2017年04月28日

スウィート17モンスター/いつかどこかで誰かのために

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グランジ(とっくに死語か)以降のアップデート版ジョン・ヒューズ・ムーヴィーなどと書こうものなら速攻でネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)の餌食になるに違いなく、ほんとうは誰が自分を一番愛してくれているのかを知ることで幸せを手に入れるジョン・ヒューズのヒロインなど、誰よりも自分を愛しているのはこの自分のはずなのにその自分を私は嫌い憎むことしかできないのだ、と“ナイフみたいにとがっては触るものみな傷つけた”ギザギザなネイディーンにしてみれば、不戦勝のイカサマ野郎と吐き捨ててみせるにちがいないのだ。したがってここにはことさらネイディーンを不幸に陥れるスクールカーストも無関心で無理解な大人たちも存在せず、彼女を取り巻く人々はそれぞれが自身に帆を張っては人生に漕ぎ出すのに忙しいわけで、ジョン・ヒューズ・ムーヴィーであれば金持ちのボンボンであってもおかしくないニック(アレクサンダー・カルヴァート)でさえ、ペットショップでバイトをして買ったのだろう中古車を走らせているのである。となれば彼女がすべきは外敵のデストロイではなく内なるモンスターを自身の手で葬ることに他ならないのだけれど、それがなかなか果たせない苛立ちに加え、ではモンスターを殺した後の自分にいったい何が残るのかという不安の背中あわせまでを求めた監督の残酷なファニーと、真夜中に爪あとを伝う涙でそれに応えたヘイリー・スタインフェルドの不機嫌な馬鹿力が、この映画を愛すべき青春の一人相撲としてあまたのレッテルから自由に放ったように思うのである。クリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)に放ったらかしにされたパーティで、アヤシイのはダメ、アヤシイのはダメ、でもなんでこうわたしは不格好になっちゃうんだろ、リラックスよ、リラックスして楽しめばいいのよ、さあ、行って誰かに話しかけるのよ、とバスルームで自身を叱咤激励するもあっという間に撃沈され、意気消沈したところで出くわした見知らぬ女の子との映画談義で盛り返すかと思いきや、相手が映画(『ツインズ』)を引き合いに出したのは華やかでイケてる兄ダリアン(ブレイク・ジェナー)と自分を似ても似つかない兄妹としてネタにするためだったことに気づいて再度撃沈されるわけで、このあたりの笑いながら刺してくるくだりを含め、監督&脚本のケリー・フレモン・クレイグがみせる、キャラクターに正当な痛みを与えることでヴィヴィッドな震えを生み出す話法にはリチャード・リンクレイターの好ましくて的確な影響がうかがえて、『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』に引き続きブレイク・ジェナーのマチズモフリーな魅力を重要な彩りとしたあたりなどむしろそれを嗅ぎ取ってくれることを望んでいるようにも思えるし、ワタシがリンクレイターの名前を出したのもケリー・フレモン・クレイグに対する賞賛の現れであることは言うまでもない。ネイディーンのメンターおよびライ麦畑のキャッチャーとして、いつものように小さく口をすぼめながら、静かに急かさず彼女を見守るウディ・ハレルソンの穏やかなリベラルがアメリカ映画の良心としてことさら沁みてくるように思うのは、気づかぬ内にワタシも昨今の荒んだ気分に染まってしまっているからなのだろうなと少しだけ錆が落ちた気もしたし、ヘイリー・スタインフェルドの麗しきキャリアアップと、ケリー・フレモン・クレイグという監督の祝福すべきデビューを確認するためにも「“あの頃”のリアルなイタさを描く愛すべき青春こじらせ映画!(オフィシャルサイトより)」などと言った紋切り型で高をくくって見逃してしまうのは少しばかりもったいないと思ってる。
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2017年04月25日

午後8時の訪問者/ドアをノックするのは私だ

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※展開に触れています

たった一度の、しかし取り返しのつかないノーを償うために、もうこれからは私からノーと言うことはしないのだと誓ったジェニー(アデル・エネル)は、それが真夜中に往診を求める電話であろうと、往診先ですすめられるコーヒーであろうと手作りのワッフルであろうとサンドイッチであろうと詰め合わせた菓子であろうと、差し出された手にはすべてイエスと言って自身の手を重ねていく。しかしそこに偽善の香りがまったくしないのは、NOと言わせた正体を自身に巣食うエゴと見定めることで、すべての行動と思考からエゴの落とす影を徹底的に取り除きそれを殺そうと企てているからに他ならず、失われた命が取り戻せないかわりに私は死者の尊厳を取り戻さねばならないのだと、死者の歩んだ道をたずねてまわるジェニーの、陽のあたる感情を押し殺した目つきと口元は次第にハードボイルドの寄る辺なさを語り出しさえするのである。かつて研修医ジュリアン(オリヴィエ・ボノー)を「患者の痛みに影響されすぎる」と非難した彼女のテクニカルな合理性は優秀な医師として兼ね備えるべき資質なのだろうし、実際彼女はその能力にふさわしい職場を一度は手にするのだけれど、その合理性で割り切れない究極としての死を本来それに立ち向かうはずの自らが招いてしまったことで、医師とは、少なくとも自分が考える医師とは、合理性の精度を追求することではなくその割り切れなさを共有し共感することを最善とせねばならないのだと、余白の内省ではなく前線をたった一人行動することで理解していく姿の透明な孤絶はやはりハードボイルドの情動そのものであったように思うのだ。だからこそ、いまの私はどうなのだろうか、少しは変わったのだろうかとおぼつかなく切り出す「抱きしめてもいい?」という問いかけと、おずおずと手を回しぎゅっと抱きしめるそのハグによって解放された愛情と共感こそが、割り切れなさの欠片がこれ以上飛び散ってしまわないよう繋ぎとめるために彼女が見つけた、唯一確かな手ざわりとしての答えだったのだろうし、あくまで彼女のアクション(行動)によって紡いできた物語の逃げも隠れもしない着地としても完全だったのではなかろうか。水辺で死んだ少女や閉ざされたドアが現実のどんな側面を意味していたかは承知した上で、観客としてのワタシはただただ幸福であったのだ。それにしても、終盤のあるシーンにおけるボタンをめぐる一連の底知れなさである。緊張と緩和の間にあってそのすべてとの関わりを断った瞬間とでも言うか、それはジェニファーが世界の全てに対してある種暴力的とも言えるフラットを獲得したことの証しなのか、その後で起きることに対するジェニファーのカウンターブロウを思ってみれば、この時のジェニファーには既に世界が止まって見えたのではなかろうかとすら思ってしまうのである。ここはちょっとばかりとんでもないことになった瞬間で、何かの禁忌にふれた感すらあった。
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2017年04月19日

T2 トレインスポッティング/未来を裏切れ

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インサートされるクラッシュは「ハマースミス宮殿の白人」だったけれど、この映画の夕暮れのような泣き笑いと突っぱりを慰めようとワタシの頭の中で流れていたのは「レベル・ワルツ」だったのである。俺たちは敗れてしまったけれど、かつて反乱のワルツだった調べはまだ聴こえている、いまはそれに合わせて踊っていようか、俺たちは敗れてしまったけれど、とジョー・ストラマーが切々と諭すように反逆の終焉を歌っていて、センチメンタルもメランコリーもすべて受け入れては家に帰れと解放してくれる。ではいったい家に帰った後で何をすればいいのか。レントンが躊躇も呵責もなく裏切って捨てたベグビーは彼なりの通過儀礼を今さらにして果たしてはみせたし、レントンにとってつねに庇護すべき対象だったスパッドは誰の助けも借りずに自分の足で立つ世界を見つけている。サイモンはとにもかくにもひとりきりでの敗け方と転がり方を知る男である。T1がレントンのナレーションで推移する物語であったことを思い出してみた時、ではその語り部はいったい何をどう敗けたのか。生家に戻ったレントンが例の壁紙もそのままの「子供部屋」に荷物を解き、40を超えて親と同居する日々に果たして沈むのか浮かぶのか、例のレコードの例の曲に針を落としてはやがて来るプライヴェートヘルに身震いするかのようにのけぞるラストの、まだお前は正式に敗けてすらいないよなという誰かの断罪は、例の曲がレントンをどこに連れ戻すのかを想い出してみた時に、果たしてそれはお前の20年をチャラにしてやってもいいぜ、なのかそれとも、お前の20年は無意味で空っぽでドブに捨てられたようなもんだぜ、という通告のいずれであったのか、どちらにしろ冷たい汗が背中を伝い続ける無限ループの寄る辺なさにT1の快哉は見当たらなかったのである。オレみたいな人間は目の前の人生を素手でつかみ取るしかないんだよ!とベグビーが爆発させる屈託はそのまま他の3人の胸の内でもあったはずで、したがってベグビーの病的とも言える怒りの大部分は自分がつかみとるはずであったそれをレントンに先回りされた悔しさが培養したには違いないのだけれど、スパッドが書いた物語の「ベグビーに良心が痛むことはなかった」のくだりをじっと読むベグビーのカットを添えることによって、ダニー・ボイルはほんの一瞬ベグビーの肩を持ったように思うのだ。だからこそレントン首吊りのシーンに至るむき出しの怒鳴り合いと、その後でレントンに引導を渡すべく抱きしめるベグビーの目つきがひとときソシオパスから自由になっていたように映るのではなかろうか。そんな色づけに思わず気を取られてしまうくらいダニー・ボイルはこの映画を醒めた責任と代償で律していて、しかしそれは道徳とか倫理とか言うよりは、かつてサイコロの目にスリルを見ては一喜一憂していた日々も、人生に流れる時間の中でその出目は次第に均質へと収束してしまうこの世界のことわりに対してであって、T1を様々にフラッシュバックさせてはそれを現在に対照させつつバランスシートをつきつけることで、観客にとっての20年までも総括するよう促していたようにすら思うのだ。レントンがヴェロニカ相手にまくしたてる長口上はそのインスタントな総括でもあるのだけれど、その先に待ち構えているのは、さて、お前は残り少ない未来に何を選ぶ?という逃れられない問いかけなのである。そして、いまだ答えを持たないレントンと他の3人との決定的な違いが彼をあの「子供部屋」に閉じ込めてしまうのではなかろうか。気がつけばワタシも流れ弾をくらっていた。


選べ、ブランド物の下着を。むなしくも愛の復活を願って。
バッグを選べ。ハイヒールを選べ。
カシミヤを選んで、ニセの幸せを感じろ。
過労死の女が作ったスマホを選び、
劣悪な工場で作られた上着に突っ込め。
フェイスブックやツイッター、インスタグラムを選び、
赤の他人に胆汁を吐き散らせ。
プロフ更新を選び、“誰か見て”と、
朝メシの中身を世界中に教えろ。
昔の恋人を検索し、自分の方が若いと信じ込め。
初オナニーから死まで、全部投稿しろ。
人の交流は、今や単なるデータ。
世界のニュースより、セレブの整形情報。
異論を排斥。
レイプを嘲笑。リベンジポルノ。
絶えぬ女性蔑視。
9.11はデマ。事実ならユダヤ人のせい。
非正規雇用と長時間通勤。
労働条件は悪化の一途。
子供を産んで後悔しろ。
あげくの果て、誰かの部屋で精製された、
粗悪なヤクで苦痛を紛らわせろ。
約束を果たさず、人生を後悔しろ。
過ちから学ぶな。
過去の繰り返しをただ眺め、
手にしたもので妥協しろ。
願ったものは高望み。不遇でも虚勢を張れ。
失意を選べ。愛する者を失え。
彼らと共に自分の心も死ぬ。
ある日気づくと、
少しずつ死んでた心は空っぽの抜け殻になってる。
未来を選べ。
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2017年04月17日

グレートウォール/プリティ・イン・人力パンク

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チャン・イーモウ率いるカラー・アーミーが天よりつかわされたお仕置きモンスター軍団と万里の長城を舞台に激突する、血湧き肉躍り笑いが漏れるレジェンダリー印の予期せぬ怪作。すべての局面において合理性よりはケレンのわが物顔が受け流され、通りすがりの名義貸しウィレム・デフォーは言うまでもなく、おそらくはチャン・イーモウまでが金を湯水のように使う愉悦にどこかしら正気を失ってしまっているように思えて、どこまでも行き先知らずの意気軒昂なのである。いったいそれが何の役に立つのか甚だ疑問ながらすべては燃えるか燃えないかの二択で決定され、見目麗しき長槍バンジージャンプ隊や戦慄のジョギリ・ショック装置といった、どれだけ言葉を尽くしてもその脱力と滾りのシェイクを語ることは不可能なアクションがつるべ打ちされることになるのである。唯一の良心マット・デーモンはと言えば、やるだけのことはやってやろうという決意の下、絶叫マシーンの乗客のような陶酔と解放に身を委ねた挙げ句アンディ・ラウとのツーショットですら冗談にしか映らない愛と幻想のエクスプロイテーションを実践し、そこに『緯度0大作戦』におけるジョゼフ・コットンの憂鬱は欠片もなかったように思うのである。言わずと知れた世界の七不思議である世界遺産を国策としてアピールする絶好の機会でありながら、いくら何でもアホすぎると当局が判断したのかどうか万里の長城での撮影がまったく許されなかったというエピソードも大変に好ましく、全力で間違った場合それは正解たりえるという映画の不思議をあらためて痛感したのである。これをチャン・イーモウの歴史スペクタクルだと思って観に行った客はバカにするなと怒るだろうし怒る気持ちもわからないではないけれど、それはかつての角川映画に対してマジメにやれと叫ぶ野暮と同じであることだけは理解していただきたいと思う。20年以上前のノスタルジーに汲々とした退行SFよりは、“目の前の人生を素手でつかむ(byフランシス・ベグビー)”狂騒にワタシは乗っかっていきたい。仕事人トニー・ギルロイの名すら見えていた。
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2017年04月16日

ゴースト・イン・ザ・シェル/プリティ・イン・サイバーパンク

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仏作って魂入れず、ということわざを ”No Ghost in the Shell” とでも訳してみたくなったのである。ガブリエルという名のバセットハウンドまで登場させる押井版への愛情を隠さずにおく一方で、意識と肉体の境界をさすらう草薙素子のハードボイルドを根こそぎにしては、わたしは誰?という問いかけを、サイバーパンクという概念とは不可分の認識論としてではなくアムネジアックに解題しては大胆かつ無邪気かつ脳天気に消費してしまう臆面のなさに、何だかいろいろと遠いところに来てしまったなあと、小さくため息などついてみたりもしたのだ。わざわざ人形遣いをクゼという名前に書きかえてまで語られる失われた恋人たちのロマンスには既に衒学の香りもなく、これを『ロボコップ』のアップデートと見切るタイミングを失した時点でワタシの負けということになるのだろう。ホログラムの未来、無国籍風アジアのジャンク、ネオシティの憂鬱といったフューチャリスティックなはずの背景にノスタルジーすら感じてしまう錯綜も押井版GITS(1995年)が既に20年以上前のメルクマールであることを思えば特に不思議なわけではないのだけれど、むしろ問題は同じ年に討ち死にした『JM』のハリボテのサイバーパンクまでもが、ビートたけしの機能不全とあわせて香ってしまうことにあるのではなかろうか。今の時代であれば、無双の改造者率いるタスクフォースものとして『シヴィル・ウォー』という恰好のモデルを寝取るべきだろう。ロマンスならロマンスでバトーをトライアングルに加えてやればいいものを、「素子ぉぉ」要素のないバトーがこれほどの木偶に映るとは思いもよらず残酷であった。
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2017年04月15日

ストロングマン/頭の上の蠅の王

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最近のギリシャ映画はというかヨルゴス・ランティモス監督の界隈による「人間で遊ぼう」系のすっとぼけた探求は他の追随を許さない感じで、ハネケのように「人間(が壊れるま)で遊ぼう」と追い込みをかけない点で好事家の好みは別れるかもしれないけれど、破壊も選択肢に入れつつあえてそちらを選ばない精神の輝度と硬度は、現在のギリシャという国の状況を照らす回答としての光でもあるのだろう。したがって、クルーザーの中で暇つぶしのマウント合戦に興じる男たちにも最後まで罰らしい罰が下されることはないのだけれど、家族なり恋人なり仕事相手なりの社会的な視線から身を隠した中でめざす名誉の人(原題” CHEVALIER”)を男たちは各々がどのように定義したのか、小さくいじらしい生き物としての男たちの微に入り細をうがつ見透かし方に、悪意というよりは呆れ半分の赦しを得た気分だったのである。冒頭、一見したところ精悍に映るウェットスーツを脱いだその下から現れる白くたるんだ肉体を晒すことで、監督はあらかじめ彼らの対外的な尊厳(=マチズモ)を剥奪してしまっていて、その後で繰り広げられる目くそ鼻くそのつばぜり合いにしたところで掃除であるとか生活のマナーと言ったマチズモの発揮とはほど遠いふるまいを要求しているのだけれど、コンテストも押し詰まった終盤である人物が提案したマチズモの権化のような儀式に周囲が腰を引く中、ただ一人賛同したのがマチズモとは最もほど遠いところにいると思われた男だったことで、実はそうした男ほどマチズモへの憧憬に溢れているというペーソスまで滲ませて、救いがたさへの寛大さと容赦のなさを掌中で転がす澱みのなさに感じた心地よさは被虐の快感でもあったのか。しかし、ラストで陸に上がった男たちがノーサイドの笛で夢から醒めたかのように三々五々散っていく中、何の変哲もなかったはずの指輪が勝者の指におさまることで何かしらの意志を光らせたようにも見えるショットに、こんな益体のない争いであっても敗者の屈託が新たな悪魔(=エゴ)を召喚して勝者に憑依させてしまうことの厄介と薄気味悪さを告げていて、その瞬間だけは真顔のホラーに思えたのである。彼ひとりだけが変質して家に帰るのだ。
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2017年04月12日

レゴⓇバットマン ザ・ムービー/ダークナイト・フォーリング

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バットマンがひとりロブスターを食べるシーンの寂寥に、この映画の企んだ身もフタもなさがまずは最初に告げられ、この映画においてはそれが許されるのだということが宣言されて以降、アルフレッドを筆頭にロビン、バットガール、そしてついにはジョーカーまでもがスクラムを組んで、ブルース・ウェイン=バットマンに対するゴッサム・シティをあげてのカウンセリングが開始されるのである。それもそのはず、バットマンが自らの孤独と弱さを自覚してそれを克服しない限りバットマンの鏡像として存在する他のキャラクターたちはいずれ消え行く運命にあると同時に、それはすなわち主体としてのバットマンの存在そのものの危機となり、ひいてはゴッサム・シティの消滅ということになるわけで、ラストでついにバットマンが他者とつながることを(レゴならではのやり方で!)自ら欲した時にゴッサム・シティは救われて、アメコミという終わらない日常が約束されることになるのだろう。ファントム・ゾーンに囚われているのがみなゴッサム・シティに住むことが本来許されていないもの=バットマンを必要としない他社ヴィランたち(キングコング、クラーケン、サウロン、ダーレク、エージェント・スミス、T-レックス、ジョーズ)であったことはあらためて言うまでもない。そういった大団円を経て、オレはお前でお前はオレでという逃れられない関係性の泥仕合こそがアメコミの永久機関であることをあらためて知ってみれば、DCにしろマーヴェルにしろユニヴァースにおいてさらに顕著な甘噛み感がホームドラマのそれであることに今さらながら気づくのではなかろうか。だからそれはいつだって闘いではなく喧嘩なのである。
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2017年04月10日

LION/ライオン 〜25年目のただいま〜/同情するなら金送れ

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フィクションであれば荒唐無稽と一蹴されるような、事実は小説より奇なりという常套句そのものの“強すぎる話”を成立させるためか、地ならしとなる前半のインドパートは思いのほか丹念に描かれて、少年期のサルー(サニー・パワール)が退場するまでにおよそ映画の半分(60分)が費やされている。そのパートでは、表情や身体の動きを驚くほど繊細に操る子役サニー・パワールの名演と彼が次第に堕ちていくインド社会の裏側がサスペンスフルに活写されることで「オリヴァー・ツイスト」的な奥行きすらを持ち始め、仕込みとしてはかなり上々だったのである。ある問題が生じるのは、舞台をオーストラリアに移しサルーをデヴ・パテルが演じるようになってからで、この“強すぎる話”をあくまでサルーの物語と追っていたワタシの前に現れたオーストラリア人の里親スー(ニコール・キッドマン)が、彼女もまた“強い話”を持つ女性であることが次第に明かされていくことになる。それは彼女と夫のスー(デヴィッド・ウェンハム)がインドから孤児を養子に迎える理由の根幹に関わることで、特に彼女の生い立ちとその中で受けた天啓、そしてそれを自身への試練と課すことで育んだ厳格主義的な倫理感が彼女を篤志家を超えた実践者としていたわけで、サルーに続いて迎えた養子マントッシュ(デヴィアン・ラドワ)があらかじめ抱えていた肉体的あるいは精神的問題ですらを、この夫妻はさらなる試練として欲したのではないかと勘ぐらざるを得なかったのである。スーのこうした介入により、映画のメインディッシュとして喧伝されるサルーによる過去の追跡劇は実の母親とスーへの罪悪感の象徴としてのみ機能し、過去に近づくに連れその罪悪感の天秤が傾きを変えていく苦渋だけが延々と見せつけられる上に、作劇上いつサルーが学校を卒業して就職し、その苦渋により仕事も辞めてしまったのかといった時間の経過がまったく描かれないことで、膨大で茫漠とした試行錯誤を経て実家の発見という消失点に至る希望と焦燥のレースがまったく影を潜めてしまっていたように思うのだ。したがって、この映画のピークは既にサルーと実の母が出会うシーンでもあの夜生き別れになった兄の人生を知ることでもなく、前半で描かれるインドにおける子供たちの不幸な実態とそれを養子として迎え入れる里親の倫理的なシステムを周知させたところでスクリーンから告げられるユニセフへの協力を促す瞬間であって、これがユニセフの壮大なプロダクト・プレイスメントだったことをようやくにしてワタシ達は知るのである。その時ワタシは、ルーニー・マーラでさえも箸休め以上に爪痕を残すことを許されない巨大で正しく烈しい力が、スター・デストロイヤーのように頭上を越えていったのを確かに観た。
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2017年04月09日

ジャッキー/あれは鳥の音かしら

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途方にくれた悪魔のため息のようなミカ・レヴィのストリングスに導かれ、幽鬼と化したジャッキー(ナタリー・ポートマン)が黄泉の国を彷徨うがごときオープニングの異様が、これは伝記ではない、陳腐な言葉遊びと笑ってもかまわないがむしろ伝奇であると告げていて、1963年11月22日午後12時30分に粉砕された夫の頭蓋骨と脳漿を半狂乱でかき集めた彼女のおおよそもおそらくはその時一緒にボンネットに飛び散ってしまったこと、そうやって昏睡した空蝉と化した彼女がなお動き続ける自律運動が奥底からの電気信号によっているのだとしたら、その時間に存在したジャッキーこそすべてのノイズが取り払われたオリジンだったに違いなく、ジャーナリスト(ビリー・クラダップ)を前に彼女が行ったのは、そうやって離脱したオリジンを自身に憑依させて語る口寄せだったようにも思うのである。したがって、自身が何を口にしたのか知る術のない彼女が彼のメモをチェックする、というよりは何が書いてあるか知ろうとするのは至極当然だろう。既に破綻した結婚生活を背負いつつファーストレディの座に幽閉された彼女にとって、ホワイトハウスを神殿とする神話を紡ぐことが正気のよりどころであったことを忘れなければ、「俺たちはまだ何もやっちゃいないのに!」と叫ぶボビー(ピーター・サースガード)の言葉を借りるまでもなく、幽鬼のジャッキーを駆り立てるのがアメリカの父となる前に退場を余儀なくされたジャック(キャスパー・フィリップソン)を父殺しの神話に祀る儀式への妄執であることは言うまでもないのだけれど、ワタシ達はその完遂が彼女自身をもアメリカの寡婦として神話の中に捕らえてしまうことを知っているからこそ、彼女が神父(ジョン・ハート)に告げた死の願望をそこに嗅ぎ取ってしまうのだろうし、ひいてはその連鎖がボビーをも連れ出したのだろうことまで幻視してしまうのである。そんな風にアメリカ稀代のアイコンを描くに際しここまで全編に渡って死を通奏低音としたのは、アウトサイダーであるパブロ・ラライン監督にしてみれば、この事件にアメリカ建国以来の性癖である死と理想の相姦を見てとった上で、この国では常に理想と刺し違えるのが愛ではなく死であることを確信すればこそ当然のことだったからなのだろうし、それはダーレン・アロノフスキーがアメリカを視てきた視線そのものとも言えるのではなかろうか。完璧にコスプレしたナタリー・ポートマンはいつにも増して寸足らずではあるのだけれど、例えばナンシー・タッカーマン役に長身のグレタ・ガーウィグをあてるなどしてそれを異形とすることで異化を深々とすることに成功していたし、『ブラック・スワン』での彼女についてはあの映画に居合わせたハプニングとアクシデントの気配をいまだにぬぐえないでいるのだけれど、ここでの彼女は両の手を血に染めて削りだしたゴーレムを自らとして、偽の命を吹き込んではそれを泥の芝生で引きずり回すように操って見せて、ワタシにとってこれが彼女のキャリアハイとなったのは間違いないように思う。いささか酩酊気味に観ていたせいで、薬指から指輪を外したジャッキーがそれを呑み込んだようにみえてしまったのだけれど、この映画においてはむしろそれでもいいとすら思ってしまっている。
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2017年04月07日

クローズド・バル 街角の狙撃手と8人の標的/スカムフル・エイト

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※若干展開バレ

邦題は羊頭狗肉ギリギリで、おそらく担当者は予告篇だけ見てこの長たらしい副題をつけたのだろうと邪推されてもまあ仕方のないところだし、いわゆるソリッド・シチュエーション・スリラーなのは間違いないにしろ、イグレシアが本領を発揮するのはほぼ前半部分を知らせるに留まった予告篇のその先にあって、いつしか人々は下着姿となってこけつまろびつしつつ、ほとんどマクガフィンと化したあるブツをめぐっては糞便漂う下水で血を洗うバトルロイヤルを繰り広げることになる。『ビースト 獣の日』ではレイシズムを、『気狂いピエロの決闘』ではスペイン内戦の傷跡を、『刺さった男』では拝金の狂騒、『グランノーチェ』では労使問題をといった風に何かしら捨て置けない外部を取り込んでは切り刻むタイプのイグレシア作品に比べると、新妻カロリーナ・バングを見せびらかすための映画であった『スガラムルディの魔女』のように、怪物的な地肩でプロットをなぎ倒しながら疾走するタイプのイグレシア作品であって、これが『REC』の外枠を借りていることや、先だって感想を書いた『おとなの事情』のスペイン版を撮っているのがイグレシアであることなど知ってみると、今はそうやって凪ぐことで過剰なアウトプットを控える時期であるのかなあと少しだけ物足りなくあったりもするのである。とはいえ、オフビートな緊張とグロテスクな緩和による暴力的なアップダウンと、それでいて常にヒューマニティが背中合わせになっているアールのついた語り口はイグレシアスならではで、パンフレットが作られるくらいの公開規模で新作が観られないことの不幸はやはり嘆かわしいとしか言いようがない。思わず見入ってしまうオープニングのタイトルバックはある展開のヒントというか確証となるので、ストーリーが素っ頓狂な素振りを見せ始めたら思い出すといい。「鍛えてるぞ!」の意味の無さをこそワタシは愛してやまない。
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2017年04月03日

ムーンライト/月まで泳ごう

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オープニング、インパラから降り立って通りを見渡すフアン(マハーシャラ・アリ)を追いかけるようにカメラもあたりをぐるりと見渡しては、そこに映ったものがこの映画で語られる「世界」のすべてであることの閉塞と絶望と困難をまずは告げてみせる。そしてこれもまた、あらゆるワタシたちにあったはずの『6才のボクが、大人になるまで。』ではあるのだけれど、メイソンのそれが内なる自分を敵と闘う思春の戦場を生き残るビルドゥングスロマンとして祝福のうちに語られたのに対し、シャロンにとって敵はいま自分をつつむ世界そのものに他ならず、したがってそこを生き抜くために綴られるのは、寄る辺のない必然としてピカレスクロマンにならざるを得ないのだろう。だからこそシャロンが手に入れたパンプアップした肉体やゴージャスでうるさい車のどこにもアメリカンドリームの勝ち誇ったマチズモなどあるはずもなく、それは鎧を身につけ砦にこもる生き残りの術でしかないわけで、その中にうずくまるのはかつて放課後のいじめから廃墟に逃げ込んだままのシャロンにほかならない。そもそも自分がいったい何者に変わることができるのか、希望や未来の手ざわりを知らずに育ったシャロンが可能性を人生の尺度とすることなどはかない夢に過ぎず、唯一できることと言えば父の幻想を自分に許したフアンをトレースすることだったのだろうし、ダッシュボードの王冠はフアンの遺志をストリートで受け継いだことの控え目な象徴でもあるのだろう。そして自分のセクシュアリティに関しても折り合いをつけたというよりはやはり鎧の奥に閉じ込めて鍵をかけ、亡いものと殺してしまっていたのだろう。だからこそケヴィンからの電話によって亡霊を視たかのように狼狽したのだろうし、蘇った記憶による混乱とオーヴァーロードを寂寥に満ちた夢精によって描いたシーンは、セクシャリティが肉体を司る精神と直結していること、すなわちセクシュアリティもまた揺るがし難いパーソナリティであるがゆえのやるせなさとままならなさを一瞬で焼き付けて少しだけ震えたりもした。テレサ(ジャネール・モネイ)の手料理、ケヴィン(アンドレ・ホーランド)が作ったシェフのおすすめ料理、フアンに抱きかかえられた浅瀬(言うまでもなくあれは洗礼だろう)、初めてケヴィンに触れられた月明かりの浜辺、ポーラ(ナオミ・ハリス)が伸ばしてつかまえた腕、そして再びケヴィンに抱きすくめられる夜、シャロンが世界とつながることができるのはそんな風に誰かの手ざわりを得た時であって、触れることのできる誰か、触れてくれる誰かがいる限り救いは必ずあるのだという、それは言い古され手あかのついた物言いかもしれないけれど、そこに立ち返りそこから始めなければならない人がいることをほんとうに知ってほしいのだと訴えるこの映画がまとう静かで白い光の美しさは、この111分を祈りと捧げるための曙光であったに違いない。
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2017年04月01日

パッセンジャー/寝るジェニファーは育つ

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クリス・プラットだからいいようなものの、ジェニファー・ローレンスだからよかったようなものの、とでも言うしかない話自体は言い訳のきかないかなり厭な踏み切りをしてしまうわけで、だったら最初からそんな厭な話にしなければよかったのにと思うくらい、自分で自分の手足を縛り首を絞めてはそこから抜け出そうともがき続けるマッチポンプの鬱屈が宇宙船内を満たしてしまうせいで、茫漠とした宇宙の孤独であるとかいったSFの理由はいつの間にか失われてしまっていたのである。したがってこの映画がスリリングであり続けるのは、いったいいつどんな風に秘密がバレてジェニファー・ローレンスがブチ切れるかというその一点にかかっていたわけで、そうした期待に応えるべく憤怒の表情で打ち下ろしの右ストレートをクリス・プラットの顔面に叩き込む瞬間こそがピークであったのは言うまでもなく、それ以降はいたずらに散らかされた部屋の後片付けを粛々とするようなものであって、散らかした覚えなどあるはずのないローレンス・フィッシュバーンまでがなぜだか駆り出されてはそれを命がけで手伝わされたりするのである。自身の手で可能性をコントロールすべく地球を蹴った2人が蓋然性にひたひた喰われていく悲劇と、それに立ち向かうことで手にした幸福を人間性の証と綴るためにはやはり愛とかいった光ある武器が必要だったのだろうし、ともすればメタファーやら何やらに逃げ込みがちな昨今にあってその一点突破に賭けた試み自体は悪くなかったと思うのである。というのもひととおりを面倒で厭な話にしてしまえば何も苦労することがなかったように思うからで、例えば2人の間に厳然たる階級差をしつらえてやれば(劇中でもあったその設定が生かされなかったのは何とももったいない)『流されて』的な逆転の関係性による愛の形がサスペンスフルであったろうし、あるいは『エリジウム』的な下克上の社会実験が可能だったかもしれない。その場合、ジム・プレストン(クリス・プラット)は代替可能なリペアマンとして宇宙船の意思によって“起こされた”ことになるのが望ましく、オーロラ・レーン(ジェニファー・ローレンス)は宇宙船を擁するコングロマリットの社長令嬢あたりであるのがこれまた望ましい。ただそうなってくると、出会うはずのなかった2人が出会う物語にしては、クリス・プラッットはともかくジェニファー・ローレンスに銀のスプーンをくわえたかごの鳥感が皆無だったわけで、前述した打ち下ろしのストレートなど思い出してみればそもそもクリス・プラッットが主従を逆転する可能性などはなからなかったに違いなく、それはもう散々劇場予告で見せられた、懸命に作品の紹介をするクリス・プラッットに、ああもうまだるっこしいわねとばかりカットインするジェニファー・ローレンスの図に明らかだったわけで、ジェニファー・ローレンスを据えた時点でこの映画はとっくに退路を断っていたということになるのだろう。それにしても医療ポッドである。SF映画は厄介なガジェットを手に入れてしまったものだなあと思うわけで、『プロメテウス』や『エリジウム』をみればわかるように取り扱いには最大の抑制と細心の注意を払わなければならないのは言うまでもないし、行き詰ったシナリオのジョーカーとして安易に切ってしまうとそれまでなけなしで維持してきた作劇のリアリティとサスペンスが霧散してしまうことをもう一度肝に銘じ、一日を医療ポッドに頼ることなく過ごせたかどうかをシナリオライターは日々の矜持とすべきだろう。何だか3秒ルールみたいで品がないんだよあれ。
posted by orr_dg at 00:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする