2017年04月10日

LION/ライオン 〜25年目のただいま〜/同情するなら金送れ

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オフィシャルサイト

フィクションであれば荒唐無稽と一蹴されるような、事実は小説より奇なりという常套句そのものの“強すぎる話”を成立させるためか、地ならしとなる前半のインドパートは思いのほか丹念に描かれて、少年期のサルー(サニー・パワール)が退場するまでにおよそ映画の半分(60分)が費やされている。そのパートでは、表情や身体の動きを驚くほど繊細に操る子役サニー・パワールの名演と彼が次第に堕ちていくインド社会の裏側がサスペンスフルに活写されることで「オリヴァー・ツイスト」的な奥行きすらを持ち始め、仕込みとしてはかなり上々だったのである。ある問題が生じるのは、舞台をオーストラリアに移しサルーをデヴ・パテルが演じるようになってからで、この“強すぎる話”をあくまでサルーの物語と追っていたワタシの前に現れたオーストラリア人の里親スー(ニコール・キッドマン)が、彼女もまた“強い話”を持つ女性であることが次第に明かされていくことになる。それは彼女と夫のスー(デヴィッド・ウェンハム)がインドから孤児を養子に迎える理由の根幹に関わることで、特に彼女の生い立ちとその中で受けた天啓、そしてそれを自身への試練と課すことで育んだ厳格主義的な倫理感が彼女を篤志家を超えた実践者としていたわけで、サルーに続いて迎えた養子マントッシュ(デヴィアン・ラドワ)があらかじめ抱えていた肉体的あるいは精神的問題ですらを、この夫妻はさらなる試練として欲したのではないかと勘ぐらざるを得なかったのである。スーのこうした介入により、映画のメインディッシュとして喧伝されるサルーによる過去の追跡劇は実の母親とスーへの罪悪感の象徴としてのみ機能し、過去に近づくに連れその罪悪感の天秤が傾きを変えていく苦渋だけが延々と見せつけられる上に、作劇上いつサルーが学校を卒業して就職し、その苦渋により仕事も辞めてしまったのかといった時間の経過がまったく描かれないことで、膨大で茫漠とした試行錯誤を経て実家の発見という消失点に至る希望と焦燥のレースがまったく影を潜めてしまっていたように思うのだ。したがって、この映画のピークは既にサルーと実の母が出会うシーンでもあの夜生き別れになった兄の人生を知ることでもなく、前半で描かれるインドにおける子供たちの不幸な実態とそれを養子として迎え入れる里親の倫理的なシステムを周知させたところでスクリーンから告げられるユニセフへの協力を促す瞬間であって、これがユニセフの壮大なプロダクト・プレイスメントだったことをようやくにしてワタシ達は知るのである。その時ワタシは、ルーニー・マーラでさえも箸休め以上に爪痕を残すことを許されない巨大で正しく烈しい力が、スター・デストロイヤーのように頭上を越えていったのを確かに観た。
posted by orr_dg at 15:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする