01.jpg
オフィシャルサイト

もちろんナンシー・ケリガン襲撃事件もリレハンメルでの涙のアピールも憶えているのだけれど、ライバルを襲って潰すとかマンガみたいな騒ぎを起こしたわりには8位入賞とか往生際の悪いどっちつかずのオチだったなあと思ったのを憶えている。そんなこんなでこの映画は、まちがいなく天賦の才を与えられたトーニャ・ハーディングというフィギュアスケーターが(もし彼女がナンシー・ケリガンと同じトレーニング環境にいたらメダルなど朝飯前だったのだろうか)、どういうわけであんな凡庸なラストを迎えることになったのか、ここはひとつ腰を据えてトーニャ(マーゴット・ロビー)の言い分を聞いてみようや、と言っているわけで、それはすなわち、まあアタシは悪い星の下に生まれたっていうただそれだけ、とことさら悪びれることもないトーニャの笑うその悪い星を描くことに他ならず、何よりアメリカは、アメリカンドリームを夢見る人間と夢見る必要のない人間にあらかじめ分別される国で、アメリカンドリームを照らすために例の悪い星の輝きが欠かせないことを、ホワイト・トラッシュの希望たるトーニャを狂言回しにファンキーな自虐と諧謔のスピンでリアリティショーの狂躁をダンスしていく。しかしこの映画がルサンチマンと自己憐憫の自家中毒を起こすどころかピカレスクの痛快に転じているのは、あたしにとって良い風が吹いてないのは知ってるけど、とにかく私はやるべきことをできる限りやってやるのだというピューリタンの労働倫理にも似たあらぬ方向への猪突猛進が清々しくもあるからで、競技会の後で審査員を呼び止めて「あなたたちがあたしを嫌いなのは知ってるけど、スケートをどれだけ上手くやってもダメなのはどうして?」と自分を抑えて行儀良く穏やかにたずねるトーニャの健気に対するあまりにも残酷な答えは、家族の愛やら絆やら知るはずがないトーニャにオールアメリカンファミリーの一員を演じることを求めてくるわけで、にも関わらず彼女なりに知恵をめぐらしては母親をたずねて家族の真似事をしてみたあげく当然のように自爆するその姿には、実は自己評価の低さゆえ世界を盲信してしまう者のピュアネスが痛々しくもあるほどで、ではいったい何を信じているのかと言えば、それは彼女を足蹴にし続けるアメリカなるものに他ならないのが何とも切ないペーソスを湛えてしまうところではあるわけで、暴力をふるい続ける夫ジェフ(セバスチャン・スタン)との共依存と重なるその二重性に納得したりもするのである。母ラヴォナ(アリソン・ジャニ)と夫ジェフについては人でなしの目盛りで測れるにしろ、何より笑いと驚きが止まらないのがショーン(ポール・ウォルター・ハウザー)であって、実質的な事件の首謀者でありながらいくら何でもこのキャラクター造型は底が抜けすぎだろうと思われることをあらかじめ察したのか、ショーン・エッカート本人にインタビューした当時の映像がインサートされているのだけれど、そこに居るのはまさに劇中で演出されたショーンと一言一句違わないサイレント・サイコパスだったわけで、さすがアメリカではこのクラスが野放しになっているのかとあらためて感銘を受けたのだった。そんな面々に交じってなかなかに忘れがたいのがコーチのダイアン(ジュリアンヌ・ニコルソン)で、白木葉子の側(がわ)に丹下段平を潜ませた彼女はあくまでトーニャのスケートにのみ共感を示していて、トーニャを取り巻く人間の中で唯一のプロフェッショナルなわけである。そうしてみると、アメリカのイノセンスというのはアマチュアの奔放と無責任の裏返しとでも言えるわけで、プロフェッショナルとは自制と責任を自らに課す挟持を備えることでイノセンスを喪失した先にある精神なのだろう。それはすなわち、前述したアメリカン・ドリームを夢見る人間と夢見る必要のない人間の違いでもあって、アメリカン・ドリームはアマチュアが見る夢なのだと考えてみると今のアメリカでむき出されている感情の説明になるのではなかろうか。しかしアメリカをアメリカたらしめているのはその永遠のアマチュアリズムゆえであるというアンビヴァレンツが社会と文化を更新するダイナミズムとなっているのは言うまでなく、だからこそその分水嶺を滑落していくトーニャを同情ではなく敬意をもって描くことを監督は努めたように思うわけで、たった一人、泣き顔を笑い顔へと作り変えていくメイクアップのシーンこそがトーニャの言う”that's the fucking truth!”であったのは間違いないはずである。監督はそう撮っている。
posted by orr_dg at 20:04 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月08日

君の名前で僕を呼んで/恐怖を笑い欲望に震えろ

cmbyn_01.jpg
オフィシャルサイト

ロータスの果実にかぶりつく若き神々がまどろむ夏の午後、とでもいう滴る感情をぬぐうこともしない理性の甘噛みには彼岸の香りすらがしたのだけれど、すべてをだしぬいて自転車をこいでは笑顔で走りぬけていくスピードの浮世離れはいつしか死の気配すらも振り切って、無知や誤謬を生け贄としない青春の滑らかで正しく美しい動きをただひたすら追う恍惚だけをとらえ続けるルカ・グァダニーノの幻視は、ある映画における「純粋で、途方もなく、モラルに外れた、そういう欲望こそが僕たちを生かしてやまないのだから」というポール・ダノのセリフの新たな実践にも思えたのである。しかしそれは、終盤で父(マイケル・スタールバーグ)が息子エリオ(ティモシー・シャラメ)に、夢を見続けるためには夢の理由を知っておいた方がいい、と語りかける父殺しをしない通過儀礼の静謐と豊饒を拡げるのに必要な時間だったことが明かされると同時に、オリヴァー(アーミー・ハマー)が自身の疎外された生を(「君の家ではぼくは義理の息子のような気分だったんだ。うちの父親だったらぼくは刑務所=correctional facility行きだよ」)エリオに明かすことによって、あの夏はむしろオリヴァーにこそかけがえのない時間であったことが告げられるわけで、エリオの涙はオリヴァーという想い出を失う哀しみに加え、エリオにとって自由の眩しい道筋にも思えた彼がずっと殺してきた内部の奥と、これからもそれを殺していかなければならない世界の悲嘆に感応したエリオ自身の奥から湧き出していたように思うのである。夏の日差しから一転したイタリアの冬景色とエリオを塗りつぶすメランコリーは、やがて聞こえてくるエイズの足音と、彼らが否応なく巻き込まれていく社会と政治に吹き荒れる嵐の予兆だったのかもしれない。この映画が『おもいでの夏』タイプの定型ににおさまらないのは、エリオにとってのオリヴァーと同じくらいオリヴァーにとってもエリオでなければならなかったその伸ばした手の切実さがそうさせるわけで、何度となく水辺で体を慣らした2人の、その6割は水分でできているとされる肉体が互いを浸透圧のように移動して均質になっていくその感覚と確信を、オリヴァーは”Call Me By Your Name”と口にしたのだろうと考える。ある種の解放区を現実的に設定した上でそこにのみ息を継ぐ人を解き放っては、彼女や彼らのブラウン運動のような動きをつかまえていく監督の筆致は前作『胸騒ぎのシチリア』にも連なる部分で、その不可思議なゆらぎには、いったい何が映画を決定するのかという問いかけを無効化する催眠性があって、主人公が境界線上で磔になるラストの香しい手癖も含め、ヴィルヌーヴがステージを上がってしまった今となってはこの悪い夢から醒め続ける夢を見るような中毒性のキックを手放すわけなどないのである。1984年にサイケデリック・ファーズをよみうりホールで観た日は東京で38度を超えた猛暑日だったことをいまだに憶えていたりもするものだから、地下室にくぐもるようなリチャード・バトラーの歌声を真夏の夜のパーティチューンにインサートするグァダニーノに、なにより一方的な共感を覚えてやまないのだった。
posted by orr_dg at 18:15 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月06日

ザ・スクエア 思いやりの聖域/芸術はサービスだ!

the_square_01.jpg
オフィシャルサイト

「それはだね、きみのバッグが美術館に展示してあったらそれは果たしてアートかどうか、ということだよ」というとっさの苦し紛れにも思えたクリスティアン(クレス・バング)の答えが、言うまでもなくそれはデュシャンの「泉」に由来するアートという行為の脱構築論であるけれど、結果として日常と非日常、虚構と現実、本音と建前、といった二重性をトートロジーで弄ぶスノッブの本質を自ら宣言していたことに気づかされていくのである。すべては現実を解題するコンセプトとして相対化する大喜利に過ぎず、後出しジャンケンの関係性の中でしか生きられない者の滑稽と悲哀を揶揄するというよりは救済するかのような慈しみと共に描くことで、笑い飛ばすつもりでいたこちらの居心地を次第に奪っていくその手つきは前作『フレンチアルプスで起きたこと』からいっそう露悪を増していて申し分ない。トゥレット障害の観客によるトークショーの蹂躙、クリスティアンとアン(エリザベス・モス)が繰り広げる言ったら負けのマウンティング、オレグ(テリー・ノタリー)による相対性晩餐会の破壊、そして黒髪の少年によるクリスティアンのあくなき糾弾、といったシーンにおける映画の叙述としてはバランスを失しかねない切り上げの悪さは明らかに観客を蝕むためのやり口で(そりゃあ151分にもなる)、そうやってクリスティアンに誘い出されたあなたたちは自分が今どこにいるか気がついているのかな?と言いながら、ワタシたちの苛立ちや蔑み、咎め立てをニヤニヤと笑いながら監督は集めて回っていたのではなかろうか。劇中では展示された正方形の中に足を踏み入れた観客の描写はないのだけれど、クリスティアンの娘が出場するチアリーディングの大会で、四角く囲われた競技エリアの中でチームが発揮する協調と信頼は、いまだ相対化の怪物と化していない子供であればこそ可能な精神の発揮であることを告げているかのようだし、別居した妻との間の2人の娘がクリスティアンの生活に登場して以降、クリスティアンの墜落をぎりぎりで押し留めていたのは子どもたち(2人の娘と黒髪の少年)であったようにも思うのだ。嘘をついてはいけません、お友達をいじめてはいけません、困っている人を助けなくてはいけません、自分がされて嫌なことは他の人にしてはいけません、と散々偉そうな口調で子供に諭してきたにも関わらず片っぱしからそれを反故にしている大人を叱るにはどうすればいいのか、つまりはこの映画はそういうつもりで耳に痛くて煩わしい言葉を執拗に散布し続けるわけで、そうしてみるとあちこちで子供が事態を撹乱しては「カオス」を呼ぶハネケの意図があらためてクリアになった気もするのである。もちろんリューベン・オストルンド監督がハネケへの傾倒と崇拝を公言しているのは言うまでもない。
posted by orr_dg at 23:31 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月03日

アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー/おまえがいないと宇宙が広い

infinity_war_01.jpg
オフィシャルサイト

※ネタバレあり

ガモーラに引き金を引いたスターロードに「気に入ったよ」とつぶやいて去っていくサノスは重篤な自己犠牲の虜と化していて、それがタイタンの失敗によるものなのかあらかじめ狂っていたのかは明らかにされないものの、ヒーローをヒーローたらしめる自己犠牲の呪いでスイングするアベンジャーズは、まさにそれゆえサノスの飼う自己犠牲の狂気に喉元を屠られ一敗地に塗れることになる。知識に呪われた男としてサノスがスタークに示す共感は、かつてサノスも世界の困難を知識で解決できると信じていたことによるものなのか、すべての理想が潰えた急進的リベラルがニヒリズムを経て暴力的でアナーキーな実践に至る姿には自罰的といってもいい過剰な自己犠牲への渇望が溢れ出し、「誰よりも今のお前を理解できるのは私だ」とヴィジョンを失わせたワンダを慰めては当たり前のように「あなたにわかるわけがない」と吐き捨てられはするものの、いやそれが彼には分かっているんだよと知らずワタシはお節介をしてしまうのだ。一つの生命を生かすために一つの生命が失われるサノスの言う完璧な調和の下での自己犠牲の、その失われる生命を少しでも減らすための営為が文明であるのは言うまでもないにしろ、その収束に抗い続けることの疲労と倦怠が、何かを得るためには何かを差し出さなければならないという自己責任へと自己犠牲を拡大解釈していくのも裂けられぬ営為であることをワタシたちは身に沁みているわけで、そうやってサノスに抱いてしまう昏いシンパシーの危うさを次作でどう鎮めてみせるのか、避けるわけにはいかない新たな責任をアベンジャーズは抱え込んだようにも思うのである。誰も彼もが「ダークナイト」のように責任をとるわけにはいかないのだよと大空に飛び立ったトニー・スタークのポップな遁走から10年目、宇宙の果てで途方に暮れるその姿が一瞬胸をついたりはするものの、この10年間それを食って過ごしてきたワタシは、因果は巡るよどこまでもと鼻歌まじりでその肩をたたいては、いつか社長もサノスのように笑える日が来るさと慰めてみるのであった。すべての登場人物に理由と必然を与え、なおかつそれを彼方へと燃やすシナリオと演出の精密さには舌を巻きっぱなしなのだけれど、それはひとえに、言わずもがなと言わずと知れた、皆まで言うな、によって何をどこまで刈り込んで削ぎ落とすことが可能なのか、その見極めにかかっていたとも言えるわけで、何よりそれを可能にしているのは観客との信頼関係および共犯関係であって、DCに決定的に欠けているのがそこに成立する視点であることにも気づかされるのである。とは言え、ファイギこそがその視点に他ならない点においてDCにとっては永遠のないものねだりであることには違いないのだけれど。
posted by orr_dg at 03:20 | Comment(1) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする